2 青い青い黒髪
家に帰ると、おじさんが眉間にしわを寄せてホットドッグをかじっていた。アパートに入らず、大家のおばちゃんにつかまっている。きっとホットドックもおばちゃんからの差し入れだろう。食べてしまった以上、長話を聞かねばならぬという呪い付だ。おばちゃんはご丁寧に椅子まで用意している。おじさんは、生返事しながら、積み重なった煉瓦の上に座っている。
「それは! 広場西通りに週に一度しか店をださない、気弱そうなおじいちゃんの作るホットドッグじゃないか! 平焼きのパンにあらびきのウインナーと臭みを取った玉ねぎを特製ソースで味付た代物!」
パックはおじさんが食べているものを指を指しながら説明口調で言った。ロスおじさんは、口を開けたままだるそうにパックを見る。
「おや、詳しいね。地元民でもなかなか知らないっていうのに」
元美人のおばちゃんは、紙袋からホットドッグを取り出してパックに渡す。
「ありがとう」
「しっかり食べて大きくおなり」
これだから元美人は気前がいい。
パックはホットドッグをかじりながら、アパートの中へ入ろうとすると襟首をつかまれて、おじさんの膝の上にのせられた。
「お前もおばさんとお話しがしたいよな」
おじさんがホットドッグを食べ終えて指を舐めながら言った。そんな手でパックに触ろうとするので、「汚いわね、軽々しく触らないでちょうだい」というお顔をしたら、こめかみを拳で挟まれてぐりぐりされた。顔に出したが言ってないのにひどいおじさんだ。なので今度は「加齢臭がつく、いやだわ。これだから悲哀の漂うおじさんは」という顔をしたら、ジャイアントスイング食らいそうになった。でも、大家のおばちゃんの「話を聞くか、家賃を上げられるか、どっちがいいかい?」という、二択を迫るお顔に負けて二人は正座して聞く羽目になった。
世の中、言葉に頼らずとも話が通じる場合はあるというものだ。なのでおばちゃんのお話は聞かなくても、彼女のことをわかっているよ、という主旨の台詞を吐こうとしたが、家賃の値上げが怖いおじさんがパックを羽交い絞めにして膝の上にのせたので言えなかった。
結果、おばちゃんのゴシップを二時間しっかり聞く羽目になった。
「もう、おじさんのせいだよ。ノーと言えるおじさんになろう」
パックはアパートの部屋に戻るとばったりとベッドに倒れ込んだ。おじさんがパックの襟をつかみ「お前はあっち」と物置の方を指したので、意地でも動く気にならない。そのままおじさんの身体に蝉のようにしがみついた。
「おじさん、もっと広い部屋に引っ越そうよ。多感な少女時代をあんな物置に押し込められる自分の気持ちにもなってよ」
「世の中、先立つものが必要なの! それに、おじさんの多感な時代に、股間に蜂蜜垂らして、蜂を誘導したのは誰だよ」
「幼い頃の過ちはいつか大輪の花を咲かせるための糧。その馬糞になれる喜びをおじさんは実感してほしいな。見よ、この麗しきつぼみを!」
パックはポーズをとって見せる。おじさんはぼーっとパックを見ると、がしっと頭を掴んだ。そのまま、ベッドの上に座らせると、テーブルに置いてあった新聞を手に取る。真ん中に破れ目を入れると、そのままパックにかぶせた。貫頭衣のようである。
「そのまま持ってろ」
おじさんはそういうとナイフを取り出してパックの後ろに座った。被った新聞の上にぱらぱらと髪が落ちていく。
「せっかく伸びてきたのに」
こちらに来る前に、向こうの地主の息子に仕掛けた悪戯のせいで一度丸坊主にされたのだ。こちらに来てだいぶ見られる長さに伸びてきたというのに。
「まだ、焦げてんだよ。なにやらかしてるんだ、お前は。それになんか汚いぞ。灰かこれは?」
ぱらぱらと落ちてくる青みがかった黒い髪。煙突掃除の煤も落ちる。おじさんはベッドの端にかけられてあったタオルを手に取ると、つむじにそって拭っていく。おじさんも同じ色でパックの母も同じ色だった。珍しいが皆無ではない色、もっとおかしな色の髪をした人間はたくさんいるので一際目立つものじゃない。
「ねえ、あの森人どうなるの?」
わざわざ髪を黒く染めた少女。本来は緑色の髪をしている。それを隠して、両手足と首に呪具をつけていた。あれは、どういうことだ。
「それから先は俺の仕事じゃねえ。それだけだ」
おじさんは淡々と答えながら毛先を揃えていく。古い記憶、青黒い髪を面倒くさそうに結うおじさんの背中。前にいたのは、一人しかいない。
「ここの記憶操作を請け負う技術者は大したものだね。みんなすっかり忘れていたよ」
パックは、ひとつだけ嘘をまじえておじさんに言った。
「なんのことかね」
