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シノニム-境界の砂時計短編集-

5月16日 傷口と痛みの意味

作者: あおかぜ

「自分のため」と答える声が酷く優しいものに聞こえたのは、多分君が目を背けないから。


【5月16日 傷口と痛みの意味】


 吉川透弥は変人と呼ばれている。飄々とした態度に掴み所のない性格。そして時折見せる奇々怪々な行動。クラスメイト達には一歩距離を置かれ、けれどもそんなことは気にも止めていなかった彼は、どういう訳かある日突然、平々凡々な僕に興味を示した。興味を示す、というより懐いたと言う方が正しいのかもしれない。とにかくそれからというもの、僕は彼にちょっかいをだされ、そして振り回される日々が始まった。


 今僕は、吉川くんの右足首と自分の左足首を並べて、ハチマキのような紐で結んでいる最中だ。


「はー、足が窮屈……」

「はいはい、この時間は我慢してね」


 ぼやく吉川くんを諌めて僕は作業を続ける。どうしてこんなことになったというと、話は少し前にさかのぼる。



 5月の4週目、僕らがいる翠葉すいよう高校では体育祭が行われる。クラス対抗で行われる体育祭の種目は全部で5つ。綱引き、二人三脚、大縄、球入れ、リレー。1クラス40人なので、どの種目も8人ずつに分かれて競い合う。


 僕のクラスでは、参加する種目は希望制で決められた。定員をオーバーした場合はその種目内でじゃんけん。僕は1年生の時と同じく、綱引きでの参加を希望していた。しかし、8人という枠の中に対して集まった希望者は全部で9人。そこで行われた運命を決めるじゃんけん。僕は、見事に負けた。

 一人あぶれてしまった僕が放り込まれた先は二人三脚だ。二人三脚は色々面倒だという理由であまり人気がない。そのため、僕のようにあぶれてしまった人たちの寄せ集めみたいな参加者となった。


 参加する種目が決まった後は種目ごとに集まり、体育祭に向けての作戦会議が行われる。そのとき二人三脚チームは、ペアの決め方は身長順にした方が走りやすくていいんじゃないか、という案が出たのでそれを採用することとなった。そしていざペアを決めようとした段階で、僕はチームの中に吉川くんがいることを初めて知った。自分のことでいっぱいだったために全く気付かなかったが、話し合いの場には各チーム8人ずついるはずなのに、この二人三脚チームには7人しかいなかった。ちなみに吉川くんはこの時机の上で爆睡していた。参加種目を決めているときからこんな状態だったため、枠の余っていた二人三脚に入れられていたらしい。


「吉川くん、起きて」


 僕は机の上でうつ伏せになっている彼の肩を2回ほど軽く叩く。


「んー」


 明らかに寝起きですというような声がした。


「今、体育祭の話し合いをしてるから、吉川くんもおいでよ」

「んー、興味ない……」


 吉川くんからは起き上がるような気配は感じられなかった。今この場には先生の姿はなく、他に誰も彼の行為を咎めるものはいない。きちんと起こすべきか少しだけ僕は悩んだが、チームの皆が僕の帰りを待っているので、仕方なく最低限の用件だけ済ますことにした。


「ねえ、吉川くんの身長って何cm?」



 ぎゅっと固く紐を結ぶ。2つに分かれていた足は、見事に1つの足へと生まれ変わった。


「しっかし、ボクといいんちょって身長1cmしか違わないんだね」


 しゃがんで作業をしていた僕の頭上から、吉川くんの声が落ちてくる。


「まあ、並んで立ってもあんまり目線が変わらなかったしね」

「いいんちょが173cmだっけ。ボクの方が1cm勝ったー」

「いや、身長って勝った負けたの問題かな……?」


 吉川くんの言葉に疑問を残しつつ、僕は紐をぴしっと引っ張り、固く結ばれていることを確認する。


「よし、これで大丈夫っと」


 一仕事終えたので立ち上がろうと、僕は膝と背中を伸ばした。その時、不意に感じた頭の上の圧迫感。そのままぐっと押される。そして僕は立ち上がることができないまま、再び膝と背中を曲げていた。もう一度立ち上がろうと試みる。しかしまたも完全に立ち上がる途中で頭に圧迫感を感じ、そのままお尻を地面につけてしまった。


「吉川くん……」


 僕は犯人を黙って見つめる。


「なんか、ボールみたいだなと思って。ここでパーを出して待ってるとさ、ちょうど立ち上がろうとした、いいんちょの頭が来るんだよね」


 そう言って、吉川くんは腕を伸ばすと、腰の高さくらいのところに手を止めて、手のひらを地面に対して水平にした。それはバスケットボールをドリブルする時のポーズと似ていた。ボールって、僕の頭のことか。


「だからって、人の頭を押さえつけない……」


 ため息と同時に、今度こそ僕は立ち上がった。


「体育の時間、丸々練習に使ってもいいってせんせー言ってたけど、それって体のいい丸投げだよね」


「んーと、練習できないよりは、できる方がいいんじゃないかな……」


 少々不満そうな彼を僕は宥める。


「ところで、練習ってどんなことするの?」

「えっと。……どんなことしよっか」


 吉川くんに言われて、僕は足に紐を結ぶことまでしか考えていなかった自分に気付いた。周りを見渡す。大縄チームはひたすら縄跳びの練習をしていたし、玉入れチームは輪になって話し合いをしていた。二人三脚チームはというと、ペアごとにバラバラに行動している。他のペアを探してみると、適当な場所で話をしていたり、あるいは少し走ってみたりと各々自由に活動していた。


