第1話 崩壊のはじまり
世界は愚かなる言の葉と
完全なる数によって補完されている。
数とは公理であり、原理であり、定理である。
すなわち数とは――神である。
――願うのはただひとつ
21グラムの返還のみ。
それは森羅万象の意思により
天秤からふるい落とされた命の値―――
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――2017年・夏。
島根県奥出雲町。
女神伝説で有名な観光地、鬼の舌震を、一人の少年と少女が歩いていた。
【倖大】
「なあ、珠陽。どこまで行くんだ?」
【倖大】
「もうこの辺でいいんじゃないのか?」
険しくなってきた道のりに、少年が音を上げる。
先を歩いていた少女は足を止め、呆れた顔で少年を振り返った。
【珠陽】
「……まーたそんなこと言って!」
【珠陽】
「いつも家に引きこもってばっかりだから、体力ないんだよ、倖大は」
【珠陽】
「今日だってせっかくのお休みなのに」
【珠陽】
「わたしが誘わなきゃ、部屋から一歩も出てこなかったでしょ」
【倖大】
「人をたちの悪い引き込もりみたいに言うなよ」
【倖大】
「別に、好き好んで閉じこもってる訳じゃなし」
【倖大】
「……疲れるんだよ、外に出ると」
普通なら言い訳にもならない理由だが、珠陽は怒ることはせず、仕方がなさそうに肩をすくめる。
【珠陽】
「相変わらずなの? “あれ”」
【倖大】
「変わらないよ、昔から。……っていうか、年々見え方が酷くなってる気はする」
【珠陽】
「……そうなの?」
心配そうにしてみせる珠陽に、倖大はあえて笑ってみせた。
【倖大】
「大丈夫だって。もう慣れたし。視界がうっとうし事以外、問題もないし」
【珠陽】
「……それならいいけど……」
【倖大】
「あ、珠陽。それよりあの辺の景色とかどうだ? 綺麗じゃないか?」
【珠陽】
「えっ? ……あっ、本当だ。いい絵が描けそう!」
【珠陽】
「今度こそ、コンクールで入賞できるといいな」
笑顔で山道を進んでいく珠陽に、倖大はほっと胸をなで下ろす。
(また、珠陽に心配かけるところだった)
(もう二度と、あんな顔はさせないって誓ったのに……)
【珠陽】
「倖大ー! ほら早く早くー!」
【倖大】
「はいはい、今行く」
とはいえ運動不足の体には、やっぱり山道はこたえる。
そんなことを思いながら、倖大は重い足にふたたび力を込めて、懸命に彼女の背中を追い掛けた。
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【珠陽】
「じゃあわたし、しばらくここで描いてていい?」
【倖大】
「いいよ。俺この辺で寝てるから。終わったら声かけて」
【珠陽】
「せっかくいい景色なのに」
【倖大】
「俺にはただの57394と26894と167891にしか見えない」
イーゼルを設置する珠陽の横に、足を投げ出して倖大は寝転がる。
彼にとって目を閉じることは、解放だった。
いつでも視界に入り込んで来ようとする、不可思議な“数字”からの。
(本当、いい加減慣れたけどさ。この“数字”)
倖大の目には、この世のあらゆるものに“数字”が割り振られて見える。
木にも、山にも、動物にも、――もちろん人にもそれぞれ固有の番号がある。
(幽霊とか精霊とかならまだしも、なんで“数字”なんだか)
(本当、意味わかんねえな)
そのせいで倖大は、昔から出歩くのがあまり好きではなかった。
ただ一人事情を知っている幼なじみの珠陽は、そんな倖大を心配して、
何かと外に連れ出してくれようとする。
【珠陽】
「ねえ、倖大。そういえばここって、女神の伝説があるんだよね?」
【倖大】
「ん?」
【倖大】
「あー……、なんか女神に惚れたワニがストーカーになる話だろ?」
【珠陽】
「もう、なにそのムードのない言い方」
昔、この山には美しい女神がいた。
その女神を好きになったワニが、川を登って足繁く通い詰めようとしたものの
女神に拒絶されて、大きな岩で道を塞がれてしまうという伝説だ。
【珠陽】
「女神様だって、色々悩んだ末の結末だったのかもしれないよ」
【珠陽】
「神様の恋なんて大変そうだし……」
【倖大】
「恋ね。……珠陽は……好きな奴いんの?」
珠陽は驚いたように肩を跳ね上げ、イーゼルに足を引っかけた。
【珠陽】
「な、ななに、急に。別にそんな、わたしは……」
(――あれ?)
ふと、挙動不審になった珠陽の後ろに異常な数値が出現する。
(なんだあれ、おかしいぞ。あんな数字いままで見たことがない)
153.153.153.153.153.153.153.153.153.153.153.153.
153.153.153.153.153.153.153.153.153.153.153――……
【倖大】
「珠陽……!」
背筋に悪寒が走る。
倖大は咄嗟に珠陽へ手を伸ばし、彼女の肩を掴んで引き寄せた。
瞬間、携帯からけたたましいサイレンが鳴り響く。
【珠陽】
「!?」
【珠陽】
「倖大! 緊急地震速報が――」
言葉が終わらないうちに、ズン、と大きく地面が揺れた。
【倖大】
「なっ!?」
【珠陽】
「きゃああああっ」
足元が揺れる。
木々がきしみを上げる。
(数字が――、混ざる)
――…世界が混在する……!!
【倖大】
「珠陽!!!!!!」
倖大は咄嗟に珠陽を腕の中に庇い、形を変えて襲い来る山肌から守ろうとした。
(頼む、俺はいい。だから彼女だけは――)
土砂崩れが起きたと分かった次の瞬間には、倖大の意識は巨大な闇に飲み込まれ、ふつりと途切れた。