8 リンゴ泥棒 前編
「というわけで、ここの近衛たちは忙しいので、捕まったら自力で逃げてください」
ガーハイム先生の授業のあとのお言葉であった。今日はとても簡単なお仕事だった。礼拝堂で風になった言の葉を世界樹へと返すお仕事である。つまり、お部屋の空気の入れ替えだ。実に簡単だ。
簡単なお仕事だけど、これを嫌う人は多い。理由は簡単、言の葉の欠片に酔うからだ。強烈なお酒が溶け込んだプールに飛び込むようなもので、耐性がないものは倒れてしまう。ゆえに、酔っぱらった三つ子とビスタは回廊で寝そべって、先生とパックとマルスでお仕事をしている。
後程、四人は休んだ時間の三倍、街の中を走らされるだろう。
「ふむ。二人とも元から耐性があるようですね」
珍しく関心しながらガーハイムが言った。言の葉の欠片はごく簡単に人間の発声できる言葉で言えば『魔力』というものになる。本当は『魔力』とは神話でもなんでもない架空のお話に存在する力であるが、それが概念的に一番近いので使われることが多い。では、本当はなんという名前なのかといえば、この世界では発声できない言葉らしい。発声できる言葉だと、それが人の名前になる。それはあまりに強大すぎて、あってはならないことらしい。だから、『魔力』という仮定の言葉を使っている。
その魔力とやらは持っていて損するものでもない。持った名前の種類によっては、それを体現する力となる。大きな魔力を持ち、強大な名前を持つ人間はまさに神や英雄と例えられる人物になりうるのである。
そのような前置きを踏まえた上で、ガーハイム先生の話はうつったのだ。
「最近、魔力の高い子どもをさらう不届きな輩が多いので気をつけて下さい」
だそうだ。
よじよじと柱を上り、一番高い場所の窓を開けたパックは手をあげる。
「先生。攫われたらどうなりますか?」
「売られるか、食べられます。嫌なら頑張って逃げてください」
淡々と言ってのける先生、なんだろう、その二択は。
鑑賞に優れるが機能性に優れないマルスプミラも手をあげる。
「ガーハイム先生。人身売買は理解できますが、そ、その、食べられるっ……て」
語尾が段々小さくなりながら、マルスは言った。顔が真っ赤である、名前の通りりんごのようだ。
(初心だねえ)
パックは思わずによによ笑ってしまう。
ガーハイム先生は、その様子を眺め、首の後ろをぽりぽり掻く。
「三通りの意味で食べられる場合があります。一つ目は、マルスプミラのご想像どおり。二つ目は、一部の狂信者による肉体的破損を伴う捕食。一応言っておきますが、経口摂取によって魔力の受け渡しができるという根拠はありません」
一つ目、二つ目と指をたてて説明した。
二つ目でなかなかえぐい話が出てきた。真っ赤なりんごは、真っ青なりんごに変わっていく。
そうなると三つ目はもっとえぐい話になるだろう。
ガーハイムは、三本目の指をたてる。
「三つ目は、魂の破損を伴う略奪行為です」
青りんごはとうとう目を見開いた。身体が小刻みに揺れているのがパックにはわかった。
「名前を食われます」
ガーハイムは、右手の三本指をたてたまま、残った左手で窓を大きく開けた。
世の中、戦争以外にも死はたくさんある。
「うわあ。それ、こわくね?」
実に、小者臭漂う物言いをするのは、三つ子の末っ子イソナだ。まだ顔色が悪いのは、酔いが完全に醒めてないためで、酔い覚ましのあとにはランニングが待っている。
「二番目も怖いけど、三番目はかなりきついよね」
ぶるぶる震えるように言うのはビスタだ。魔力酔いを醒ますため、食堂でハーブティを貰っている。ハーブと言っても繁殖力が強すぎて、よく畑を荒らすのでこの街ではただの如くあふれた茶だ。国から助成金が出るから利益がなくとも作る者は多い。