「とりあえず、走ってみようか」


 一通り周りを見渡し終えると、僕は吉川くんにそう告げた。


「えーっと、走るときは確か……」


 僕はおぼろげな記憶をどうにかたぐりよせてみる。


「あ、そっか。走る前に肩を組まないといけないんだっけ」


 僕はおもむろに吉川くんの肩に自分の腕を乗せた。すると少し驚いた様子で吉川くんが僕を見る。


「え、何? いいんちょったら大胆だね。いきなり密着してくるなんて」


 彼の言葉の意味を考えること数秒。


「あっあの、吉川くん!? そういう、変な誤解を招くような発言はっ」

「遠慮しなくていいのにー」


 そういって吉川くんは僕の腰に手を回した。僕は慌てて彼から離れる。


「遠慮も何も、肩組まないと走れないからそうしただけで……!」

「うん、知ってる」


 ニヤっと、どこかのチェシャ猫みたいな笑みを吉川くんは浮かべた。僕を見て、面白がっているようなその表情。からかわれた。それにようやく気づき、僕は大きなため息をついた。まだ走ってもいないのに、なんだかもう疲れてしまっているのは何故だろう?


 気を取り直して、走る準備を整える。お互いに肩を組み、足を横に並べた。これでいつでも走れる状態になった。あとはもう、一歩踏み出すだけだ。


「せーの、で吉川くんは右足を出してね。僕は左足を出すから」

「分かった」

「……本当にもう始めても大丈夫?」

「うん、だいじょーぶ」


 なんとなく、動き出すことに僕はためらいを感じていた。失敗しそうな予感がする。けれどこのままじゃ何も始まらない。だから僕は迷いを振り払うべく、大きな声を出そうと意識した。


「……それじゃ行くよ、せーのっ」


 息を吸い込み、"いち"と始めの数字を口にする。そして左足を動かしてみた。紐で繋がれ、一つにされたが足が前に出る。地面を踏みしめる感覚が体に伝わった。最初の一歩を踏み出すのは成功したようだ。続いて二歩目を踏み出そうと試みる。しかし。


「わわっ!?」


 ぐっと後ろに引かれ、体が傾いた。転けそうになるのをどうにか踏ん張り、体勢を立て直す。はーっと大きく息を吐き、ばくばくと鳴る心臓を落ち着かせる。そして僕は首を後ろに向けて、うらめしげに原因を見つめた。


「吉川くん、最初の一歩を踏み出したら、今度は反対側の足を出してね。でないと前に進めない」

「えー、前に進みたいの?」

「確かにさっきは右足を動かして、としか言ってなかったけど、一応走る練習だからね、これ。前に進まないと意味がないじゃないか。……最初にきちんと説明していなかった僕も悪いけど」


 僕が一緒に走るのはクラスで”変人”と呼ばれているあの吉川くんだ。一筋縄じゃいかないことは分かっていたつもりだった。しかし、これじゃあ先が思いやられる。僕は重い気持ちをどうにか振り払うと、再度走るための体勢をとった。


「吉川くん大丈夫?」


 隣にいる彼の状態を伺う。


「うん。走ればいいんでしょ?」

「そうだけど……」


 軽く返事をする彼に、なんとなく胸の中に不安が積もる。何か忘れていることはないかと思い返してみるが、すぐには出てこない。絶対吉川くんに説明をしなきゃいけないものがある。そんな気持ちを抱えつつ、この状態でいつまで悩んでいても仕方がない。もうどうにでもなれと、僕は半ば諦めの気持ちでスタートの言葉を口にした。


「よし、行くよ。せーのっ」


 最初の一歩を踏み出す。結ばれている方の足は何の問題なく地面を蹴り飛ばした。続いて二歩目。さっきはここで失敗したが、今度は後ろに引っ張られることなく体は前に進む。そして三歩目。僕は左足を前に出そうと意識を向ける。が、その前にぐいっと無理やり引っ張られた。


「わわっ、ストップストップ!!」


 意図しない進み方をした足に体勢を崩しかけた僕は、大きな声で停止を求める声を上げる。


「えー?」


 吉川くんは仕方ないなーと言いたげな、渋々といった様子で止まってくれた。そんな彼を見て僕は苦笑する。やっぱり練習はすんなりとはいかないらしい。


「あの、吉川くん。足を結んでるから、ペースをなるべく僕に合わせて欲しいんだ。僕も君に合わせるように努力するけど、あんまり早いと追い付かないからさ」

「もー、いいんちょは注文が多いなぁ」


 そう言って吉川くんは頬を膨らます。その姿に君は一体何歳児なんだと僕は内心つっこまずにはいられない。けれどそれを飲み込むと、最低限伝えなければいけない言葉を口にした。


「そうしないと、二人三脚できないからね?」


 マイペース過ぎる吉川くんに僕はうなだれる。一体どうしたら彼と上手く練習ができるのだろうか。いつも振り回されてばかりの僕だ。彼をどうこうする自信なんてこれっぽっちもない。けれど練習はどうしてもしたい。


「よし、最初にきちんとやること決めてから練習しよう」


 悩んだ末に僕が発した言葉は、至極当然のことだった。なんとなくできるだろうとか、合わせてくれるだろうとか、そういう甘い考えは全部捨てる。吉川くんと一緒に行動するためには認識合わせと、きちんとした説明が必要だ。僕と彼は思考回路が全然違う。だから、いつも以上に言葉にしないときっと伝わらない。


「さっきまでの復習だけど、せーの、で吉川くんは右、僕は左足を出す。で、なるべく相手のペースに合わせて動く。ここまで大丈夫?」


 さっそく僕は吉川くんと作戦会議を行う。


「うん」

「で……、まずは歩こう。あそこに鉄棒あるよね?」


 僕は視界の先、少し離れた場所にあった鉄棒を指差す。


「あるねー、鉄棒」

「そこを目指して歩く」

「へぇー、走らないんだ」

「いきなり走るのは難しいかなって、さっき走ってみて思ったんだ。だから、まずは歩くところから始めようかなって。いいかな?」

「いいんじゃない?」


 吉川くんはいつものにんまりとした笑みを浮かべる。それを見て、なんだか僕は彼に試されているような気持ちになった。僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、それだったらどうにかして彼に認められたいという気持ちがわき出てくる。


