12 琥珀館 後編
通された部屋は琥珀館の中でも下の階、広さはあるものの想像していた女郎宿とはかけ離れたものであった。
寝具は用意されているものの、それはただ眠るだけに用意されたといっていい。夜の蝶の寝所としては質素なものであった。
(これは娼館というより)
ふわっと独特のスープの香りがした。隣にいるロクが鼻をすんすんさせている。パックは腐ったような匂いにしか思えないけど、ロクにとっては郷土料理の発酵食品の匂いだろう。
これまた変な匂いのする草を編みこんだ床のパーツが敷き詰められ、平べったいクッションが丸く低いテーブルを囲んでいる。
かたかたと盆の上に食器をのせ、近づいてくる音がした。
その様子をロクがなんとも口にしがたい表情で見ている。どこか悔しそうな、それでいて愛おしそうな。
店のエントランスから想像できないとても懐かしい光景だろう。もっとも、それはロクにとってであり、パックにはなんの郷愁もない。もうとっくに止まった鼻血をいかに重傷に思わせるしか考えない。
「どうしたんですか? その子たち」
女がぱたぱたとでてきた。持っていた盆を置く。ハスキーな声に聞き覚えがある。
「ちょっとな。顔をしこたま打ってしまって可哀そうじゃろ。ちょっと治療してやらんかね」
隻眼の老人は、出てきた女にそう言った。
パックはそこでようやく顔を上げる。そこには、やせぎすのほくろの多い女がいた。ごわごわの髪を白いスカーフで束ね、白いエプロンをつけている。部屋の端に置いてある衣装ケースに手を出すと、引き出しから木箱を取り出した。
「はい。消毒しますから、そこに座らせてください。旦那様。消毒だけしますから」
どことなくとげの立った言い方だとパックは思った。
女はパックの目の前に座る。そこでようやく目を合わせる。
『……』
女がじとっとパックをにらんだ。どうやらここにパックがいることは、彼女にとってあまり好ましくないらしい。
だから、邪魔そうにパックたちを見ているのだろう。
わざわざ裏口から入ってくる老人。部屋は下層の質素なもの。迎える娼婦はそれ相応の見た目のもの。娼婦としてのランクは低いように見える。
(誰も彼女をイワナガヒメとは思わない)
そして、その客人もそこらでほいほい子どもを拾ってくるような人物だ。
気安いじいさんとロクやマルスプミラは思っているだろう。
そう簡単に受け止めていいものだろうか。
(ふーん)
パックは血の止まった鼻をイワナガヒメに向ける。
「おねがいします、おねいさん」
彼女の名前をここで伝えたら、今日のパックのミッションはコンプリートとなる。それでは大変つまらないのではなかろうか。パックはちらりとマルスを見ながら舌を出す。
「……はいよ。ちょっとくすぐったいけど我慢しなさい」
お風呂屋での言葉づかいほど蓮っ葉じゃないのは、あの隻眼の老人を気づかってのことだろうか。お風呂屋で見る限り、おねいさんは自分が何者であるか隠す様子はなかった。面倒だから気づかれないほうが楽だという印象は強かったけど。それで、今、彼女がパックのことを邪魔に見ている理由は。
「女の子を泥だらけのままでほっておくのはさすがに忍びないからねえ」
「そうじゃろ」
イワナガヒメの言葉に同意する老人。
おねいさんが隠したがっているのは、この老人の素性ではないだろうか。
そのためかおねいさんはちらちらと周りに視線を配っている。天井を見たり、ロクたちを見たり。挙動不審とまではいかなくても、パックが気づく程度の不自然さは見えた。
パックはちらりとロクとマルスを見る。この二人は、なぜか苦笑いを浮かべていた。居心地のよい空間ではないだろう。見ず知らずの老人に娼館に連れてこられたら、なにかしら変な気分になるものだろうか。
「本当なら、子どもでも男を中に入れるのはどうかと思いますよ、旦那様」
もっともなことをおねいさんは言った。
このように部屋の主が言うのであればそうだろう。マルスは見た目は美少女でも、中身はちゃんとついている。今は女の子に見られているだろうけど。
「固いこと言うな。たまには良かろう」
さっさと追い出したいおねいさんとは違い、老人はパックたちを歓迎しているようだ。
隻眼の老人は、部屋の隅に置いてある小さな物入れをいじる。中から、カードの束を取り出すとマルスとロクの前に配っていく。
「夕飯前に一勝負しないかい?」
「……すみません、これ、見たことないんですけど」
老人の誘いにマルスが言った。獣や花や月が描かれている絵札だ。
「俺、わかるから、お前は見てろよ」
ロクがマルスのカードを山に戻して言った。
「おねがいします」
「おう、儂は強いからな」
