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5 石長比売 後編


 洗い場では、せっせと身体を洗う少女がいた。パックより一つか二つか上にしか見えない彼女たちは、泣きそうな顔で身体をすりおろすように洗っていた。痩せた身体のあちこちが赤くなっていた。


 おばちゃんが横目で見ると、小さく声をかけて通り過ぎる。少女は唇をかみしめたままずっと身体をこすり続ける。


 おばちゃんの顔が悲しそうに見えた。


「初仕事だったんだろうね」


 おばちゃんがぼそっと言った。少女は若いがまだ、風呂屋に通えるほど稼ぎがあるように見えなかった。つまり、今日は特別に連れてこられたのだろう。ごはんも美味しいものを出してくれるだろう。しかし、それも彼女には嬉しいと感じるものでもないだろうが。


 身体に残った不快感をぬぐうのに精いっぱいでそれどこではないのだろう。


 パックは横目で通り過ぎると、洗うために貯めてある専用の湯殿からお湯をすくう。ざばんと頭から豪快にかぶった。もう一杯桶にお湯をためて、洗い場に座る。石鹸を泡立てると頭に泡を塗りたくった。


「なんかきったないわね」


 泡立ちの悪いパックの頭をみて、おばちゃんが手を出した。一度、貯めたお湯を頭にかけて流すと、自分の持ってきた洗髪剤をとりだした。おじちゃんの用意した飾り気のない石鹸とちがい、小さなボトルに入ったそれは妙にいい香りがした。香水を溶け込ませているようだ。

 おばちゃんは惜しげもなく取り出すと、パックの頭に塗りつけて、指で丁寧に泡立てはじめた。よく見ると、石鹸も高級品で、身体を洗うタオルは絹でできていた。持ち物になんかギャップがある。


「おばちゃん、これ高くない?」

「高いよ、遠慮するかい? それにしても、なにつけてんだい? じゃりじゃりしてるけど」


 丁寧に指の腹で頭皮を撫でる。だんだん気持ち良くなってとろんとしてきた。髪にかぶっていた灰がよごれた泡になって落ちてくる。パックはぼんやりとそれを見つめる。


「ほら、お湯かけるよ」

「もう?」

「無料はここまでだよ。どうしてもっていうんなら、店にきな。安くしとくからさ」


 からかうように笑いおばちゃんは、桶に湯をくんでパックの頭に流した。パックは目に入らないようにぎゅっと目を瞑り、お湯が流れ終わると犬みたいにぷるぷるした。


「こら、かかるからやめなさいな」


 がっちり頭をホールドするように掴むおばちゃん。


(この人慣れてるなあ)


 さっきからパックの傍にいるのも、パックが悪戯をしないように見張っているのだろう。別に、パックがなにをしようがこの人には関係ないはずなのだけど、ついそういう風に面倒を見てしまう癖ができているのだとパックは思った。イソゴとイソナの面倒を見るのに慣れているロクを思い出す。


(兄弟が多いのかなあ)


 そうなるとおばちゃんがお水な道にすすんだ理由も想像できる。幼い兄弟たちを養うために出稼ぎにきたということか。


(いや、それとも……)


 なんだか妙にちぐはぐな気がする。地味な恰好なのに職業は娼婦、あまり見た目もよくないのに風呂屋には慣れた様子で、もっている石鹸や道具は高級品。


(もしや、やり手婆のほうか?)


 娼婦ではなく、それを取り仕切るほうなら納得がいった。それなら面倒見がいい理由もわかる。


 おばちゃんはもう一杯お湯をパックの頭にかける。泡が完全に落ちて、ざらざらした不快感は完全に消えた。


「おばちゃん、ありがとう」

「うむ、この餓鬼」


 ついおばちゃんと口にだしたため、鼻をつままれてしまった。次はおねいさんと呼ばなければ。


「身体はちゃんと洗うんだよ。洗い終わったら、あの小さな湯殿に入って身体を清めな」


 おばちゃんもといおねいさんが指す方向には、長方形の小さなお風呂があって、身体を洗い終えた人が入って肩までつかっていた。数秒であがると、横に備え付けてある水汲み場で、身体を洗い流している。


「清める?」

「ああ、清めるんだ。ちゃんと清めないと病気になってしまうからね」


 お清めとは体の良い言葉だとパックは思った。

 要は感染症を防ぐための消毒液だろう。公衆浴場は大多数の人間が使っている、その誰がどんな病気を持っているかわからない。しかも客が、身体を売りものにする娼婦ならなおさらだ。