「あとは、いち、に、いち、にって、掛け声もお互いきちんと出そう」

「えー、どうして? 面倒じゃない?」

「相手とタイミングを合わせやすくするためには必要だよ。さっきタイミングが合わなくて僕がこけそうになったでしょ? 声を出すと、呼吸とか合わせやすくなるんだ」

「そういうもんなんだ」

「そういうもの、だと思う……」

「ふーん、分かった」


 吉川くんは不思議そうな表情を浮かべていたけれど、納得してくれたらしい。僕は他に何か言うべきことはないかと考えをめぐらせる。


「……えっと、多分これくらいかな、決めなきゃいけないことは」


 じっくり悩んでみたけれど、何も出てこなかった。おそらく言いたいこと、確認したかったことは言い切ったのだろう。その証拠にさっきまでとは違い、練習に対して変に不安になることはない。言葉にしたことによって、頭の中が整頓された。だからふわふわとした、地に足がついていないような状態から抜け出し、落ち着くことができたのだろう。あとは上手くいかないことがあれば、その都度確認していけばいいと思う。


「よし、じゃあ行くよ」


 再び肩を組み、足をそろえる。


「おっけー」


 隣を見れば、吉川くんがさっきよりも真剣な表情を浮かべていた。今度は上手くいきそうな気がする。そんな予感が芽生えていた。


「せーのっ、いち!」


 一歩前に出る。


「にっ」


 僕の声に吉川くんの声が重なる。


「いち」


 ゆっくり、のんびり、だけど順調に。たまに少しよろけながらも僕たちは前に進んでいく。こんなに密着して、隣にいる相手の歩幅やペース、息遣いまで意識しながら歩くなんて、日常生活では滅多にないと思う。だからただ歩くだけの行為なのに、なんだか新鮮な気持ちになった。


 どうにかこうにか、無事に鉄棒へたどり着く。日陰の中にあるせいか、タッチした鉄棒はひんやりとしていた。


「良かったー、無事についた」


 吉川くんの肩に回していた腕をほどいてちょっと一息。


「案外進んだね。1回くらいこけるかと思ってたけど」

「僕もそう思ってた。今は歩いてるだけだから、合わせやすいのもあるんだけどね」


 自然と笑みが浮かぶ。できなかったことが成功すると、やっぱり気分がいい。


「今度は走る?」

「どうしよ。走ってみたい気もするけど、もう少し歩いて練習した方がいい気もしているんだ」


 少し上手くいったからって、すぐに一段階上のことができるとは限らない。でもなんだかできそうな、根拠のない自信もあって挑戦してみたいという気持ちも無視できずにいた。だから僕は迷っている。


「じゃあ、試しに走ればいいんじゃない?」


 なんてことないように吉川くんはそう言う。


「ダメだったらまた歩けばいいんだし。別に、失敗するのは悪くないと思うんだけど」


 その指摘に僕ははっとする。無意識のうちに、どっちかしか選べない、失敗しない方を選ばなくちゃいけない。そんなことばかり考えていた。


「そうだね……。うん、走ろっか」


 たまには挑戦することも大事だと思う。そう考えると、さっきよりもやる気が出てきたような気がした。僕は辺りを見渡す。ちょうど鉄棒のある位置とは反対側にサッカーゴールが見えた。鉄棒とサッカーゴールの間には、運よく練習している人たちも見当たらない。


「次は、サッカーゴール目指してみよう」

「りょーかい」


 いつでも走れる体勢になり、お互い鉄棒を背に、サッカーゴールを見据える。


「行こうか」


 そういったのは吉川くんだった。


「うん」


 僕は頷いて、彼が合図を出すのを待った。


「……せーのっ、いち!」


 声と共に一歩踏み出す。今度は歩くのではなく走るので、地面を蹴る足にも力が入った。


「にっ」


 更に前へ進む。勢いも増していた。


「いち」


 そして三歩目。ここで互いの踏み出し具合に差が出た。


「うわっ!?」


 短い悲鳴を上げる。勢いのままにバランスが崩れた。体勢を直す暇なんてない。気が付いたときには、僕は地面とこんにちはという状態になっていた。


「痛っ……。吉川くん、大丈夫!?」


 僕は慌てて隣に倒れている彼に声をかける。


「あー、びっくりした……。ボクは平気だけど、いいんちょは?」

「僕も大丈夫。手をちょっと擦りむいたくらいだよ」


 改めて吉川くんの姿を確認する。砂埃まみれになっていたが、本当に怪我はなさそうだった。そのまま二人して地面に座り込む。手のひらに広がるじんじんとした痛み。その痛みは、立ち上がって動くという気力を僕から奪っていった。


「うーん、やっぱり今日は走るんじゃなくて、歩く練習だけの方がいいのかなぁ……」

「んー、別にどっちでもいいんじゃない?」


 考えることを放棄しているような答えが返ってきて、僕は少しだけむっとしてしまう。


「もー、吉川くんも何か考えようよ」

「えー」


 僕は隣に座る吉川くんを見る。その表情にはめんどくさいという心情が、鈍感な僕でも見て取れるくらいはっきりと表れていた。


「とりあえずサッカーゴールまで歩こうか」


 少し意地になって僕は立ち上がる。しかしいくら待てども、隣にいる彼は一向に動こうとしない。


「……吉川くん?」


 僕は伺うように、控えめに吉川くんに声をかける。しかし吉川くんは僕の声に反応することなく、体育座りのままぴくりとも動かない。聞こえていなかったのかなと思い、僕はもう一度名前を呼ぶ。それでも彼は何の反応も示さなかった。段々と僕の中で不安な気持ちが大きくなる。どうしよう、ひょっとして怒らせてしまった? 気に障るようなことをしてしまった? 時間が経つほどさっきまで感じていた怒りや勢いは小さくなり、そして消えた。残ったのは大きな不安。


