3 議会の謀
堅牢な石造りの要塞の中、高い天窓から幾筋の光が射しこむ。
(…アレクシス・リード)
年端もいかぬ姿の少女は、見慣れた光の筋に目を細め装衣を握りしめた。
――あのバラの香りが、むせかえる程に甘く広がる庭園。
噴水から吹き上がる水は、陽の光に反射しキラキラと輝いていた。
その片隅にあるドームベンチには、ピンクの可愛いドレスを着た少女の明るく伸びやかな歌声が響き、隣にいる少年は少女の歌声に合わせ軽快にヴァイオリンを弾いてゆく。
少女は、歌いながら密かに少年を見上げると互いに眼が合った。微笑んでくれた少年にドキドキしながらも嬉しくて、少女は微笑み返す。
心に刻んだ…幸せな時間。
「巫女様。聞いて下さいますか?」
甦った苦い恋心にざらりと胸を撫でられ凍りついていた《巫女様》と呼ばれた少女――イサベル。
厳しい眼差しを向けた老婆の呼びかけで正気に戻る。
「あぁ…聞いておったわ」
老婆は、巫女が思い出に気取られたことに気づくが、見ぬ振りをして報告を繰り返した。
「獣により深い傷を負いながら、娘は《街》に辿り着いたとのことです」
「して、娘は?」
「フィン診療所に運び込まれ、治療も終了しているとのことです」
「治療なぞ余計なことをしよって。その娘、本当に間違いないのかえ?」
「姉であるアリスは、間違いないと言っているようです。それ以上の詳しいことは、把握できていないとのことです」
「そうかえ。のぅ、お前?妾が、また狂うと思うとるか?」
老婆は、巫女の質問をかわし報告を続ける。
「並びに、年寄の議長よりお伺いも届いております。本日の昼過ぎに緊急で議会を開くので出席を願いたいと申しております」
「もう長い月日が過ぎたわ。それなのに、お前の眼には忘られておらんと映るのか?」
「巫女様。返事は済んでおります故、宜しくお願い致します」
老婆の瞳の奥深く、仄暗い光が揺れた。もう老婆は、これ以上の追及を許しはしない。
「…よいわ。全て、事後承諾ではないか。お前は下がって、神父殿を呼びつけえ」
老婆は頭を一つ下げ、足音もなく静かに下がって行く。
巫女は、老婆の背中を見つめた――あれは昔、自分の母親だった者の背中。
(権威を望んで娘を捨てた母親…夫の愛を繋ぎとめたいと娘を捨てた母親。母親なぞ、どこも一緒じゃ)
巫女の腹に黒い澱が据える。
唇を噛みしめなければ、何かを叫びだしそうだった。
《街》のシンボルである要塞は、広大な敷地に複数の棟に分かれ建っており、日当たりの良い南側に《女神教》教会支部と巫女の聖堂がある。
神父は老婆からの伝言を受け、急ぎ足で角を曲り聖堂を目指した。
扉の前には、見るからに屈強そうな男が二人護衛として立っていたが、神父は咎められることなく扉をノックする。
「巫女様。失礼致します」
「おぉ、神父殿か。お入りや」
神父は扉を開け、頭を下げたまま巫女の元まで歩いて行きかしずく。
「急に呼びつけてすまぬな。神父殿に是非に相談したいことがあっての。言いにくいがのぅ、どうやらこの街に厄災の娘が還ってきおったのじゃ」
「厄災…しかし、その娘は…」
「のぅ、ほんに年寄の奴らなぞ使えんわ。そこでじゃな、この先は妾が出張るでな。厄災の娘に《女神の子》を差し向けて監視しいや」
「監視ですか…巫女様。娘は、生かしておくのですか?」
神父は納得しかねたのか、監視と聞いてピクリと肩を動かしたのを巫女は見逃さない。
「そうじゃな、神父殿。年寄の連中も今頃は、無駄な話し合いを会議室で致しておろう。少しばかり早いが参ろうかえ。そちらでまとめて話そうぞ」
太陽が雲に隠れると天窓から注ぐ光は遮られ巫女の顔は影となった。神父は畏って頷いたので気づかない。
今にも泣きだしてしまいそうに歪んだ巫女の顔に。
忘れたかった願い。
忘れられなかった願い。
叶わなかった想いは何十年の間、何処にもゆくことなく胸に仕舞ったまま今も生々しく疼く。
この振り払えなかった嫉妬が、再び巫女の心に囁いた瞬間を―――。
□□□■
エリィが、この《街》にたどり着いてから五時間後―――