しらばっくれるおじさん。そう言うモノだろう。守秘義務という割には軽い気もするけど、下手にパックが首を突っ込むより、わざわざ突っ込む方向を定めている気がする。ちょっと気に食わないけど、しばらくはおじさんにのせられておく。
おじさんは指先で焦げ目が残っていないか確かめながらパックの頭を撫でる。髪を触られるのは嫌いじゃない。パックは少し目を細める。
「そういう技術者ってけっこうお金かかるんじゃない。口止め料も含めてさ」
「そこなるお子様よ。棚の奥におじさん秘蔵のプリンがあるのだけど、ひとつ食べないかい?」
「一つだけ?」
「一つだけだ」
そんなことないだろう、甘党のおじさんは非番の日に行列のできるお菓子屋さんに並んで、買えるだけ買う。できることなら、誰か知人を連れて限定品を買い占めようとするだろう。
ふと、あのとき村にやってきたまだらの男を思い出す。異様な顔のまだら模様をのぞけば、体躯もしっかりした美丈夫だ。ついでにいえば、あれはテクニシャンだった。思い出すと少しほわんとなる。でも、同時にベアハッグされた痛みがよみがえってきて脇腹を擦る。酷い人だ、おじさんの言うことを鵜呑みにして、いたいけな女の子を傷物にするなんて。
「おじさん、あの変な模様の人なんていうの?」
そういえば名前はなんだっただろうか、聞いたことがあるような、ないような。あったとしても忘れていた。以前、男子寮を掃除しにいった際見たことがあるけど、あのときは途中でクール便に詰められて強制退去を受けたのだった。箱に無理やり詰め込むことはないと思う、本当にひどい人たちである。
おじさんは一瞬目を上に走らせる。わかりやすいなあ、とパックは思う。
「トヨフツっていうんだよ。東方の言葉だから意味は知らねえ」
トヨフツと言えば、おじさんの書いた報告書にのっていた名前だ。あの報告書の書き方では、トヨフツという名前はけっこう知られているようにとれた。普通、一軍人の名前を書いたところで、ピンとくるものはいない。軍のどこの所属など事細かなことが省かれていた。
とりあえず今のところ追及はやめておく。他に調べることはできるだろう。
「とりあえずこんなところだ」
おじさんはナイフを置くと、新聞紙から髪の毛が落ちないように丸めていった。
「ほれ、ばんざーい」
「ばんざーい」
頭だけしか入っていないけど、一応手を上げて見せる。丸められた新聞紙は、あふれ出しそうなごみ箱の上にのせられ押し付けられた。
パックは前髪を指でつまむ。おじさんは見た目よりも器用だ。たぶん、器用貧乏だ。絶対、いろんなことを押し付けられて損するタイプだ。
そんな器用貧乏に切られた髪型はそれほど悪くないな、とパックは壁にかけてあるひびの入った鏡を見ながら思った。
「明日、できるだけ早く帰ってこい。風呂屋、空いているうちにいくぞ。おいちゃん人ごみ嫌いだからね」
煤だらけのパックを見て思うのだろう。たしかに、水拭きしただけでは完全に汚れはとれなかった。
「最近のお風呂屋さんは、同伴いいんだね。向こうのおねえさんとか、機嫌悪くならない?」
「どんな風呂屋想像してる……、ってか、んなこと言うってことはまだ、完全に戻ってないんじゃないよな?」
おじさんが目を細めてパックを見る。いけない、純情可憐な乙女であるパックがそんなピンク色のお風呂屋さんの話をしてはいけないのだ。まだ少しだけ、狼のおじいさんが残っているのかもしれない。
そういえば、あのときつかまっていた中にいた少女はどうなっただろう。南方の神を崇拝する物わかりの良い娘。おじさんの報告書を読む限り、森人と一緒に丸投げしたところだろうか。
(名前聞いておけばよかったかな)
意味は違えど同じ読みはある、意味は同じだが言語が違う、されどまったく同じ名前の者はいない。そんな世界の理を信じるなら、名前さえわかっていれば探し当てることができるのだ。世界の中心にある世界樹の葉には、それぞれの名前を表す。その言の葉が落ちるとき、その名を持つ人もまた命を落とすという。
『名無し』であれば、探すのは難だろうが、彼女はそのようには見えなかった。途中まで薬によって呆けていたが、コヨトルの名に反応した後は、一本しっかりと芯が通っているように見えた。
(まあいっか)
機会があれば会えるだろうし、会えなかったらそれまでだ。
パックはおじさんが横になったベッドにダイブする。
「いってえ。どきなさいな」
「ここがよいのです」
「暑苦しいのです」
「気にしないで」
おじさんからベッドの壁側を奪って横になった。
おじさんはしぶしぶパックに背を向けて眠った。
翌日、おじさんはベッドから蹴落とされ、パックが大の字に眠っていたのは言うまでもない。