「……あーきーた!」


 しばらく待って、ようやく彼が発した言葉は、僕が想像していたよりも斜め上の返答だった。


「はあっ!?」

「だって興味持てない」


 それだけ言うと、吉川くんはまた黙ってしまった。相変わらず動こうとしない。立っている僕には、今彼がどういう表情を浮かべているのか分からなかった。仕方なく、つむじの部分をぼけっと見つめる。つややかな髪は、太陽の光を反射して少々眩しかった。自分の力じゃどうしようもないこと言われたとき、一体どうすればいいのだろう。


「なんで……?」


 唖然として、僕は彼に質問するというよりも、本当に訳が分からなくてそう呟いていた。


「そういう性格だから?」


 僕の言葉に疑問系で返される。そう言われても、僕は正直困ってしまう。そのまま黙っていると、今度は吉川くんが僕に問いかけてきた。


「不自由だし、痛い思いするのにさ、いいんちょはよく投げ出さないよね。少しくらいサボればいいじゃん」

「うーん……」


 確かにサボろうと思えば、この練習はサボることができると思う。実際今校庭を見渡してみると、あれはサボっているなーと思われる人をちらほらと見かけた。


「なんでだろうね。僕もそういう性格だから?」


 先ほどの吉川くんを真似て、疑問系で返してみる。自分のことなんて正直よく分からないものなのかもしれない。


「まー、そーゆーところが、いいんちょの良いところなんだけどさー」


 吉川くんはそれだけいうと、首を後ろに倒し、僕を見上げた。そのまっすぐな視線が僕を射抜く。途端にどういう訳か、居たたまれなくなった。なんとなく、もやもやとした気持ちが心の中でくすぶる。


 吉川くんは練習を投げ出さないところが僕の良いところ、と言っていたけど、それは多分違うと思う。良いところなんかじゃない。僕が練習を投げ出さないのは、確実に後ろめたい気持ちがあるからだ。少しの間僕は悩んで、自分の中の迷いを整理するためにゆっくりと口を開いた。


「……うーん。スポーツってさ、結構チームプレイが多いよね。体育祭もそうだけど、チーム全員で頑張らないと結果が出ないし」

「そうだね」

「だから、ちゃんと練習しなきゃって思うんだ」


 最初に出てきたのは、とにかくそうしなきゃいけないというある種脅迫観念のような強い思い。


「そう思うのは、チーム……誰かのためだから? だから練習頑張るの?」


 吉川くんが僕とは少し違った視点で問いかける。


「……違うかな。多分、自分のため」


 心の中を探るように、深く考えて発言をしているのでいつもよりも口調がゆっくりになる。他人のためか、自分のためか。僕は何を思って動いているんだろう? 自分の中の行動基準を振り返る。そして浮かんだ答えは、後者だった。


「へえ」


 面白い、という感じで吉川くんが笑う。


「誰かのためって言えたら良かったんだけど、そんな大義名分なんてないよ。本当に自分のためなんだ。だって僕さ、走るの苦手なんだ」


 おやっとした表情を浮かべて、吉川くんは僕を見た。なんだかそれが珍しくて、ちょっとだけ僕は笑う。段々ともやもやしていたものが、形となり見えるようになってきた。僕はもう少しその輪郭をはっきりとしたものするため、自分の中にある思いを少しずつ外に出していく。


「走るのっていうより、運動全般が苦手なんだ。ほら、僕ってどんくさいでしょ?」

「否定はしない。運動が得意ないいんちょは想像できない」


 うんうんと、納得するように吉川くんは深く頷く。


「あ、はは……」


 やっぱり自分で自覚していることは、他の人から見ても分かるものなんだなと変なところで思い知る。だけどこうも自信満々に、自分の弱点を肯定されるのもちょっと複雑な気分だった。もう少しそこはオブラートに包んでくれても、と思わないでもないけれど。でもそれだとかえって微妙な思いをしそうだったので、まあいいかと僕は自分自身を納得させた。なんだか話が横道に逸れそうな雰囲気がしたので、僕は続きを話していく。


「えっと。……だからね、お前のせいだ。お前が足をひっぱったせいで負けたんだって言われるのが怖いんだよ、僕は」


 僕が一番恐れていることはそれだ。責任の矛先が自分に向けられるのが怖い。こう言うと、なんだか僕は自分がとてもずるい人間のように思えた。


「他人のいうことなんて関係ないじゃん。気にしなければいいのに」


 当たり前のように吉川くんが言う。


「それができたら、苦労しないんだけどね」


 僕は苦笑するしかなかった。こういうとき、僕と吉川くんは考え方が全然違うなと実感する。


「だからさ、少しでも言い訳ができるように、ちょっとでも足を引っ張らないように僕は練習したいな」


 ああ、なんだ。そういうことだったのか。考えるよりも先にするっと出てきた言葉が、探していた答えだった。僕が練習をサボらない理由は、自分を正当化するためのものだ。それがすとんと当てはまる。やっぱり後ろめたい気持ちで練習したいと思っていたのかと、自分に対してがっかりする。けれど、それが何か分かっただけでずいぶんと心の中はすっきりした。僕は未だに座ったままの吉川くんを見る。


