1 煙突掃除
世の中には不都合なことがたくさんある。そして、不都合な現実をなかったことをすると歪な隠ぺいとなる。
パックはどれもぼんやり顔の同輩たちを見ながら思った。まさに隠ぺいされているなあ、と思った。
軍部の学兵たちが座学を受ける教室、パック以外の班員は皆、青白い顔をしていた。病人のような、それとも悪酒をあおりすぎたような、実に不健康なお顔であった。
「二日酔いかい、チミたち」
一人元気なパックは机の上に座り、ぐったりしているマルスプミラをのぞきこんだ。性格はまじめ過ぎて面白くないけど、目の保養になるお顔をしているなあ、とパックは思う。
「なんか頭痛くて。風邪かなあ」
優等生にあるまじき姿のマルス、机に顔をべったりはり付けている。
「そうだよな、風邪だろ。パックだけ元気なのが証拠だ」
「うん、君には言われたくないよ」
とりあえず未だ綴りを間違えて提出しては、ガーハイム先生に無言の圧力を受けているイソナが言う台詞ではない。
「パック、風邪ひいてないのはいいけど、どうしたの、その手?」
ビスタが椅子の背もたれにうなだれながら言った。パックの右手を指している。
(ふーん)
おくすりべったり塗って包帯を巻いた右手には、火傷による水ぶくれができている。なにが理由でそうなったのかは、ビスタだけでなく他の皆も知っているはずだ。しかし、ぐったりとしているだけで、それを答えようとするものはいない。
パックは周りを見る。以前、教室で見た男がいた。たしか、マルスプミラが誘拐されたあとだったと思う。
眠くなるような小さな声が教室の空気をさらにぬるくしている。
(また、暗示か)
そのうち悪戯しかけようと思っていて結局まだなにもやってなかったな、とパックは気が付いた。
それにしても用意がいいものだ。パックはあのレミ村から戻るまで眠っていたが、そのあいだにいろいろやれることはやってしまったのだろう。それにしても、怪我人に対してベアハッグとはひどいなあ、とパックは思う。多分、肋骨の一本はあれのせいで折れたはずだ。熱すぎる抱擁は悪くないけど、女の子はもっと丁寧に扱うべきである。
(マルスの誘拐に、人身売買も行う麻薬精製工場かあ)
きな臭いねえ、と笑いそうになるところをおさえる。そろそろ鐘の音が鳴る。規則正しい足音が廊下から聞こえてきた。
「それにしても急に先生が帰ってくるなんて、よかったんだか悪かったんだか」
形だけ筆記用具とノートを取りだし、イソゴが言った。
「いいんじゃない、今日から先生に仕事斡旋してもらえれば、あと五日ならどうにかなるでしょ」
ビスタが大きく息を吐きながら言った。
「変な仕事受ける前でよかったよ、パックったら他人事みたくわけのわからない危なそうな仕事に手をだそうとするんだもん」
「失敬だね。手短にお金が入るほうがいいでしょ」
「そうだけど。あっ、先生がきた」
ビスタは反対向きに座っていた椅子をかけなおすと、軍人らしい挨拶を先生にした。
立派なものだ。記憶は丸一日以上巻き戻されている。
パックも形だけの敬礼をすると、椅子にすわった。筆記用具を形だけでも取り出したけど、包帯でぐるぐるの手ではどうにも持ちにくいので、ノートを取るのは諦めた。代わりに目蓋の上にお目目を描いた紙を切り取りはり付けたが、授業開始三十秒でガーハイム先生に殴られた。
子どもは褒めて伸ばすほうがいいと思うのに。
午後はガーハイム先生に与えられた仕事をした。先生も城塞都市に帰ってきたばかりであんまりいい仕事はとれなかったと言っていたが、ごく普通の煙突掃除の仕事だった。ガーハイム先生のいい仕事の基準は、いかに学生の精神力を削るかという基準になるのでむしろビスタたちにはいい仕事だろう。
食堂でおばさんたちに言って煙突の煤をはらう。一番小さいのと、一人だけ無駄に元気だからといってパック一人を煙突に突っ込むのは理不尽である。
「なんということだ、君たちはそんな非道な人間なのか」
「お前、泥遊びとか好きだろ、その延長だ、働け」
と、ロクに煙突の上から蹴落とされそうになったので、くるぶしを掴んで道連れにした。
ぼすんと灰をまき散らしながら落下した。正直、肋骨のダメージはさらに加算されたが、パックの基準は、いかに相手を陥れるかである。真っ黒になったロクの顔を見て笑ってやろうと思ったら。
