第三十三話:選択②
最後の洗濯物を絞ると、ユキは一息ついた。
それほど量は多くなかったが、マオは二~三日同じ服を着るため、どうしても汚れが染みついてしまう。しかも、野山を駆け回って遊ぶマオは、体のあちこちに泥をくっつけて帰ってくる。服一枚あたりにかける時間は、自ずと多くなる。クリーニング業者に頼むと、金を取られて時間もかかるから、地道に手で擦るしかないのだ。
あとは、天気のいい日にレッカーの荷台で乾かせばいい。
湿った洗濯物を大きなショルダーバッグに詰め込むと、それをレッカーの荷台に放り投げた。
さて、とユキはあたりを見回した。数分前にいなくなったマオは一体どこにいるのか。下流に行けばいいのは分かるが、はっきり見ていたわけではない。しげみから森へ入っている可能性もあるが、裸ん坊のマオが雑草でチクチクする所へ行くとは考えにくい。大体、彼女は裸足なのだ。川を探すのがいい。
「レッカー、わたしは川をたどって探すから」
そう言ってユキは、再び靴を脱いで川に入り、歩いていく。
〈俺も川の中行こうかな〉
ぼそっとレッカーがつぶやいた。だが、そんなことをすれば川岸はめちゃくちゃになる。
彼は静かに林道を進んだ。
その女性はエミーと名乗った。
エミーは初め、裸でいるのが恥ずかしくて体を隠していたが、支流が注いでいるあたりで泳ぐのに夢中になっているうちに、自分が一糸まとわぬ姿であることを気にしなくなったようだ。
エミーは泳ぎがうまく、クロールや平泳ぎなど何でもこなした。水着を着ていれば競泳選手だ。ただ、裸でいるせいで今は天使が水浴びしているようにしか見えない。
一方、マオは水に潜って水底を漁っていた。ここでもカニや淡水魚が見れて楽しい。時々エミーのお尻やお腹にタッチするいたずらをし、ビックリさせてケラケラ笑っていた。
遊び疲れたエミーが仰向けに浮かんでいると、すぐ近くにマオが水中から飛び出してきた。
「浮かぶの上手いね。どうやるの?」
ブルルッと犬のように髪に付いた水滴をふり払うと、マオは物珍しそうにエミーを見た。
「かんたんよ。息をたくさん吸って、そのまま力を抜くの。やってみて」
エミーはラッコみたいに浮かびながら説明する。
マオは言われたように胸をいっぱいに膨らませ、力を抜いて流れに身を任せる。すると、
「できた!」
彼女は見事浮かび、エミーにピースサインをして見せた。
「上手ねぇ。マオちゃん、ラッコになれる才能あるわ」
「本当? あたしラッコになれる?」
「ええ、なれるわ」
「あ、でもラッコになったらおいしいものたくさん食べられるかな」
と、二人で妄想を広げた。
妄想が一通り済んだところで、
「ねえマオちゃん、手つながない?」
エミーははにかんだ。
「このまま?」
マオは横で浮いている彼女を見る。
「うん」
「いいよ」
「ありがとう」
エミーがマオの小さな手を上から包んだ。
まるで子猫のように小さくてふっくらしている。長い間水に浸かっているのに温かい。体温を肌で感じられて心地よい。
そっと手首を触ると、動脈の中をドクンドクンと血液が流れているのを感じた。こんなにも折れそうなほど細い腕でも、自分と同じように体温があって血の流れがあるのだと思うと、なんだか嬉しくなった。
しばらく二人は無言で浮いていた。幸い、川の流れはほとんどなく、下流へ流されることはない。
やがて、マオが口を開いた。
「もう疲れた。上がりたい」
するとエミーは、
「あっ、そうね。ごめんなさい。もう上がりましょう」
二人は起きあがると、手をつないだまま元いた岸まで歩いていった。
エミーの靴が置いてあるすぐそばに、ユキがたたずんでいた。
「マオ、遅かったじゃない。一体どこま――」
ユキはギョッとして言葉を詰まらせた。マオの隣に、裸になっている大人の女性がいたからだ。
エミーはマオと楽しくおしゃべりをしながら歩いていたが、第三者の姿を確認したとたん、ヘビににらまれたカエルのように全身が凍りつき、その場で立ちすくんだ。
「どうしたの、お姉さん?」
マオはエミーを見上げる。
だがエミーは、それに応える余裕はなかった。急に思い出したかのように短く悲鳴を上げ、マオの手をふり払ってあわてて前を隠す。
「…………」