「吉川くんは良いところって言ってくれたけど、僕がサボってない理由があんまりいいものじゃなくてごめん」

「別にいいんじゃない?」


 投げやりな意味ではなく、肯定の意味を含んで吉川くんはそう言った。少しだけ僕の心が浮上する。


「あの、個人的な理由で申し訳ないんだけど……。吉川くん、僕の練習に付き合ってよ。つまらないかもしれないけど、僕一人じゃできないからさ。君がいないと意味がないんだ」


 これは僕のわがままだから強制することなんてできない。だから駄目元で僕はお願いをすることにした。吉川くん向けて手を差し出す。


「いいよ」


 吉川くんが僕の手を握った。僕は一瞬驚く。だけどすぐに我に返り、勢いをつけて吉川くんを引っ張り上げた。立ち上がった吉川くんはズボンについた砂埃をぱしぱし叩いて落としていく。僕はそれを少し不安げに見守った。


「あの、ホントにいいの?」


 言ってから弱気になるなんてちょっとずるいと思ったけれど、念のために確認しておく。すると吉川くんは楽しげにこう言った。


「いいんちょの頼みなら、仕方ないね。それに、その理由は面白かった。だからいいよ」


 多分僕はこの時、変な顔をしていたと思う。吉川くんが何を面白いと感じたのかはよく分からない。ただ、練習が続けられるということだけは僕にも分かった。


「早く続きやろうよ」


 そう言って、吉川くんが僕を見る。ただそれだけのことなのに、じわじわと嬉しさが僕の中であふれだす。なんだか僕は無性にはしゃぎたくなって、ようやく再開された練習はさっきよりもずっと楽しく感じられた。



 練習は順調に進んだ。サッカーゴールと鉄棒の間を歩いて往復することだけをただひたすら繰り返す。たまにふらついたり、こけたりしたけれど、大きな怪我はしていない。お互いの息もなんとなく合ってきたと思う。最初に比べたらずいぶん進歩した。そして気が付いた頃には授業時間も残り3分の1。


「よし、そろそろ走ってみようか」

「おっけー、わかった」


 そう思ったのはごく自然な流れだ。


「だけどゆっくり、ね」

「あんまり速いと、いいんちょが転んじゃうからね」


 吉川くんが笑う。


「返す言葉もありません」


 そればっかりは本当だから、僕は何も言い返せない。けれど変に卑屈な気持ちにならないのは、多分相手が吉川くんだからだと思う。


「せーの」


 二人で足を踏み出すことにはもう慣れてきた。ただ、走るときは歩くとき以上に、歩幅と速度を合わせる問題が出てくる。一歩踏み出し、そして二歩、三歩。今回は最初に走ろうとしたときと違い、お互いの足並みがバラバラになることはない。吉川くんが僕にスピードを合わせてくれているのが分かる。だから僕も遅れないように夢中で走った。掛け声を出すのに僕は必死だったけど、そろった歩幅はなんだか気持ち良かった。そのまま二人で校庭を駆け抜ける。夢中になっていたせいか、あっという間にゴールに設定していた鉄棒が近付いてきた。


 その時だ。きっと僕は油断していたんだと思う。息切れしそうになったところで何かにつまずいた。大きく傾く体。体勢を立て直す時間もなかったし、この勢いだと時間があっても無理だったと思う。視界が鉄棒から一面の茶色へ。足が地面から離れる。そして派手に転倒した。


 ずさーっと体と砂が擦れる音がする。一瞬遅れてやってくる痛みに僕は顔をしかめた。思い切り打ちつけた膝と、前に出して自分の体重を受け止めた手のひらが特に痛い。そのままじっと動かず痛みをやり過ごそうとする。けれど自分のことを気にしている場合ではない。その前に早く確認しなければならないことがあった。僕はどうにか動けるようになると、できるだけ急いで手をつき、体を起こして隣を向いた。


「吉川くん、大丈夫!?」


 吉川くんを見ると、彼は既に体を起き上がらせ、体についた砂埃を払っている最中だった。さすがに危ないので、僕は吉川くんの足と自分の足を結んでいた紐を外す。自由になった足は、なんだか妙に軽かった


「あー、なんか久しぶりに派手に転んだ気がする……」


 どこか遠い目をして、吉川くんは胡坐をかいていた。


「ご、ごめん。僕のせいで……」


 僕は縮こまり、謝罪の言葉を口にする。転んでしまったのは僕の不注意のせいだ。自分一人だけなら構わないが、二人三脚だとそうも言っていられない。吉川くんを巻き込んでしまったことに対し、胸の中は罪悪感と申し訳なさでいっぱいになっていた。


「なんでいいんちょが謝るの?」


 吉川くんがぽかんとした様子で僕を見る。


「だって、僕がつまずいたせいで……」


 僕はうつむく。罪悪感からか、吉川くんの顔を直視することができない。けれど吉川くんはまったく気にしていないのか、逆にぽんぽんと僕を慰めるように肩を叩いた。


「わざとじゃないんだし、練習なんだから転ぶのも当然じゃない? いちいち謝ってたらキリないよ」

「う、うん……」


 どうやら励ましてくれているらしい。僕は益々居たたまれない気持ちでいっぱいになる。けれど、いくら後悔しても過ぎてしまった時間を巻き戻すことはできない。吉川くんは謝らなくていいと言ってくれた。でも、それだと自分の中の気持ちがどうにも治まらない。だから僕はもう一度だけ、これで最後と心を込めて謝ることにした。


「本当にごめんね」


 僕が吉川くんにそう言うと、彼は微妙そうな顔をして明後日の方向へと顔を向けた。


「まー、どんまい?」

「うん。次はもっと気を付けるね」

「……もー、そんなに気にしなくていいのに」


 そういって吉川くんはむくれた。怒るのでもなく、呆れるのでもなく、どういう訳か彼はむくれた。何故そんな反応をしたのだろうかと不思議に思いつつ、僕は自分が恐れていたどちらの反応もされなかったことで、少し気が楽になっていた。