要塞の北側にある会議室では、今後の方針を検討するために議長であるシアーを筆頭に《年寄》のメンバーが集まっていた。
「ああ…ウィリアムズは何をしている?昼過ぎには、巫女様がお越しになるんだぞ」
副議長を務めるロークスは、貧相と言う言葉がぴったり似合う細面な男で、落ち着かないのか指を摺りあわせている。
「いや。待っている時間も惜しい。アンダーソンよ。あの日、娘は死んだと我らは、報告を受けた筈だが?」
シアーは苦々しく吐き捨て、アンダーソンを睨む。その眼差しはとても鋭く、理知的な黒さが光る。九十歳を過ぎた老人とは思わせない快活さは、見る者に衰えを感じさせないでいた。
「シアー様。どうなっているのかを知りたいのは、私も同じなのです」
アンダーソンは何も解らないと訴える。そこに、一番若いメンバーであるラルフが、面白がって口を挟んだ。
「女の子一人も殺せないなんて本当に使えないね。案外、リードも自分の子供だと情が出て逃がしたのでは?」
年下にバカにされたアンダーソンは、怒りのあまりブルブルと震え立ち上がる。
「ラルフ!その頃のお前は、その席に座っていなかったな。何も知らずに勝手なことを言うな!」
アンダーソンは、シアーへ向き直り言い募る。
「間違いなく十二年前の《女神様の日》。リードは、母親の遣いで要塞に来たミリアムを背中から斬りつけました。それからあの娘は、振り向かず走り出したのだ。賢い娘です…振り向けば、正面から斬りつけられるのですから。そして三人で、森の奥へ追い込み崖下へと落ちるのを見ました。だから、娘は死んだものと思いこそすれ、逃すなんてことはしていません!」
すると、この場にそぐわない間延びした様子で、メンバーの一員であるシモンが呟く。
「しかし、自分を殺そうとした者がいれば恐ろしくて戻ってこれないですよね?…それが普通の感覚でしょう?」
シアーは少し眉をつり上げる。
「シモン。何が言いたいのだ?」
「いえ、簡単な話しです。無事を伝えたいなら手紙で届けることもできます。家族に会いたいなら別の場所でもいい。しかし、誰が自分を殺そうとしたのか解らない《街》に戻ってくれば、また狙われるかもしれないと考えるものでしょう?」
全く、簡単にならないシモンの含みある言い回しから、聡いラルフが意図を汲み後を続ける。
「まぁ、考えなしに戻ってきたとなれば、自殺に近いものがありますよね。そうなると目的があって、わざわざ《街》に戻って来た。シモン様は、それが復讐かもしれないとお考えなのですか?」
「ええ、そうです。そう言いたかったのです。そうは考えられませんか?」
復讐という単語を聞いて、ロークスが反論する。
「馬鹿な!誰が殺そうとしたのかは、あの娘には知りようのない話しだ。そこで、どうして我らが狙われる話しになるのだ」
ロークスの言葉にシアーも続けた。
「ロークスの言った通りだ。しかも、復讐なら相手は我々ではない。元々は、あれを命じたのが《巫女様》なのだからな」
「ほう。そうじゃったな。命じたのは妾じゃな」
突如、会議室に少女の声が響き渡った。
メンバーが扉の方を振り向けば、そこには嫣然と微笑みを浮かべる巫女が立っている。
「おぉ、巫女様。いつから…」
シアーの問いかけを無視し「少し早かったかのぅ?」と神父が引いた椅子に座る。慌ててメンバー全員が立ち上がり頭を下げた。
「あれは、この街に災いをもたらす娘と。確かに言うたが、誰も失敗せえとは命じとらんわな?」
「それは!」
「こんなことなら、シアーよ。是非にと言うた、お前の言葉を信じずに教会へ願い出れば良かったわ」
「巫女様。誠に…誠に申し訳御座いません」
「今更、お前の謝罪などいらんわ。けどのぉ、シアーよ。厄災の娘は死んだと教会へ届けとる以上、生きておるのは適わんのじゃ」
巫女が「悩ましいのぅ」と呟けば、シアーはひたすら恐縮し頭を下げ続けるしかない。代わりにロークスが、こわごわと息をのんで言う。
「では、巫女様。近いうちに必ず…」
「はやるでない。今は、時期が悪いのじゃ」
