第三十三話:選択①
そこは、低い山が連なる緑豊かな所だ。広葉樹や針葉樹がそれぞれ一定のエリアにかたまって樹生している。夏の日ざしを浴びて葉の色は濃く、肉厚だ。そよ風が吹いていて、葉の擦れる音以外は静かで、木々の呼吸する音が聞こえてきそうだ。
谷間には幅十メートルくらいの川が流れている。水は透明に近く、泳いでいる魚の模様がはっきり分かる。それを狙って、川原に生えている木の枝で、青い羽根の鳥がじっと川を見つめている。その眼光は鋭く、絶好のタイミングを見計らっていた。
数分後、その鳥は飛びたち、弾丸のような速さで川に突っ込んだ。元の枝に戻った鳥のくちばしには、魚の姿はない。鳥は残念そうに頭をうなだれる。
一方、魚は危機一髪という風にその場を素早く去った。
鳥が大分した所から五メートルほど下った付近に、人影が二つあった。一人は十四歳くらいの少女。作業着を着ていて、川辺にしゃがみこんで川の中に両手を入れている。両手で幼い女の子の服を洗っているのだ。腕まくりをして靴も靴下も脱いでいる。肌が露わになった足には、時々川の水が満ち引きする。
少女の近くでは、五~六歳の女の子が川の中に入って水とたわむれていた。服は何一つ身につけていなく、生まれたままの姿をしている。水位は女の子の腰の辺りまでだから、体の小さい彼女でも安心して遊ぶことができる。
二人の他には誰もいないが、川辺から少し離れた林道に一台の荷台付きクレーン車が停まっていて二人を見守っている。だが、意識は専ら裸の幼女へクギづけになっていた。
「見た? 今、鳥が水に飛びこんだよ」
女の子は水面を指して少女をふり返った。
「いえ、洗濯中だから見てなかった。でも、何かが水に落ちたような音は聞いたわ」
少女は顔を上げずに答える。
「そう、それ!」女の子はうれしそうに言う。「かっこよかったなぁ」
ふうん、と少女は興味なさそうに言った。
二人と一台は、仕事を終えて川原へ立ち寄っていた。せっかく晴れていて暑いから、たまっている洗濯物を片づけようとなったのだ。
全部が女の子のものだ。少女のものはない。彼女はロボットで汗をかかないためだ。
〈ユキ。マオにやらせなくてもいいのか?〉
クレーン車が少女の背中に声をかける。
「あの子が、最期まで飽きずに洗濯すると思う?」
ユキと呼ばれた少女は、変わらず手を動かす。
〈それもそうか〉
クレーン車は納得したようにつぶやいた。
十分後、再びクレーン車が口を開いた。
〈ユキ。マオがどこか行くぞ〉
顔を上げると、マオはさらに下流へ歩いていっていた。
「どこ行くの、マオ?」
「向こう!」
「シャツとパンツ着なさい」
「暑いからいらない」
マオは、ユキとクレーン車を置いて川を下っていった。
川の一方は、長い時間をかけて積もった土石によって川原が形成されている。だがもう一方はすぐ近くまで山が迫っていて、高い崖がそびえ立っている。その崖の土は栄養分をほとんど含んでいないのか、水面に近い所に群生しているコケを除いてまったく姿がない。
そのそびえる崖に左手を添えてマオは下流に向かって歩いていた。彼女は足元を見ていた。空から強い太陽光が降っていて、水底まで見通すことができる。水の中を小さいカニが歩いていて、その横を大きな淡水魚が泳ぐ。
試しにカニをつまんで水から出してみた。それまでのんびりと横歩きしていたカニだったが、突然ハサミを怒ったように振り上げた。ハサミに触りたかったが、挟まれそうだったから、そっと水の中に戻す。カニはしばらく興奮していたが、やがておとなしく水底を歩き始めた。
その後もマオは下流へと歩いた。するとすぐに見慣れないものを見つけた。川原にキャンピングカーが停まっていて、その前にはパラソルとテーブルとイスが置かれている。
そのイスには、白いワンピース姿の二十歳くらいの女性が座っていた。テーブルにはカップに入った紅茶があり、彼女はそれを上品に飲んでいる。
こんな所で何をしているんだろう。たちまち興味がわいて、話しかけてみたいと思った。