 次からは本当に気を付けよう。そう決意し、僕は肩の力を抜く。ふうと息を吐けば、緊張感が解けていく。だからだろうか? それまで自分はずいぶんと視野が狭かったらしい。僕はふと目線を下の方に向けると、そのまま固まってしまった。


 やたら目立ったのは、単に僕がその色に見慣れていなかったからかもしれない。とにかく褐色の地面と白い肌の上でそれは、やけに鮮やかに感じられた。


 胡座をかいていた吉川くんの左膝。ちょうどハーフパンツの真下が赤色に染まる。ぱっくりと開かれた傷口。血液がだらだらと重力のままに滴り落ち、地面を汚していく。


「よ、よ、吉川くん……!!」


 動揺するあまり、僕は彼の名前を呼ぶことしかできない。


「いいんちょ、どうかした?」


 吉川くんは首を少し傾け、僕を見る。ショックのあまり言葉を発することができなくなった僕は、酷いことになっている彼の膝を指差すことで精一杯だった。吉川くんが僕の指先を追い、自分の膝を捉える。そしてああ、と何かを納得するように頷いた。


「血、出てるね」


 どこか他人事のように、彼はのんびりとそう言う。こくこくと僕は懸命に首を縦にふった。涙目になっているのが嫌でも分かる。


「あー、いいんちょって血苦手?」

「に、苦手だよ!! ていうか痛そうなのになんでそんなに呑気にしてるんだよ吉川くん!!」


 ようやく言葉が出てきた僕は、あんまりにものんびりし過ぎている彼に対し、半ば怒るような形で声を上げる。


「なんで、いいんちょが泣きそうになってるのさ」


 不可解な面持ちで吉川くんがそう尋ねた。


「だってそれ、すごく痛そうだし……」

「別にいいんちょが痛い訳じゃないでしょ」


 当たり前のことを指摘され、僕はうっと言葉に詰まる。


「確かに、僕は痛くないけど……」

「それよりいいんちょは怪我してない?」

「えっ、僕?」


 吉川くんに言われるがまま、僕は自分の体を見渡す。転んだ直後こそ痛みで動けなかったが、あれだけ派手にすっころんだくせに僕は少し膝を擦りむいた程度の怪我しかしていなかった。もしかしたら吉川くんの方に多く負荷がいってしまったのかもしれない。そう思うと益々申し訳ない気持ちになった。


「僕は特に酷い怪我はしてないよ」

「なら、良かった」


 吉川くんはそう言って少しだけ微笑む。そして次の瞬間には、怪我のことを気にする素振りすら見せずに立ち上がっていた。おもむろに僕がほどいた紐を拾い上げる。


「いいんちょ、結んで」


 僕の目の前に差し出された紐。


「え……?」


 僕は吉川くんと紐を交互に見つめる。彼は一体何を言っているのだろうか。


「だって、練習しないといいんちょが困るんでしょ?」


 吉川くんはきょとんとした表情で僕を見た。


「……どうしてそうなるの!? 練習なんかよりも保健室行くのが先だよ!!」


 本当にびっくりした。まさか吉川くんは本気でこのまま練習を続けるつもりでいたのだろうか。僕は紐を受け取らずに立ち上がる。そして吉川くんの背中を軽く押し、保健室へ行こうと促した。しかし彼は全く動く素振りを見せない。


「吉川くん……?」


 動かない彼に僕は呼び掛ける。


「……ボクは大丈夫だからさ、練習しようよ」


 吉川くんはそう言うと、再度紐を僕に突きつけた。僕は吉川くんの行動に困惑してしまう。


「大丈夫じゃないよね。血、そんなに出てるんだからさ」


 僕は目線を吉川くんの右膝に向けた。そこからは、まだどくどくと血液が流れ落ちている。その様子に思わず眉をしかめた。ティッシュやハンカチを持っていたらすぐにでも押さえるが、あいにく体操着のポケットの中は空っぽだ。だから一刻も早く保健室で手当てをしてあげたい。しかし、肝心の本人が行きたがらないのはどうしてだろう。


「本当に大丈夫だよ。だって、痛くないし」


 吉川くんはいたって普通の様子でそう言った。痛みに耐えるそぶりすらなく、まるで何事もなかったかのように。その姿に、僕はどこか薄ら寒いものを感じた。


「何……言ってるの? 血が出てるのに、痛くない訳ないと思うんだけど……」

「だって、痛くないと思ったら、痛くなくなるんだよ」

「えっ……」


 言葉を上手く飲み込めない。それは一体どういうことだろうか。話についていけない僕をよそに、吉川くんが淡々と説明をしていく。


「いいんちょ、君だっていらないものは捨てるでしょ? ボクだって不要なものは捨てるさ。例えば今みたいに痛みとか。痛いの、嫌だしね」


 まるでそうすることが当たり前であるかのように彼は言った。だけど内容は無茶苦茶だ。少なくとも、僕の常識の中では痛みを捨てることなんてできない。もしそんなことができるのなら、それは異常なことだと思う。


「ねえ、痛みを捨てるとか、そんなの無理だよ。できっこない。だって、物じゃないんだからさ」

「いいや、できるね。物じゃなくても、いらないと思ったら何だって捨てられる。痛みもそうだし、他には……そうだね。感情とかもそうだ」


 普通じゃない。話を聞いていて、まずそう思った。僕は吉川くんから得体の知れない何かを感じる。それはまるで、暗くて底が見えない穴を覗き込んでいる時のような気持ちと似ていた。吉川くん自体がちょっと斜め上の考え方をしている人物だ。それはいいことでも悪いことでもない。世界の見え方が違うだけ。けれど、これはそうじゃなくて、本当に良くない意味でおかしいと思う。


