第百十七話:猫の父とアンドロイドの娘①
警察のロボットが事務所になだれこんできた瞬間、その猫はデスクの陰に身を隠した。
人間のハッカーは次々と捕らえられ、ハッキングを担っていたAIも電源が切られていく。
警察はまだ、その猫の存在には気づいていない。
猫は、天井の明かりが直接当たらないデスクの陰で、警察の様子をうかがっていたが、こちらに歩いてくる一台の警官ロボットに気がつき、そっと回転イスの後ろを忍び足で歩き、徐々に隣の部屋のドアに近づいていく。
隣の部屋は、人間が使う休憩室で、狭いキッチンと、三人が座れるソファが壁際に向かい合わせになるように一つずつ置かれている。
そこにはまだ警察は入っていない。
警官の視線が外れた一瞬の隙をついて、弾丸のようにその部屋へ飛びこんだ。
その部屋には、猫が一匹通れる大きさの穴が壁に開いていて、普段はポスターで隠れている。
その穴は、休憩室を模様替えしようとした一人の人間が、盛大に重たい物をそこにぶつけて開けてしまった穴だった。
それが、今回はその猫の脱出口となる。
猫は、その穴が開いてしまってから、他の人間の目を盗んで、自分専用の脱出口をつくっていたのだ。
そして猫はその穴に消えた。
独りになってしまった。
見た目は、灰色の毛皮をした大人の猫だ。
だが、毛皮の下は、人工筋肉で、さらにその下は、人工骨格を持った猫だ。
知能は、人間の大人と同じくらいある。
アジトを脱出した猫は、大通りの歩道を歩いていた。
今日は日曜日だから、人間がたくさん歩いている。
猫は、車道から一番遠いところ、つまり通りに面して建つ色々なお店のすぐ前を歩いていたのだが、あるお店の前で気になる物が目に入った。
「この人形が着てる服、きれいだよねー。ねえねえ、お店に入ってみない?」
二十代ほどの女性二人が、ショーウインドウの中にいる人形が着ている春物の服を見ている。
「いいね。ちょっと見てみようか」
二人は自動ドアから店内に入った。
猫は、人形の正面に来ると足を止め、それを見上げた。
人形の見た目は、十代後半の少女で、茶色くてまっすぐなサラサラした髪が、両肩に流れている。
背は高く、スラッとした体型だ。
ショーウインドウの壁には、この地域で春になると咲く、桜という花の花びらがちりばめられていて、少女は風に乗って飛んできた花びらを右の手でつまんでいるポーズをとっている。
ふと、猫はその人形の違和感に気づいた。
猫がよく観察すると、それはアンドロイドだった。
人の毛皮をかぶっているが、中身はロボットだ。
突然、猫の頭の中に、ある情景が浮かんだ。
桜の木の下で、この少女が足を伸ばして座り、自分がその膝の上で丸くなって寝ている光景だ。
「この子がほしい」
猫はアジトから脱出して、はじめて言葉を発した。
独りになってしまった寂しさを、この子が埋めてくれるかもしれない。
お客さんがお店から出てきた隙に、開いた自動ドアから店内に侵入する。
ショーウインドウの裏側は、人間一人が出入りできるドアが一つあって、セキュリティがかかっている。
猫は、店内を見回し、従業員や客の目がないことを確認する。
「あれが店主か?」
七十代くらいの男の人が、お店の奥の台で、オーダーメイドの服を作成していて、忙しそうにしていてお店の入り口に多少何かが起きても気づきそうにない。
次に、監視カメラのチェックだ。
このドアに向けて、カメラが一台天井から吊されている。
猫は、尻尾の形をしたコードを伸ばし、ドアの横のセキュリティに接続した。
そして、システムに干渉し、まず監視カメラのスイッチを切り、ドアのセキュリティを解除した。
ゆっくりとショーウインドウの中に入っていく。
少女に近づいていく間、通行人がこちらを見る度、人形のふりをして動きを止めるのに苦労した。
少女の背後まで来た。
うなじに、外部端子を接続する部分があるのを見つけ、そこに尻尾を伸ばして、接続した。
「うまく動いてくれ……」
小さくつぶやいた猫は、そのアンドロイドを分析する。
燃料は、充電池のようで、定期的に充電の必要があるタイプだ。
遠隔で操作できるようになっていて、その部品は人工知能に接続されている。
ハッキングして遠隔操作する装置の受信機の機能を停止させ、人工知能の分析を続ける。
「人格が、ない……?」
どうやらこのアンドロイドは、頭の中に人工知能は搭載されているものの、服を飾るための人形としての役割しか与えられていないようで、人格は備わっていなかった。
正確には、昔は人格があった痕跡があるのだが、一度消去されている。
復元は無理そうだ。
「仕方ない……。ネットからダウンロードするか」
猫は両耳をピクピクと動かし、インターネット回線と接続し、闇サイトにアクセスした。
そこでは、アンドロイドの人格が多数取引されている。
無理矢理コピーされたもの、所有者がお金ほしさに売りに出したもの、自分で一から制作したものなど、様々なラインナップがある。
せっかくお友達になるのだから、人格は慎重に選びたい。