顔を真っ赤にしてうつむいているエミーを、ユキは憐れみの目で見つめた。
「ねえエミー、お姉ちゃんは女だよ。どうして隠すの?」
マオは首をかしげた。
「えっえっ……あっ……」
目の前にいるのが女性だと気付き、エミーは強ばらせていた体の力を抜いた。ただ、前は依然として隠したままだ。
「マオちゃんのお姉さんでしたか。失礼しました……。あの、服を着てもいいでしょうか……」
ええ、とユキが答えると、エミーは靴を履いてそそくさとキャンピングカーへ駆けこんだ。
取り残されたように、マオとユキはきょとんした顔で見つめあった。
「マオ、わたしって男に見えるのかな……」
マオはユキの胸を見たが、特に何も言わなかった。
暑いからどうぞ、とエミーは二人を車の中へ招き入れた。
入口のすぐ横に、炭のようなものが入った段ボール箱が二つある。
車の奥にはリビングルームがあり、一番奥には二段ベッドがある。エミーはリビングにある冷蔵庫からジュースを取り出すと、三つのガラスコップに注いだ。それをテーブルまで運ぶ。
服を着たマオはそれを喜んで飲んだ。
ユキは、一口だけ飲むマネをした。
エミーも遠慮がちに一口飲むと、ため息をついた。
「先ほどは取り乱してごめんなさい」
エミーはペコッと頭を下げた。
「気にしないで。わたしがあなたの立場だったら、きっと悲鳴上げてるから」
ユキはウソをついた。
「そうでしたか。それなら良かったのですが……」
エミーは苦笑いをする。
ちっとも良くない。ユキは心の奥底でそう思う。
それから、エミーはお詫び代わりに自分のお話をし始めた。
彼女はこの地方で有名なお金持ちの娘で、今は一人暮らし。両親は数年前に亡くなり、今は彼らの残した財産を相続して暮らしている。
「私、ずっと寂しい思いをしてきました。ご飯を食べる時も、お風呂に入っている時も、寝る時も……。毎日、両親のことを思い出して泣いています」
エミーは天井のガラスから覗く青空を、喉を晒すように見上げた。細い首に喉仏が目立つ。
「実は、私は死ぬつもりでここに来ました。そこに積んである段ボールには練炭が入っています。車の中で火を起こしてゆっくり一人寂しく死のうと思っていました。その前にちょっとこの世を満喫しようと外に出ていたのです。そんな時、マオちゃんに出会いました」
エミーは穏やかな笑顔をマオに向ける。
「マオちゃんはこの世の辛いことなんて何も知らないような、純粋な笑顔を私に見せてくれました。裸になるのは恥ずかしかったですが、とても楽しかったです。お姉さんとも仲良さそうで、正直うらやましいと思いました」
そこで相談なんですが、とエミーは身を乗り出した。
「一人で死ぬのは辛いのです。良かったら一緒に死んでくれませんか。聞いたところによると、マオちゃんにも両親はいないとか。きっと毎日寂しい思いをしていることでしょう。それなら、私と一緒に死にませんか。マオちゃんが早く天国に来てくれて、両親もきっと喜ばれるでしょう」
ユキとマオは黙ってエミーを見ている。
「今まで大変だったでしょう。でも、もう大丈夫です。こんな世界からはさよならしましょう? 我慢しなくてもいいのです。さあ、私と一緒に来ませんか?」
すると、ユキはマオの手を引いて立ち上がった。
「お断りする。あなたの勝手な行動で落としてしまうほど、マオの命は軽くない。そんなバカなことをしたいのなら、どうぞ一人で勝手にするといいわ」
そのあと、エミーが何か二人に言ってきたが、聞く耳を持たずに車から降りた。
キャンピングカーのすぐ近くの林道に、レッカーが待っていた。
〈どうしたんだユキ、思いつめた顔をして〉
「何でもないわ」
ユキは、マオを助手席に乗せると、自分も運転席に乗り込んだ。そしてアクセルを踏む。
そしてユキはマオを自分の膝に乗せた。
「どうしたの、お姉ちゃん」
マオは不思議そうな顔をユキに向ける。
「次の町に着いたら、ごちそう食べましょ」
ユキは運転しながらそう言った。
「わーい! ごちそうごちそう!」
マオは嬉しさのあまりお姉ちゃんに抱きついた。
何かあったんだなとレッカーは察し、運転を代わることにした。
ユキはマオの頭をそっとなでた。
三十四話をお楽しみに。次回は、ユキが始まりの街にいたころのお話です。