「そんなの、簡単に捨てられるものじゃないよ」


 僕は反論する。物でないものを、ましてや自分の中にある形のないものを捨てるだなんて無理だ。人はそんな単純な作りをしていない。


「うーん、そうだね……。感情や痛みは、捨てるというよりは忘れるって言う方が近いかもね」

「忘れる?」


 ぽつりと吉川くんがそう言った。


「そう。見たくなければ目をつぶる。聞きたくなければ耳をふさぐでしょ」

「……確かにそうだけど」

「そうやって、誤魔化してなかったものにする。それは誰だって行う、ごく普通の行為だ」


 それには僕も同意する。僕だって嫌なものを見てしまえば忘れようとする。でもそれは、あくまでそういう"ふり"をするだけだ。


「……だけど、全部をなかったことにするなんて、僕にはできないよ。あくまでそういう振る舞いをして誤魔化すだけだ」

「でもボクなら本当に忘れてしまうことができる。……なーんて言ったら、いいんちょは困っちゃう?」


 そう言って吉川くんは笑った。


 なんとも言えない、どこかやるせないような気持ちに近いものが僕の中で立ち込める。それは間違っていると心が叫んでいた。けれど、この思いはどうやったら届けることができるのだろうか。僕自身何がおかしくて何が間違っているのか、はっきりとした理由を説明できないでいると言うのに。


 とにかく、彼の考え方はすぐには変わらないことだけは確かだった。けれど、どうしても保健室には連れて行きたい。こうしている間にも血はどんどん流れ落ちているのだから。


「いくら痛みを感じなくても、怪我をしているのは事実でしょ。それなら、手当てをしないと」

「放っておいていいよ。血なんてそのうち固まるし」

「そうじゃなくて、バイ菌が入ったら余計に酷くなるんだよ。だからその前に早く手当てをしなきゃいけないんだ」

「だから、別にいいって」


 吉川くんの投げやり態度に、僕の頭にかっと血がのぼる。


「どうしてわかってくれないんだよ……!!」

「だから、なんでいいんちょが怒るのさ」


 吉川くんが言う通り、どういう訳か僕は本当に怒っていた。正直自分でもなんでこんなに怒っているのかよく分からない。普段の僕なら、他人に対してここまで怒りを覚えることなんてないのに。感情が渦を巻く。けれど、このままずっと怒っていても仕方がない。言い争いをしているだけ無駄なことは分かっている。だから僕は、あることを実行するまでにそう時間はかからなかった。


「え、ちょっ!?」


 彼にしては珍しく驚いた声が聞こえた。が、僕はそれを無視して行動を開始する。僕が何をしたのかというと吉川くんの腕を掴み、彼を引っ張る形で歩き始めた。要するに保健室へ強制連行。


「ねー、いいんちょ。ストップしようよ」

「いーやーだ」


 彼の抗議を無視して僕は進む。多分僕はまだ冷静じゃなくて、頭の中はカッカしていたんだと思う。吉川くんは口では抵抗するものの、腕を振りほどいたり、その場で踏ん張ったりすることはなかった。なすがままに僕に連れられる。それでも顔には不服ですという想いがありありと浮かんでいた。僕はどうにかして吉川くんを納得させることができないものかと考える。そしてふと、思い付いた理由を話してみることにした。


「ねえ、吉川くん。僕のために保健室までついてきて」

「なんでー? いいんちょ、実は怪我してたの?」


おやっと、覗き込むように吉川くんが僕を見る。


「僕は別に。擦りむいたくらいだから手当ては必要ないよ」

「じゃあなんで……」

「僕はさ、血とか見るの苦手なんだよ。自分まで痛くなりそうだから嫌なんだ」

「それはさっきの反応見て分かってる」

「だからさ、吉川くんの傷、手当てしたい。そしたら痛い部分を見なくて済むから」


 僕の考えた作戦はこうだ。単純にお願いをしたら、保健室まで来てくれるんじゃないのかなと思った。吉川くんは二人三脚の練習をしていた時、ずいぶんあっさりと僕の頼みを聞いてくれた。だからひょっとして、今回もお願いをしたら、ちゃんと手当てをさせてくれるのかなと思った。


「へえ。それじゃボクのため、じゃなくてあくまでいいんちょ自身のために傷の手当てをしたいと?」

「そう、自分のため。吉川くんの傷、ずっとそのままにしてると痛そうだし、僕が転んだせいだって罪悪感も膨らむでしょ。だから手当てをしたい。そのためには、吉川くんが保健室に来てくれないと駄目なんだけどなぁ……」


 何一つ嘘はついていない。お願いするのはちょっとずるいかなと思ったけれど、無理矢理引きずって保健室に行くのは良くないし、やっぱりどうにかして納得して欲しかった。僕の言葉が、吉川くんが動く為の理由になればいいと思う。


「ふーん……」


 僕らは立ち止まり、互いにじっと見つめあったまま動かずにいた。にらむのではなく、本当に見つめるだけ。なんとなく目をそらしたら負けな気がして、僕は無言のまま吉川くんを視界にいれる。そしてふと、交わっていた視線がそれた。先に目をそらしたのは、吉川くんの方だった。彼はしばし考え込む。


「吉川くん……?」


 僕はその様子をただ見守った。やがて観念したかのように吉川くんがふうっと息を吐く。そして彼はこう言った。


「はあ、全くいいんちょは仕方ないね。しょうがないから一緒に保健室に行ってあげるよ」


 どこか困った感じで彼は笑う。そして今度は僕の後ろではなく、僕よりも前に立って保健室へ向かって歩き出した。吉川くんの腕をつかんだままだった僕は、彼に引きずられる形で歩き始める。


