プロローグ
カタカタとパソコンのキーボードを叩く。周りからは、コピー機の稼働音と忙しなく動き回る足音が聞こえてくる。
オフィス街にあるビルの一室で、俺──柳原一幸は事務処理に明け暮れていた。
俺が勤めている会社は、広告事業をしている。今年で、勤続八年。だと言うのに……、万年平社員。仕事では凡ミスの連発。毎日上司に叱られてばかりいた。
今も今日の会議に必要な資料作りが間に合わず、大急ぎで作っている最中だ。
「はぁ……」
自然と口から息がこぼれる。
ポンッと頭を誰かに叩かれた。
「いかんよ、溜め息なんかしちゃ。幸福が逃げちゃうよ?」
振り返ると俺と同期の綾瀬成美が会議の資料片手に立っていた。
女性にしては、身長が高く、それでいて出るところは出て締まるところはキュッと締まっている。所謂、モデル体型の持ち主だ。
顔も体型に劣らず、スラッとした骨格にふっくらとした唇。勝ち気そうな目、腰ぐらいあるであろう明るい栗色の髪。街中を歩けば体型も相俟って十人中十人が振り向く程の美人と言っても過言ではない。
ただ、見た目の割に中身が……。
「いたッ!?」
「あんた、今失礼なこと考えなかった?」
「いえいえ、そんな滅相もない」
「本当?」
顔を左右に振り、否定するも成美は疑いの目を向け続ける。
成美って、こう言うところだけ妙に感が鋭いよな。
「一幸ぃ……、あんたまたヘマしたの?それ、今日の会議で使う資料でしょ?」
「うぅ…………」
痛いところを突かれ、反論できない。反論する理由がない。だって事実なんだから。
「まぁ、頑張りな。こうした経験が後々実を結ぶはずだからさ」
俺の肩に手を置き、励ましの言葉をかけてくれた。そして、優雅に髪をたなびかせ去って行こうとした。
「な、成美…………って、手伝ってくれんのかい!!」
「なに人に頼ろうとしてんのよ。自分でやりなさい!」
ビシャリときつい一言を言い残し、成美は俺に背を向けた。
「そんなぁ……」
「もぅ、そんな顔しないで……。いざとなったらあたしも手伝うからさ」
「な、成美!ありがとう!」
成美の手を取り、感謝の言葉を何度も何度も言う。その様子に成美は若干、引きつった表情を作った。
そこで、ハッと気付く。
お、俺ななな何て事を……!
気付いたら、成美に抱きついていた。
「ごごごごめん!つい……」
「う、ううん。大丈夫だから気にしないで」
そう言う成美の顔には、苦笑いが浮かんでいた。
あぁ、もう死んでしまいたい……。
成美と俺の間に気まずい空気が流れる。
「………………」
「………………」
どうする。ここは俺から話すべきなのか?いや、でも………。
「………じ、じゃあたし、行くから」
話しかけるかどうか、迷っていると成美の方から話かけてきた。
「お、おう……」
ぎこちなく手を振り、成美を見送る。
成美からきりだしてくれて、すっごく助かった。もし、あのままの状態が続いたらどうなっていたものか……。
成美の後ろ姿を見て、安堵の溜め息がでた。
「はぁ……」
正直言って俺は、成美の事が好きだ。入社当時、高卒だった俺は今までとは違った環境に順応出来ず頭を抱えていた。
そんなとき、気さくに声をかけアドバイスをくれたのが成美だった。
最初は、ただ純粋に親切で綺麗な人だなぁと思ってた。
知り合って以降、成美と親睦を深めて行くうちにいつの間にか……、恋愛感情を成美に対して抱くようになっていた。
今思い返して見れば、一目惚れだったのかもしれない。出会った時に心の片隅では既に成美に対しての恋心が芽生えていたんだと思う。
恋心を自覚して以降、告白しようとしてみた事もあった。しかし……、いざ告白しようとすると途中で勇気が失せ告白出来なくなってしまう。
あの時ほど自分のヘタレさを呪った事はない。
「はぁ……」
昔の事を思い返したら、また溜め息が出てきた。
「あ、そうそう。一幸」
会議室に繋がる階段へ歩いてた成美が振り返る。
「ん、なんだ?」
「まぁ、後で分かるんだろうけど……。あたし、来月“結婚”するの」
「………え?」
成美の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
今、成美は何て言ったんだ?