お仕事をさぼった貧しい四人と質素なマルスはお茶を、パックだけはソーダ水をすすっている。
神託によって与えられる名は、一人につき一つである。ゆえに、基本は一生に一度、一人一つしか名前を与えられない。特殊な場合をのぞき。
その特殊な場合の一つが、名前を奪う行為だ。
名前を奪われた人間は、名前ごと魂を削られる。削られた魂は、新しい言の葉に宿る力を無くし、再生の輪を抜けるという。魂のあり方は、信じる神話ごとに違うが、ごく一般的な見解はこれである。
魂に傷がつくとなれば、勇猛な北の神話を信じる戦士たちも、ごくりと唾を呑みこんでしまうことだろう。
肉体の死は一時的だが、魂の死は永遠の無なのだから。
もちろん、名前を奪うにはそれ相応のリスクがある。どのくらいかといえば、相手にもよるが、凄腕の元傭兵の営む武器屋に果物ナイフで強盗に入るといったものだろうか。
「ほんと、それやられるとありえねーけど、俺らはあんまり関係ねーな」
三つ子の一番上、イソゴが言った。
リスクがあるなら、よりリターンを求めるものだ。意味のない名前を食らったところで何の意味もない。世の中の人のほとんどが平凡であるように、名前も平凡なものが多いのだ。
「いや、もしかしたら今日のラッキーナンバーが五十五かもしれないよ」
パックがにやりと笑って言った。
「そんな理由で殺されたくねぇ」
パックの言葉に、イソゴが真面目な顔で言い返す。そんなこと言いながら、冷や汗をかいているように見えるのは気のせいだろうか。
「もし狙うとしたら、やっぱりマルスかパックだよね。先生の言うとおり」
ビスタが言った。
名前の力は知名度とそれを意味するもので決まる。
「マルスは名前というより、見た目からな。確実に違う意味で食べられるかも」
マルスが顔を赤くする。つまりそういう意味で食べられるということだ。世の中には、きれいな子どもを好んで買うセレブな方々がいらっしゃるのである。
パック以外も、同じ想像をしたらしいイソゴと口にしたビスタがなんともいえない悶々とした表情を見せる。こやつら、餓鬼でもやはり野郎だ。そういう願望が少なからずあるらしい。
「お相手がきれいなお姉さんとは限らないけどね」
相手が若くて美人だという確証はなく、でっぷりとした男色親爺の可能性のほうが高いだろう。
それを聞いてマルスは顔を青くし、イソゴとビスタは「うげっ」とうつむいた。
「パックはねえだろ、こいつの名前は」
手の平を振りながら、イソナが首を振る。
パックというのは、妖精の名前である。一般的に、神、英雄、精霊の名を持つことは誉とされるがそれにも種類がある。悪い神様の名前を貰った赤子は、生まれなかったことにされることもある。名前に導かれて悪人になる前に始末する、それは道理といえるが、理不尽ともいえる。でも、それが現実なのだ。
「いたずらの妖精って、何の役にも立たねえな。むしろ害悪だ」
「失敬だな、この数字野郎」
三つ子の末っ子イソナにパックは反論する。比較的短気なイソナはパックの頬をぶにっと伸ばしに来る。比較的子どもっぽいイソナはパックにつられやすいのでからかうのは楽しい。
「ちょっと黙れや、悪童野郎」
「ふはは、ははひてひょ」
パックは頬を引っ張られながらも、うまい具合に身体を反転させ、イソナのマウントを取る。やり返すようにイソナの頬をぶにっと引っ張った。
「おいおい、やめとけ。どうせこの後疲れるんだ。いま、ゆっくり休んで酔いを醒ましとけよ」
三つ子の中で一番、常識人のイソロクが茶を飲みながら冷静に弟を諭す。しかし、パックが歯茎をむき出しにして白目をむいた顔を見せたところ、茶を鼻から噴出してむせた。冷静ぶったところで、このくらいで噴き出すとはまだまだ精進の足りない人間である。