「いいんちょは、たまにわがままだね」

「そうだね……。うん、そうかもしれない」


 それきり途絶える会話。靴の底と砂が擦れる音、そして遠くからの喧騒がやけに大きく聞こえる。前に進み続けてからしばらく経ち、ようやく僕は自分の作戦が成功したことを実感した。胸の中を安堵が満たしていく。


「……痛みはサインなんだよ。助けてって、悲鳴を上げてるところがある。悲鳴は聞かせるためにあるんだ。それを捨てるのは、忘れてしまうのは良くないよ。でないと、助けてあげられなくなっちゃうから」


 お願いのついでに、僕はもう少しだけ言葉を紡ぐ。聞いてくれても、くれなくてもどっちでもいい。だけどどうか、少しでも僕の想いが伝わればいいなと思う。


「……誰が助けてくれるのさ」


 意外なことに反応があった。けれどそれは小さく、どこか虚無感を含んでいるような、諦めているような声。だから僕は慎重に言葉を選ぶ。


「まずは自分。それが無理なら、僕が助けるよ」


 その場かぎりの言葉でない。きっと僕は吉川くんが怪我をしていたら、助けを求めていたら、迷わず手を伸ばす。なんでこんなに自分でも必死になっているのかは分からないけれど。多分、吉川くんが放っておけないからだと僕は自分自身を納得させた。


 吉川くんは驚きの表情を見せる。そして次の瞬間顔をしかめた。


「はぁ……。いいんちょがそういうからさー、なんだか痛くなってきた。じくじくする」


 吉川くんが立ち止まり、自分の膝へと視線を落とす。血液がこびりつき、少しだけ傷口は固まっていた。けれどもそこから滴り落ちるものは、まだ止まっていない。


 僕はというと、彼の変化に驚いていた。ついさっきまで平然としていたくせに、今度は痛いとはっきり僕に訴える。


「えっ!? そりゃそれだけ傷口ぱっくり開いてたら痛いに決まってるけどさ!! 今更だよ、本当にもう!!」

「うー、こんなに痛いとは思わなかった。いいんちょ、早く保健室行こう……」

「分かってるよ。……それより歩ける?」

「どうにかね」


 そう言い合うと、僕らは止めていた足を再び動かし始めた。僕が吉川くんに対して感じていた違和感が消え去る。吉川くんが隠してしまったのか、それともあの底が見えない穴を少しでも埋めることができたのか、よく分からない。ただ今僕の前には、ごく普通の、足の痛みに耐えている少年がいるだけだった。


「ところでいつまで腕握ってるの。膝ほどじゃないけど、ちょっと痛い」

「わっ、ごめん」


 慌てて手を放す。そして僕は数歩だけ歩みを速め、吉川くんの隣に並ぶ。そしてそのまま彼のペースに合わせて歩いた。


「別にいいけどね。何なら手でも繋ぐ?」


 吉川くんは言葉と同時に僕の手をさっと握る。そして繋いだ手をぶらんぶらんと揺らした。


「えーっと、遠慮します」


 僕は吉川くんの手を振りほどく。


「けちー」


 こんなくだらないやりとりをしているうちに保健室の前に来ていた。扉を開ければ中は無人で、勝手に僕らは道具を拝借していく。


 カッカしていた頭はとうに落ち着いていた。冷静になってみて、ようやく僕は自分が怒っていた理由が分かった気がした。


 ――吉川くんは自分を大切にしない。


 どうしてそこまで自分を雑に扱えるのか、僕には理解できない。理由も知らない。ただ、それがどうしようもなく腹が立ったのと同時に、とても悲しかった。



 それから日付はあっという間に過ぎ、体育祭当日。何度かの練習を経て、最終的にまともに走れるようになった僕らは、本番でもこけることなくそれなりの結果を残した。


「あちぃ」


吉川くんは大した風も吹かないのにパタパタと手であおぐ。


「つ、疲れたぁ……」


 自分達の競技が終わった直後。僕は汗を拭うと、一足先に地べたに座っていた吉川くんの近くに腰をかける。


「練習の結果、出たね」


 吉川くんはいつもの笑みを浮かべていた。


「うん。足、引っ張らなくて良かった」


 僕らのクラスは予選で一緒に走った5クラスの中で、3位という結果に終わった。可もなく不可もなく。予選のあとに決勝が行われるが、それに行けるのは1位のクラスだけなので、これでもう出番は終わりだ。


「お疲れサマ」

「吉川くんこそお疲れ様。今まで練習に付き合ってくれてありがとう」

「よく本番でこけなかったなーって思うよ」

「あ、はは」


 結局僕らは毎回、練習の度に転んでいた。今もお互い、絆創膏が体のどこかに貼ってある。


「こんなに傷だらけなのは、初めてかも」

「僕も」

「ま、たまにはこういうのも悪くないね」

「そうだね」


 風が吹いて、汗が体を冷やす。こんなに清々しい気持ちなのは、結果が出たのはもちろん、積み重ねてきたものがきちんとあるからだ。やりきった、という充実感が僕の中を満たしていく。運動は好きじゃない。けれど、終わった後こんな気持ちになるのなら、打算的なことを無視して純粋に頑張ってみてもいいなと思った。


 それから、僕は目を閉じて吉川くんのことを想う。一緒に練習をして、彼と過ごした時間がまた増えた。時間に比例して、僕は彼の一面を知っていく。けれどまだ、彼の表面的な部分しか知らない。――いつか、内面についても知る日が来るのだろうか? そんな未来を漠然と思い描いて、失敗する。毎日が必死で、先のことなんて僕には分からない。相変わらず吉川くんは僕にとって、謎だらけの人間だ。けれど確かなことが一つだけある。それは僕らの距離が縮みつつあること。今は、それだけで十分だ。


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