 一般人と風呂をわけた理由がここにもあった。


 案の定、小さなお風呂から変なつーんとする匂いがする。パックは通り過ぎようとしたけど、おねいさんがパックをじっと見ているのでしぶしぶ入ってすぐ上がった。元々、形だけさせようとしたみたいで、すばやく上がったパックをおねいさんはなにも言わなかった。そのまま、自分も消毒液につかって上がると、露天の隅っこのお風呂へといった。


 パックは傍にあった一番大きいお風呂に浸かることにした。大理石で作られたそれは、泳ぐのに最適そうだった。






「見苦しいからここでその運動やめてくんない?」

「だって、このあとすぐ予約が入ってんのよ。せっかちな人が」


 目の前であられもない姿で開脚をするおねえさんたちがいる。お仕事柄身体も資本なので大変だ。お客様によりよいサービスをするために努力するのはわかるけど、これをお客さんが見たらげんなりして足が遠のきそうであるとパックは思った。それくらい見苦しかった。


 職業がちょっと特殊で、縄張り争いは激しいようだけど、それ以外の面では彼女たちなりに楽しんでいるように見えた。娼婦同士の話題は他愛もない日常や肌に合う化粧品や美容法に、どこまで本当かわからないゴシップとぐるぐると変わる。パックはお風呂の中を犬かきしながら、その話を聞いて回る。


 解放感あふれる場所なので、話もけっこう赤裸々である。パックはここで聞いた娼婦たちのお客さんの名前を憶えておこうと思った。ごつい軍人や傭兵のおっさんが、寝屋では赤ちゃん言葉を使ったり、変なお洋服を持ってきて娼婦に着せたり、ときに自分が着たりとなかなか愉快な様子である。


 これを知られたら、もう面子が丸つぶれだろうな、とにやにやしてしまう。


 そんな楽しげな話に聞き入っている最中だった。


 なんだかヒステリックな声が聞こえてきた。


 なんだろう、とパックは声がするほうを見る。すると、先ほど身体をごしごしと洗っていた女の子が年上の女性二人にからまれていた。なにやら、女の子が粗相をしてしまったらしい。

 二人の女性は先ほど、一番高い位置にあるお風呂でくつろいでいた人たちだ。とりまきその一、その二といった風情でよく見ると、残りの女たちはくすくすと遠巻きで笑っていた。


(あっ、もしかして)


 あの少女は、身体を洗ったあとのお清めをしなかったのかもしれない。少女はここへ来るのが初めてだったみたいだ。パックのように細かく説明を受けなかったのかもしれない。いや、説明自体は聞いていたのかもしれないが、頭から抜け落ちていたのかもしれない。だから、今、つつかれている。


「ほら、入って。ばっちいあんたをきれいにしてあげる」


 親切でやっているのよ、と恩着せがましい言葉をかけながら消毒液の中に突っ込んだ。小さな悲鳴のような声が少女から聞こえた。


 あの消毒液は精油が混ぜ込まれているのだろうか、とてもすうすうした。全身が赤くなるまでけずっていた少女は苦痛に顔を歪ませている。


「じゃあ、いくつ数えようか? 十、それとも百?」

「あんた、百まで数えられるの?」

「失礼ね、ちゃんとできるわよ。まあ、間違えたら最初からやり直しだけど」


 やけに間延びした声で数えはじめた。案の定、すぐさまひっかかり最初から数え直しになる。


 それを楽しそうに見る女たち。何人かは可哀そうだと顔を背けたり、悔しそうな顔をしながらも何も言えないでいる。その中に、よく見ると先ほどバラ風呂のほうに入っていたグループもいた。消毒液に浸かりながら震える少女は、助けを求めるようにバラ風呂グループを見ている。顔見知りなのだろうか。


口をだしたいようだが、言い出せないという雰囲気である。中心人物たる女性が見当たらなかった。一人が、ちらちらと脱衣所の方を見ている。もしかして、個室でマッサージでも受けている最中なのかもしれない。


 それを謀ってやっているのかもしれないと思うと、なかなか悪知恵が働くおねえさんたちだなあとパックは感心した。それと同時に、このままではつまらないなあと思い、お風呂セットの石鹸を手にする。ああいうおねえさんたちが恥をかく姿はとてもおもしろいからだ。