シアーは顔を上げ、困惑気味に眉をしかめる。
「時期とは一体?」
「あい。めでたいことにな、今朝の祈りにて『アリス・リードを第一侍女に据えよ』と神託が出たのでな。この儀式を行う《女神様の日》までは、血で汚しとうないのじゃ」
この突然の報せに、神父を含めた皆が一様に驚く。
「…怖れながら巫女様。アリスは近々、結婚致します」
「それが、どうしたのじゃ?」
こともなげに巫女に聞き返されシアーは、軽く眼を見開く。
「いや。しかし、巫女様は清い娘であることが条件です。結婚すれば、そうもいかないかと思いますが」
「シアーよ。そなたに伝えておらなんだな。なにせこの要塞は、古い建物じゃからな。教会部分に不備が見つかってな、本日より改修に入るのじゃ。よって式は女神の日まで延期じゃな」
ここにいる誰もが、この話しはデタラメと気付いた。だからこそ自然と口から非難が洩れる。
「そんな」
「それは、流石に…」
「いくらなんでも!」
巫女は、そんな態度が不満なのか溜め息をついた。
「のう、シアーよ?女神の日に開かれるものは結婚式か、花嫁姿の就任の儀式か。どちであるべきかのぉ?」
「…ですが。それではアリスが、あんまりに可哀想かと!」
「可哀想とは、なぜじゃ?アリスも女神教の教え子である。次代の巫女になれる可能性とは、これ程の名誉はないわ」
「しかし、巫女様。どうか!」
巫女は、溜め息ひとつこぼして静かに聞く。
「シアーよ。この街の議会の構成を申してみるがよい」
「《巫女様》を筆頭に神父様と我ら六人の《年寄》で構成されております」
「なら反対する者は今、申し出るがよい」
巫女はメンバー全員の顔を眺め待ち続けたが、誰も何も言わない。
「居らぬのか?居らぬのなら暫くを持って決まりじゃな。妾は、お前達が可愛くてのぅ。だからこそ階級廃止だの色々と教会から嫌がられても便宜を図ってきたのじゃ。今回もお前達が、一刻も早う第一侍女を据えて欲しいと願おうておるから決めたのじゃ」
巫女は、勘違いするなと。お前達が決めさせたとばかりに釘を差し笑う。
「よいな。話しはここまでじゃ。女神の日までは、まだ時間がある。それまで厄災の娘には、監視をつけおるが余計なことは、せぬようにな!」
神父が扉を開いて椅子を引けば、メンバー全員は再び頭を下げ、無言で見送る。巫女は、しずしず歩き退出していたが、途中で何かを思い出したように入口あたりで振り振り返った。
「どこぞよりこの話しが洩れて、駆け落ちなぞされても適わん。アリスの監視は、そちらでつけよ」
そう言い残して扉が閉まる。
扉の向こうに人の気配がなくなった頃、シアーはポツリと呟いた。
「不憫だ…」
メンバーも同意して頷いている。
「十二年前…教会の者の手にかかるよりは…とアレクに辛いことをさせた。だが巫女様は、まだ足りぬと仰る」
元《年寄》だったアレクが、病により亡くなった時から何かとリード家を気にかけ続けた。
当初は、親切心ではなく秘密を抱えている恐れと後ろめたさが大きくあり、メンバー同士で秘密が漏れないように互いが互いを見張った。
だが、アリスの天真爛漫な姿をみるうちに気持ちが救われ、真実を話せないながらも父親のように叔父のように見守ってきたのだ。その幼かったアリスも結婚が決まり、相手であるルーファン・ブレアと共に招待状を持参し、挨拶に来た日。
『本当のお父様は亡くなったけど私には、代わりに六人のお父様がいるでしょ?』
嬉しいことを言ってくれたアリスの顔は、喜びに輝いていた。
その若さが眩しくて羨ましくもあったが、不思議と自分の娘が嫁いでいく寂しさを覚え、思わず父親のように言ってしまった。
「私はあの子に。アリスに『幸せになりなさい』と言葉を贈ってしましたな」
他のメンバーも同じことを考えていたのだろう。苦い顔をして言う。
「私もですよ」
「私なんか、相手の男に『不憫な思いをさせれば黙っていない』と言ってしまいました」
シアーは、溜め息と共に小さく首を横に振る。
「何もしてやれない…我らには…何も」
巫女様が、そう望んだのだから。