「ロク、なにしてるの? 顔拭いてるなら逆効果だよ」
「うるせー」
両手は灰と煤まみれなのにそれで顔をごしごし拭っていた。いや、むしろなすりつけているように見える。案外、おっちょこちょいだなとパックは思う。
「それより、早く出ろ! 狭いんだよ、ここ」
「ひどいよ。自分を暗闇に蹴落とした挙句押し倒してのしかかっているくせに」
とりあえずあるがままのことを話してみる。頭突きでもとんでくるかな、とパックは思ったが、またロクは顔を拭っている
「なにしてんの?」
「うるせー、早く出ろ!」
そのまま顔を両手に埋めたまま頭でぐりぐりとパックを押す。パックは仕方なくそのまま、暖炉から出た。
おやまあ、と恰幅のいい食堂のおばちゃんが驚いた顔を見せた。
「荒っぽいけど詰まってた煤は落ちたみたいだね。ちょっとあんたたち二人が落ちるのにはきつかったみたいだけど」
暖炉には大量の煤と灰が落ちている。夏場に暖炉を使うことはないが、併設している竈を使うのに必要だったらしい。身体のあちこちに蜘蛛の巣が張り付いていて気持ち悪い。しばらく使っていなかったようだ。
おばさんは煤だらけのパックの顔を手ぬぐいで拭き、次にロクの顔を拭こうとしたがロクは避ける。
「すみません、洗ってきます」
そっけなく走っていくロクに対して、おばさんは気にした様子でもなく竈を温めはじめる。
「ひさしぶりにパンを焼こうと思うんだけど、時間があるなら食べていくかい?」
それにノーというような、成長期真っただ中の少年たちではなかった。
食堂の席についてしばらくあと、ようやくロクが帰ってきた。潔癖症なのだろうか、顔をごしごしけずりすぎて真っ赤になっている。
「おかえりー」
「自分で洗えよ、お前」
呆れた顔でロクが言った。
パックといえば、面倒見のいいマルスプミラに顔を拭いてもらっている。別にパックは顔が黒かろうが赤かろうが関係ない。なので、丁寧に髪まで梳いてくれるのはマルスが勝手にやったことである。けして、美少年に世話されてちょっといい気分になっているわけじゃない。
「おばさんがパン焼いてくれるってさー」
食いしん坊のイソゴとイソナはそわそわしながらお茶を飲んでいた。無料で配られるお茶である。マルスとビスタはお水を飲んでいた。イソゴとイソナは葉っぱを乾燥させただけのお茶をけっこう飲む。東方で作られるお茶に製法が似ているらしく飲みやすいようだ。
パックは、果実水を頼んで飲んでいる。イソナがうらやましそうにこちらを見ていてもあげないのだ。これはおじさんの財布からくすねたちゃんとしたお金なので、ちゃんとパックが使ってあげるのだ。
「……」
ロクはテーブルの上をじっと見る。
「ロク、お前も飲むか?」
イソゴがお茶の入った薬缶を見せるが、ロクは首を振る。
ロクは食堂のカウンターに向かった。
「おばさん、ジュース三つ」
「はいはい」
盆に三つ、ガラスのコップをのせて戻ってくる。なみなみと果汁が入ったそれをイソゴとイソナの前に置き、かわりにお茶の入ったコップを片付ける。
「おっ! どうした、気前がいいな!」
「さすがだ、ロク」
二人は単純に喜んで甘く冷えた果汁を楽しんだ。
「先生帰ってきたから財布に余裕ができたんだよ。おまえらと一緒にすんな」
ロクはそういって、薬缶とコップを食堂の返却カウンターへと持って行った。
(別に今片付けることないのにね)
そんなにこのお茶が、お茶の材料が気になるのかな、とパックは頬杖をついて思った。
人間には個体差がある。それはたとえ兄弟間であってもけっこう違うものだ。
ロクは他の二人に比べて、しっかりした性格である。そして、たぶんお酒なんかも強いのではないかと思う。
あの高濃度にいぶされた薬物の煙の中で、気を失わずにいる程度に。
どこまで暗示が効いているのか確かめてみたいものだ。
そして。
レミ村で栽培されていた草、見覚えがあるはずだ。普段、そこらへんに目にするものによく似ているのだ。
葉の色は違う、大きさも違う。だが、葉の形はよく似ていた。同じ品種とはいわない、だが近縁種であることには間違いないだろう。
その葉っぱは、要塞都市ヴァルハラでお茶として加工して使われている。誰にでも飲める嗜好品として。
きな臭いわけである。