老人はしわとぼうぼうのおひげにまみれた顔を歪めて言った。
対して、パックはおねいさんにぺたぺたと消毒液をつけられている。赤くなった鼻はすりむいている。
「こんなところに忍び込むなんて、どんな悪餓鬼かね」
「こんな悪餓鬼ですよ。お腹がすいたのでご飯をください」
「しかも、ずうずうしいときたものだ」
おねいさんはパックの鼻に軟膏を塗りつけると、指を洗いにいった。部屋の隣はキッチンになっているらしく、土間につながっていた。どうやら食事もここでおねいさんが作ったものらしい。
(娼館というより)
ごく普通の家庭というものがあれば、それだろうか。
あったかいご飯を用意してくれる奥さんに、仕事から帰った旦那さん。そこに元気な子どもでもいたら理想なのだろうか。
パックにはよくわからないけど。
「ちょっと冷えちゃったので温めなおしてきますね」
おねいさんは一度戻ると今度は鍋を持ってキッチンへと向かう。お部屋が下の階にあるのも、キッチンが併設してあるからだろう。電気もだけど、ガスや水道の普及率はそんなに高くない。パックの住んでいるアパートでは、二階は水道の水がでにくいので、水瓶に水をためて使っているくらいだ。
もっとも、パックの住んでいた村では、水道や電気という単語すらなかったのだけど。
「傷の治療も終わったし、そ、それじゃあ、俺たちはそろそろ……」
ロクはさっさとここを出たいと思ったらしい。マルスは、せっかくこの娼館に入り込めたのに、目当ての人物に会えずどぎまぎしていた。ロクの言葉を聞いて、びくりと肩を揺らす。
「勝負もついたと思いますし」
ロクがカードの絵札を揃えて、老人に見せる。一勝負といったがすぐ終わるゲームらしい。それでいてロクはそのゲームに強いようだ。老人は、んぐぐっと唸って、ロクの手首をつかむ。
「夕飯食べて行かんかね」
老人は絵札をにらみながら言った。
パックはこのカードゲームの名前も知らない。けれど、一つだけわかるのは、この老人が負けず嫌いということだろう。
おねいさんはその道のプロらしく、客をもてなすのが上手かった。パックとマルスには、白いだけのライスと得体のしれない謎のスープではなく、白パンと根野菜のシチューを出してくれた。ロクは、変な匂いのするスープに、さらには粘つく腐った豆を出されて、目を輝かせている。
「君が下手物食いだとは知らなかったよ」
パックがこっそり言うと、
「黙れ、ソウルフード馬鹿にすんな」
と切れられた。ついでに蹴らないでもらいたい。
きっと三つ子たちが切れやすいのは腐った豆の食い過ぎなのかもしれない。食が合わない人間とやっていくのは難しい。
パックはシチューをスプーンですくいながら、老人を見る。
「ねえ、おじいさん、その眼帯はどうしたの?」
パックは臭いスープをすする老人に言った。老人は残った右目をぱちぱちさせると、眼帯に手をやった。
「見るかい?」
「は……」
「い、いいです」
パックの口を押さえこみ、かわりに返事するのはロクだった。顔の近くで口を開かないで貰いたい、粘つく豆の匂いがきつい。ぐいっと顎をむこうへとやった。
「それは残念だ」
老人は眼帯から手を離すと、ライスを口の中に入れた。焼いただけのお魚をお箸という二本の棒でつついてほぐして口に入れる。
服はいつのまにか、ゆったりした東方の着物へと変わっていた。老人のお顔は北方に近い顔立ちなのでなんかちぐはぐに見えるのだが、東方の文化には随分慣れた様子だった。
「昔な。ちょっとへまをしてしまってね、こんな風にさせられたんだよ。若かったからねえ。ほら、ここにもそのときのあとが」
しみじみと語る老人。老人は首を見せた。青黒い痣のような模様がくっきりとついている。まるで首に縄でも巻き付いたようなあとだった。
(なにがあったことやら)
老人の腰は深く曲がり、杖をつきながら歩いている。老化といえばそれで終わりだが、彼の目は妙に若々しく感じられた。
さっきまでパクパクとご飯を食べていたロクの手が遅くなる。器に一口分だけライスを残し、テーブルの上に置く。
「おかわりはどうする」
「もうお腹いっぱいです」
おねいさんの言葉にロクが返事した。
パックはロクの代わりにシチューのおかわりをいただく。
「他に知りたいことは?」
老人はにやりと笑った。
おねいさんは黙っているが、なにか言いたげにパックたちを見ている。
何が言いたいのか。
おずおずと手を上げたのは、マルスプミラであった。老人はまるで先生のようにマルスプミラをあてた。「じゃあ、そこの金髪の女の子」と言われて、マルスは一瞬自分のことか混乱した様子だったが口を開いた。
「ここに不死の姫がいると聞いたんですけど」