「えーと、成美、もう一回言って」
「え?だから、あたし“結婚”するの」
──“結婚”。
その言葉が、真っ白だった俺の頭の中をグルグル回っていく。
え、嘘でしょ?今までそんな素振り見せなかったじゃん。休日だって一人で出歩いているようだったし。
よく成美の手を見ると、右手薬指には、指輪が填められていた。
そう言えば、さっき成美の手を握った時指輪を填めていたような──。
「一幸の気持ちには、気づいてたけど……。あたし、“あの人”じゃないとダメなの……だから、ごめん」
悲痛な面持ちで語る成美。
なんだ、知ってたのか……。そっか、告白してもしなくても結局、結果は同じなんだ。
まるで、憑き物が落ちたように、身体中の力が抜けていく。
あぁ……、コレが“失恋”。
まだ成美が話しているようだが、俺の耳には全く入って来ない。
「────そう言うことだから、じゃあね」
話し終えると成美は、そのまま会議室へと向かって行く。
呆然とする俺は、ただただ去って行く成美の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
◇◇◇
成美の衝撃的な告白を受けてから、仕事に身が入らなかった。
午前中も午後も上の空で過ごし、気付いたら一日が終わっていた。
今日一日、会社で何をしていたのか思い出せない。頭の中は成美のことで一杯だ。
あの後、ちゃんと資料作れたのか?
他の仕事もちゃんとやっていたのか?
不安で心配なんだが、それよりも成美の事が頭から離れない方が心配だった。明日も成美と顔を合わせると言うのに……。
赤く夕焼け色に染まった街路地をトボトボと歩く。
~~~♪
不意に携帯が鳴った。
「はい、もしもし……」
『あ、柳原くん?』
電話の相手は、部長の柏木さんからだった。
『柳原くん、ちょっと会社に戻ってくれる?』
「はい、構いませんけど……」
『そう、良かった。じゃあ待ってるから』
電話を切り、ポケットにしまい来た道をまた戻る。足取りが重く感じて仕方がない。
あぁ……気が重い。また、何かやらかしたかな。
会社に戻り、部長の机まで向かう。
「部長」
「あぁ、柳原くん。君にコレを………」
手渡されたのは、一通の封筒だった。
中身が気になり開けてみると、中には───
「ぶ、部長……コレって………!」
「そう言うことだ……」
──“解雇通告”。中に入っていた紙にそう書かれていた。
ははは、ついにこの時が来てしまったのか……。
薄々こうなるだろうと予感していた。
遅かれ早かれ、この日が来るんだろうと。
部長に別れの挨拶をし、俺は会社を後にした。
ふらっと立ち寄った公園のブランコに腰掛ける。
「………死にたい」
ボソッとそう呟くが、俺に自殺なんかする度胸なんてない。好きな人に告白も出来ない奴が自殺出来る訳がない。
「はぁ……」
今日一日で一体、何回溜め息しているだろう。ずっと溜め息ているような気がする。
周りから見ると、今の俺はリストラされたサラリーマンのように見えるのかな?いや、“のよう”ではなくリストラされたサラリーマンなんだ俺は。
ギコ……ギコ……。
ブランコを漕ぐ音が人のいない公園に響く。
「ニャ~オン」
落ち込む俺を慰めるかのように、一匹の猫が一鳴きし目の前を横切る。
まるで、『ドンマイ』と言ってたように聞こえた。
猫に慰められる俺って……。しかも、黒猫に。
ますます死にたくなって来た。
何となくさっきの黒猫を目で追う。
なんか、不思議な雰囲気の猫だな。
黒猫は、周りに目もくれずただ真っ直ぐ道路を横断しようとしていた。
「────っ!?」
黒猫の直ぐ近くに大型トラックが迫っていた。その事に黒猫は全く気付いていないらしく、逃げようとしない。
まずい!
考えるよりも先に、身体が動いた。
「間に合えぇぇぇぇ!!!」
ホント、俺どうかしてるよ。なんの関わりもない猫救おうとするなんて……。
キキキィーーーーー!
タイヤがアスファルトに擦れる音が聞こえた数秒後、身体全身に強い衝撃が走った。
あれ?世界が真っ赤だ……。いや、真っ赤なのは俺か……。
辺りから、悲鳴が上がる。ざわざわと人が集まり出してきた。
そう言や、あの猫は……。朦朧とする意識の中、周りに目をやる。
いた。黒猫は傷一切無く、じっと俺を見つめていた。
助けれたんだ……。良かっ………た………。
冴えない人生の中で、最後に何かを助けることが出来た。それだけで、俺の心は満たされた。
もう、この世に思い残す事はない。
もし、また……人に生まれ変われるのなら……今までに出来なかった事を………してみたいな………。
血の海の中で、俺は微睡む意識を手放した。