マオが川岸まで行くと、女性はカップをゆっくりと置いた。見慣れない子どもに一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく微笑んだ。
「あら、私はもう天国に来てしまったのかしら。裸の天使なんて珍しい。まだ昇天するのは早いわ」
女性は、マオをまじまじと見つめる。
「天国? 天使?」
マオは首をかしげる。
「ああ、ごめんなさい。あなたがあまりにも可愛いからつい。私、夢見がちな所あるから」
女性は手で口を押さえて笑う。
「夢? ここで夢見てたの?」
日光が遮られたパラソルの下は涼しくて、眠るには良い場所だろう。
「ううん、考えごとをしていたのよ。ここって静かでしょう? 一人で何かを考えるには一番いい場所なの」
ふうん、とマオは生返事した。何でもすぐに興味引かれるが、冷めるのも早い。
「ところで、あなたはどこから来たの?」
と女性が尋ねる。
あっち、とマオは川の上流を指さした。
「そう、そこにはパパかママがいるのかな」
「いないよ。お姉ちゃんはいるけど。今ね、あたしの服を洗濯してるの」
「そうなんだ。後でお礼言わないとね」
「お礼?」
「だって、あなたの代わりに洗ってくれているのよ。『ありがとう』って言わなくちゃ」
「あ、そうか」うっかりしてた、とマオはつぶやいた。
「他には誰かいないの?」
「あ、レッカーがいた。しまったー」
マオは頭を抱える。
「珍しい名前ね。あなたの弟?」
「違うよ。お兄ちゃん……お父さん……違うなぁ。あ、おじいちゃんみたいな感じ!」
「不思議な人。あなたはレッカーさんのこと好き?」
「大好き!」
「じゃあ、忘れちゃダメ」
うんと、マオは反省した。そして、
「ごめんねレッカー!」
クレーン車のいる方向に叫んだ。
大声を出してスッキリしたマオを見て、女性は思い出したかのように言った。
「お姉さんはレッカーさんはあなたのこと心配していない? 子どもだけで遊んでいると危ないわよ」
「大丈夫。ちゃんと言ってきたから。あ、お姉さんがいるから問題ないか」
「私? まあ、私も一応大人だけれど」
「じゃあ、大丈夫だね」
そう言ってマオは川に戻って遊び始めた。
少しして、マオは女性に言った。
「一緒に川で遊ぼう?」
すると女性は、
「え、でも私、水着持ってないのよ……」
と困った顔をする。
「水着なんていらない。誰もいないもん」
マオの言葉に、女性はあたりを見回す。確かに人影はない。
「楽しいよ。お姉さんと遊びたい」
「本当に? 私なんかと遊びたいの?」
女性の考えが揺らぎだす。
「うん!」
マオは、首を縦に大きく振った。
「ありがとう。分かった、お姉さん、勇気出す」
女性はイスから立ち上がり、キャンピングカーの中に入った。さすがに服は外に放置できない。
数分後、ドアが開いて女性が出てきた。服や下着を一切身につけていなく、白い肌が太陽の光を浴びてまぶしい。茶色が多めの長い髪の毛が、風に乗ってなびく。大きめの胸を左腕で隠し、局部は右手でおおっている。女性はあたりをくまなく見回し、本当に誰もいないことを確認すると、川原に足を踏み入れた。
「あちっ」
女性はあわてて車の出入り口にある階段に戻った。
この暑さで砂が熱を帯びている。まるで熱したフライパンの上に足を乗っけたかのようだった。
そう言えばマオはこのことを知っていたのか、女性と話している時はずっと水の中に足が入ったままだった。
うっかりしていた。靴だけ持ってきて履く。
川岸で靴を脱ぎ、水の中に足を入れる。冷たくて気持ちいい。
これだけ暑いと泳ぎたくなるが、いささか川が浅いから、水をかけ合うくらいしか出来ないだろう。できれば肩くらいまで浸かって大事な所を隠したい。今のままでは両手がふさがったままだ。
川の端っこでもじもじしている女性に、マオは首をかしげる。
「どうしたの?」
「やっぱり恥ずかしくて……。肩まで浸かれそうな所があればいいんだけど……」
「じゃあ、あっち行く?」
マオは下流の方を指さした。少し離れたところに支流が注いでいて、そこは大人の腰ほどの深さがある。
「行くわ」
女性は、獣に追われる獲物のように我先にと走っていった。
2へ続きます。