ようやく本題に進んだな、とパックは思う。だけど、口の中に大きな芋が入っているので話すことはできない。シチューは美味しいけど、お野菜はもっととろとろに煮込んだほうが好みである。
「それがどうしたんだい?」
返事をしたのは、老人ではなくおねいさんのほうだった。
「黙っときな」と言わんばかりに、パックの目の前に焼き菓子が置かれた。おねいさんの目はすわっていた。
老人は口を出したおねいさんに対して何も言わず、茶をすすっていた。葉っぱをじっくり乾燥させた東方のお茶で、取っ手のない焼き物のコップに入っていた。
「もしかして、お嬢ちゃん、そんな話を聞いてここにきたっていうのかい?」
おねいさんの物言いはゆっくりだったが、どことなく圧力を感じた。お風呂屋さんの一件を見たパックは、このおねいさんがただの娼婦ではないことくらい十分わかっている。
「……はい」
マルスはひるまずに答える。
「僕はその人に会いにここに来ました」
(言っちゃったあ)
パックはもぐもぐと焼き菓子を食べながら思った。小さなパンケーキ二枚の間に、甘い黒いものを挟んだそれはなかなか美味しい。これも東方の菓子らしく、ロクもマルスのほうをじっと見ながらも手を伸ばしてきた。これはパックが貰ったものなので、ロクの手はぱちっと叩いた。
おねいさんは腕を組んでマルスを見下ろした。眼光が突き刺さるような顔だ。
ちかちかと天井からぶら下がった電球が揺れる。接触が悪いのだろうか、光が点滅しはじめた。
(ここは灯篭じゃないんだね)
そんなことを考えながら、ちらりと周りを見る。
なんだか空気がぴりぴりしている。
「ふうん、なんか変だと思ったらこういうことですか。旦那様、早くこんな糞餓鬼ども追い出したいんですけどいいでしょうか?」
「そんなこと言われてもなあ。儂はもう一勝負したいんだが」
老人はのん気なことを言いながら茶をテーブルに置く。
「それに」
老人は口角を上げて言った。
「もう遅いと思うがの」
老人はそう言うと、丸テーブルを掴んだ。上にのっていた食器が落ち、がしゃんと中身がひっくり返る。おねいさんは苦虫を潰した顔でロクとマルスの上に覆いかぶさった。
ガラスの割れる音が聞こえた。土間の窓が割れ、破片が飛び散るとともに何かが丸テーブルに突き刺さった。
細長い棒がテーブルに突き刺さっていた。矢のようだが矢羽はない。弓ではなくボウガンの類だとパックにもわかる。
おねいさんが顔を歪めたまま、ロクとマルスを引っ張り、部屋の隅へと移動させる。
「ふむ、射程からして隣の建物からかの? 第二弾がくるか、それとも逃げるか? お嬢ちゃんならどっちだと思う?」
「自分なら逃げるかなあ。なんとなく当たったらラッキーくらいなもので、撃った感じがするよ。それなら、さっさと逃げるのが一番だし。今、このおしゃべりしている時間も少しでも離れようとするし。それに」
外で甲高い叫び声が聞こえた。パックは木でできたスライド式のドアを開くと外をのぞく。黒づくめの男たちが琥珀館のエントランスにいた。おのおの武器のようなものを持っている。娼婦たちは逃げているが、護衛の男たちが立ちふさがっている。
不思議なことに護衛の姿を見て、黒づくめの男たちはなにやら、混乱しているように見える。
「それに、てけとーに見繕ったゴロツキたちに強盗をそそのかすとすれば、もっと時間稼ぎになる」
最大の娼館、そこの客が少ない日、護衛が減る日を教えてやれば、馬鹿な奴らなら食いつくかもしれない。簡単に、灯篭の光のことを教えてやればいいのだ。
そして、この隻眼の老人は、その計画を読んでいたようだ。
老人は笑って、今度はマルスとロクのほうを見た。テーブルに食い込んだ矢を引き抜く。
「なあ、坊主。もう一回勝負しようか?」
腰の曲がった老人はテーブルを投げ捨てると、壁によっこらしょっともたれるように座り込んだ。
「この矢を撃った人間をみつけられたら、おまえさんたちの勝ちってのはどうだい? 制限時間は、明日の正午まででさ」
矢をロクに投げて渡す。ロクは口を開こうとするが、混乱して頭の中でなんとか整理しながらしゃべろうとしている。結果、魚のようにぱくぱくするしかなかった。
「そんなの無理に決まってます」
ロクの代わりにマルスが口を開いた。
「礼に、イワナガヒメを紹介するといってもかい?」
「……」
ロクがマルスに対して「やめろ」と肩を揺らしている。
(ほうほうこれは)
パックは部屋の入口に置いてある靴を拾った。それをマルスとロクに投げる。
(面白いことになりそうだ)
マルスはそれをつかむと、キッチン、土間へと降りてそのまま破られた窓を開けて出ていった。