「ぱ、パック、この野郎!」
三つ子の二番目が参戦し、乱闘となる。取っ組み合いの喧嘩は楽しいが、それにしてもこの二人、愛らしい女の子に向かって普通に殴りかかってくるあたり、絶対もてないタイプだとパックは確信する。
そんなわけで、パックの班員は大体、気のいい奴ばかりで仲がよかった。ちょっと過剰なスキンシップが多いのもきっと仲が良い証拠だろう。
「先生がくるよー」
マルスが乱闘のパックたちに言った。パックたちは、急いで何事もなかったかのように、椅子に座るとソーダ水や茶をすすった。
だが、破れたシャツと鼻血はごまかせず、パックもランニングをさせられる羽目になったのであった。
「別にお前はしなくてよかったんじゃね」
陽が傾きかけた空を眺め、イソナが言った。相手は、樽の上に座って荒い息を吐くマルスだ。井戸から汲んできた水をイソナが差し出すと、憑りつかれたかのように水を飲みはじめた。
場所は街はずれで、ガーハイム先生がゴールとして決めた場所である。倉庫の脇に空の樽や木箱が置いてあるので、各々座っている。
ランニングを言いつけられたのは、お仕事ができなかった四人と喧嘩したパックなので、マルスは走る必要はなかった。でも、マルスは走った。
六人の中で一番体力がないのはマルスだ。正午から日が傾き、夕の刻の鐘が鳴るまで走るのはきつかっただろう。そのあいだ、一番素早いパックとは周差がついていた。
マルスは頑張り屋だと思う。名前の如く知恵を貯めることは得意だし、彼の努力は実っている。でもそれは座学における面だけだ。この場所で、座学がどの程度役に立つといえば、ガーハイムの勉強配分を見ればわかる。ガーハイムは座学を一切行わず、体力と精神力を酷使する仕事ばかり行わせる。一見、インテリに見えるガーハイムであるが、教育理念はかなりガチにできている。
努力は実るという言葉がある、パックはその言葉が本当だと知っている。でも、本当であるからこそ、残酷であることを知っている。
同じ努力をしたところで、より才能があるもののほうが実るのが早いことは歴然だ。そして、マルスがその実りに追いつくには、五倍、十倍の努力を必要とする。ゆえに才能のないものは、天才に追いつく前に諦めるか、壊れてしまう。パックの視る限り、マルスはその後者へと突き進んでいる。
(疲れるのにねえ)
パックは目を細め、にやにやしながら水を飲む。
インテリっぽいけど実は鬼軍曹ガーハイム、よく似ているけど少しずつ性格が違う三つ子たち、ツッコミ役のフォロー型のビスタに、努力家の美少年マルス。
見ていると飽きないなあ、とパックは思う。
(退屈しない)
パックはそれで満足していた。パックを追い出しジジババどもに感謝したい。
たとえ、そこが硝煙と血の混じる風が漂う場所であろうと。
「おい、餓鬼ども。さっさと帰れ」
大人の声が聞こえてきたのは、空が赤から藍色へと変わっていく頃だった。思った以上にのんびりしてしまったらしい。
大人は腕章をつけていることから、門に駐在する兵士だとわかった。仕事を増やすな、と言わんばかりに、首の裏をかきながら近づいてくる。
「その様子だと兵見習いか? 明日も訓練だろ。早く帰れ」
仕事を増やすな、と犬でも追い払うように手をはらって見せる。
「ごめんなさい。すぐに帰ります」
マルスが、樽の上から飛び降りる。息は整って、動けるようだ。
「行こう、皆」
「ああ、マルス。待ってよ」
ビスタが木箱から飛び降りる。三つ子たちもそれに続く。
パックだけは、小走りもせずにてくてくと歩く。兵士に怒られたら、それから走ればいいと思ったからだ。
だが、パックの背後から怒鳴る兵士の声は聞こえなかった。
振り返ってみると、顎をつかんだままなにやら考えている様子で、じっとマルスたちを見ていた。