そう思って、リストを探していると、
「あれ、この中にいる猫、なにやってるんだ?」
通行人の若い男性が、隣にいる若い女性に言って、こちらに指を差している。
まずい。
もし店内にいる従業員に知られてしまったら、計画は失敗してしまう。
「さあ? 猫と少女、みたいなコンセプトなんじゃない?」
若い女性は、さほど興味がないのか、先に行ってしまった。
男性も興味を失い、ショーウインドウの前から姿を消した。
このままここにいれば、自分の行動が見つかるのは時間の問題だ。
猫は、人格のラインナップの中から、十代半ばの少女(記憶喪失の設定)という商品を見つけ、お金を払わず、ハッキングして違法ダウンロードし、少女のアンドロイドにインストールした。
猫と少女、という組み合わせをする服屋が珍しいのか、数人が立ち止まって観察し始めた。
猫は、ダウンロードしたデータにほんのわずかに違和感を覚えたものの、時間がないのでそのままインストールを完了させた。
「ハッ……!」
少女の目に光が宿り、驚いた表情になり、目をパチクリさせて、正面を見た。
「ここは、どこ……? 私は、誰……?」
「ぼくは君の正体を知っている。君を助けに来たんだ。さあ、早くぼくについてきて!」
猫は先にショーウインドウの裏につながるドアをくぐった。
困惑した顔をしながらも、少女は猫についていく。
猫は自動ドアの前に立ち、少女もその横に立つと、それが開いていく。
猫は、すべて開ききる時間さえ惜しく、柔らかい体でわずかに開いたドアをスルリと抜けた。
少女は、開ききったドアを、周りをキョロキョロしながらくぐる。
「この人形、どうしたんだろう」
「メンテナンスかな」
「新しい服に着替えるんじゃない?」
通行人が色々話し始めた。
猫は、少女が後ろから走ってくるのを確認しながら、ピューッと大通りを駆けていき、人影の全くない廃ビルの隙間に入っていった。
狭くて汚い隙間を抜け、一匹と一人はゴミ溜めのような空き地に着いた。
この辺りには、戦前貧乏暮らしをしている人たちが住んでいたバラック小屋が建ち並んでいたが、今となってはその残骸が散乱しているだけの、殺風景な場所となっている。
秘密の話をするにはもってこいだ。
「さて、君の正体を教えてあげよう。君は前の主人から捨てられて、あんなお店で飾られていたんだけど、ぼくが助けてあげたんだ」
まったくウソの話をでっち上げる。
「そう……なんですか。まったく覚えていません。でも、確かにあんなに狭いところに閉じ込められていたのですから、きっとひどい扱いだったのでしょうね。お礼を言います。ありがとうございます」
少女は、腰を折って頭をペコリと下げた。
「残念ながら、君には行くところがない。そこで、提案だ。君は今からぼくと一緒に来るんだ。どうだろうか」
猫は、少し緊張した面持ちで尋ねる。
「…………そう、ですね。私も、これからどうしたらいいか分かりませんから、一緒にいてくれるのなら心強いです」
少女は、オドオドしながらも、猫をまっすぐ見下ろした。
「よし、それならさっさとここを離れよう。あの悪人がぼくらを追ってくるかもしれない」
「はい……!」
歩きながら、猫は尋ねる。
「そういえば、君の名前は?」
「覚えていません……。まったく記憶がなくて……」
そうだ、記憶喪失の設定が組み込まれていたのだった。
「うーん……。じゃあ、ぼくが名付けてあげよう。アーネ。君の名前は、今日からアーネだ!」
「分かりました。私の名前はアーネ。いい名前ですね。由来を聞いてもいいですか?」
「……つい最近まで仲良くしていた人間が好きだった小説のヒロインの名前だよ」
「なるほど……。アーネ。私はアーネ……」
アーネと名付けられた少女は、自分の名前を何度もつぶやく。
「アーネ。まずはこの地域から離れよう。この街はとても広くて、街の外まで出るのはかなり時間がかかるけど、いずれは脱出したいから」
「はい、分かりました、パパ!」
え、と猫は驚いて、立ち止まって振り返り、アーネを見上げた。
「パパ……? ぼくが……? どうして……?」
「どうしてって……。名前をくれたってことは、あなたが親で、私は子どもってことですよね」
「あーー。そうなるかーー」
ニコッと笑ったアーネを見て、
「まあ、パパでいいや。じゃあ、これからよろしく、娘よ」
「はい、パパ!」
そして、また歩きだす。
今度は、アーネが口を開いた。
「ところで、パパの名前はなんて言うのですか?」
「…………」
背後から聞こえたアーネの言葉に、猫はまっすぐ前を見て歩きながら考える。
ハッカーたちと一緒に暮らしていた時に付けられた名前があったが、もしそれを名乗ってしまったら、万が一警察に居場所を特定されるかもしれない。
別の名前を考えなくてはならないが、今すぐには思いつかない。
「ぼくは猫だ。名前はまだない」
「そうですか! とりあえずパパって呼びますね」
一人と一匹は、路地の奥へ歩いて行った。
2へ続きます。