 石鹸をどう使うか言わずもがなというところで、その手はつかまれた。振りかぶろうとした石鹸は元の籠の中におさめられた。


 上を見ると、ほくろいっぱいのお顔をしたおねいさんがいた。


「だから、ちゃんと身体洗えっていったのに」


 疲れた声に聞こえる。おねいさんはけだるげなまま、ぺたぺたと歩くととりまきその一その二を無視して、女の子を消毒液からひっぱりだした。


「ちょっと、まだ数え終わって……」


 そんなことお構いなしにおねいさんは傍の桶を手に取り、少女の消毒液を流してやる。


 無視されたことが頭にきたとりまきその一は、おねいさんの肩をつかもうとするが、その動きが止まった。

 振り向いたおねいさんの視線が、とりまきたちに突き刺さっていた。


 おねいさんは地味な様相でおばちゃん臭い喋り方をする。けして美人じゃないし、とりまきたちのほうがすっぴんでもずっと美人で華やかだ。


 でも、それとは違う何かがおねいさんには漂っていた。

 なんというのだろうか、口でうまく説明できない。でも、一番近い言葉でいうならば、『自信』だった。自己愛という半端なものではなく、自分の存在が相手にまけることはないと確信しているみたいだった。


「この子はルールを破ったのよ、邪魔しないで、ちょうだい」

 

 半歩さがりながら取り巻きがいった。 


「あんたももしかしてここにきて浅いのかい? 新人には最初にちゃんと説明するのが決まりのはずだよ。折檻するとしたら、二回目からだろ? それとも、あんたらもおねえさまがたからそういう教育でも受けたのかい?」


 おねいさんは次に後ろでくすくす笑っていたグループのボスに目をつける。華やかな顔立ちの女は、おねいさんと視線が合うと目に見えてわかるように顔が青ざめた。それでいて、威厳を損なわぬようにおねいさんのほうへと近づいた。

 もちろん、向こうから近づいてくるという時点で、おねいさんに対して敗北しているのと同じ意味だが、そこまでの余裕はないらしい。


石長比売いわながひめお久しぶりです」


 その名前を聞いた周りがざわめく。呼ばれた当人は気にした様子もなく、腰布を巻いただけの姿で腕を組んで立っていた。


「挨拶はいいから、同じ店の娼婦ぐらいとりまとめな」


 おねいさんはそれだけ言うと、次にバラ風呂にいたグループのところへ行った。そこには、マッサージ中呼び戻されて不機嫌そうな女がいた。しかし、イワナガヒメといわれたおねいさんを見るなり表情を変えた。こちらも先ほどの女と変わらない様子だ。


「新人から目を離すなんて偉くなったもんだね」

「……申し訳ありません」


 素直に謝罪の言葉をいれる分こちらは従順なようだ。しかし、周りの驚いた顔を見ると異例のことらしい。


(いわながひめ?)


 なんだろう、この人。


(なんか聞いたことがある名前だ)


 どこでだっただろうか、パックは遠い記憶を探す。


『石長比売』


 やる気のない声が再生された。あれは、あの男の声だ。中堅の娼館の支配人、『香り女』を売り付けた先だ。


(へえ)


 パックは有名人なんだねと思いながら、空いた一番高い位置にあるお風呂に入った。偉そうにしていた二つのグループは、おねいさんこと石長比売に睨まれてはなにもできないらしい。くやしそうに、自分よりも確実に醜い女を見ている。しかし、その漂う雰囲気は、明らかに格が違った。見た目でなく内面が、彼女の存在を価値にしていた。


 パックをうまくあしらうわけである。そんじょそこらのおばちゃん扱いしたら失礼だ。


 おねいさんは、桶にお湯をすくうとまた少女にゆっくりかけて消毒液を洗い流してやっていた。それをかわりますと周りにわらわらと他の娼婦たちが集まってくるのを煩わしそうにしている。


 本当に面倒見がいい人だった。


 それにしても、パックとしてはなんかなにもできなくて物足りない気分である。仕方ないので、お湯をげーげー吐くライオンさんのお口にあひるさんを持った手をつっこんだ。


「とりにくだよー、お食べー」


 樹脂でできたそれを食べさせると、お口から流れるお湯はちょろちょろになった。もちろん、そのままお湯がとどまっているわけでなく、少し上向きのライオンさんの口からすぐさまあひるさんロケットが打ち出された。


 空飛ぶあひるさんは、放物線を描きながら、壁の向こう側へと飛んでいく。


 遠くで聞き覚えのある叫び声が聞こえた気がするが、パックは気にせず犬かきに精をだすことにした。




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