第六話:最強の二人④
お風呂からあがると、脱いでカゴ入れたはずの二人の服や下着が無くなっていた。その代わりに見慣れないものがあった。覗いてみると、無地の肌色の布が丁寧に折り目で畳まれて置かれていた。広げてみたら、それは成人女性用の下着一式だった。それと、大きめの白くてもふもふしたタオルもあった。ずいぶん用意がいい。きっと、執事が二人の体のサイズを分析して下着を選んだのだろう。
とりあえず自分の体と髪を適当に乾かした後、ひもじい思いをしながら必死にエサを探す動物のように四つん這いになって脱衣所を這い回っているマオを追いかけて捕まえ、もう一つのカゴに入っているユキのと色と大きさが同じのタオルで、彼女の体を隅から隅まで擦って水滴を拭き取る作業を行わなければならない。風邪を引かれると仕事や移動に支障が出るから困る。
「マオー、体拭くわよ。こっち来てー」
下着を付ける暇も惜しい。自分のタオルを床に置いてマオのタオルをつかみ、ドライヤーと椅子のある洗面台の辺りを這っている小動物に呼びかけた。すると、その言葉を待っていたかのように立ち上がったかと思うと、突然こちらへダッシュしてきた。
「お姉ちゃーん!」
そう言ってお姉ちゃんの腰の辺りに手を回して抱きついた。髪の毛も体もまだお風呂からあがったままに濡れている。よくこれでくしゃみの一つもしないものだ。風のように走っていれば子どもは風邪を引かないと聞いたことはあるが、それは全裸でお風呂あがりの場合を含むのだろうか。
ユキはただマオに抱きつかれたわけではない。直前にタオルを広げ、ちゃんと彼女を包んでいた。おかげで自分まで濡れずにすんだ。タオルにくるまれておとなしくなったのを逃さず、頭から順にタオルで擦った。体は小さいので、拭き終わるのにそれほど時間はかからなかった。
脱衣所を出ると、二メートルほど離れた正面に執事が立っていた。二人が視界に入ると、カクッと腰を曲げておじぎをした。
「温泉はお楽しみいただけましたか? 旦那様がお食事をしながら団らんしたいと申しております。ご案内いたします」
執事は精いっぱいの笑顔をつくり、二人を先導して歩きだした。さっきここへ来た時と違う方へ進んでいく。
「あれはオンセンと言うのね。とても温まったわ。ねえ、マオ」
「うん、まだ暑い」
マオは自分の胸に手を当てた。体の内側から熱を発しているかのように暑い。
「よろしければ、朝お目覚めになった後も入ってみてはいかがでしょう。体が温まってすぐに目が覚めると旦那様が申しておりました」
夕食をごちそうになってお話をするだけと思っていたが、いつの間にか宿泊することになっているようだ。もちろん、それに越したことは無いが。
「朝にお風呂……。あなたは寝起きが悪いから、一回試してみたらいいんじゃない?」
「えー、ベッドでゴロゴロしたいよ」
嫌いな食べ物を目の前に突きつけられたような顔をした。
「もし、明日温泉にお入りになるようでしたら、温泉卵をご用意いたします」
執事が一メートル近づいて再び直立した。
「なあに、それ。食べ物?」
マオが犬のように鼻をクンクンと動かす。目がキラリと光る。
「はい。旦那様の好物の一つです。彼の国では温泉には必ずと言っていいほど売られているものだそうです。トロトロとした食感で、大変美味であるとのことです」
執事の言葉を聞いて、マオはユキの浴衣の裾を二回引っ張った。どうしたの、とこちらを見た。
「これからご飯?」秘密を話すように声を潜めた。ユキもそれに合わせて声のトーンを抑える。
「そうみたいよ。何、食欲無いの?」
マオは、とんでもないという風に首を振った。
「違う違う。その……卵は今すぐ食べられないのかなって」
「温泉卵のこと? 今言えば、用意してくれると思うわよ。たぶん」
ユキは試練を与える師匠のような口ぶりで言った。マオに、自分の考えをきちんと相手に伝える力を付けさせるためだとユキは考えている。
「うん…………」
登山中に崖下を覗きこんでしまったみたいに、マオは体を委縮させた。彼女は大人が少し苦手だ。自分より大きな存在は、お姉ちゃんしか安心できない。まだはっきりと原因は分からない。お姉ちゃんが代わりに言ってくれないものかとうかがった。でも、今のお姉ちゃんは子どもの前に立つ母親のような表情をしている。直感で、きっと言ってくれないんだろうなと分かった。うつむいてそこまで考えたマオは、決心した面持ちで執事に呼びかけた。
「はい、何でしょうか」
歩きながら顔だけこちらに向けた。
「あ、あの……温泉卵食べたい……」
かろうじて耳に入るほどの小ささで言った。
「ご夕食の時間に、ということでしょうか。それでしたら、今すぐ用意させます。よろしいですか?」
執事は歩きながらもマオの目をしっかり見て話している。マオにはそれが、自分を飲みこもうとしているかのような巨大な存在に思えた。だが、卵を食べられそうだという希望がそれを打ち砕いた。
「本当に? 食べられるの?」
「はい。少し時間はかかりますが、必ずお席までお届けいたします」
マオを安心させるように執事は笑顔をつくった。
「お姉ちゃん、卵食べられるって!」
「良かったわね。ちゃんとお礼を言わなくちゃ」
ハッと気がついたマオは、また執事を見て「ありがとう」と若干顔を赤らめて言った。
「どういたしまして。これも執事の仕事でございます」
軽く会釈すると、一瞬前を見て立ち止まった。執事ばかり見ていた二人も、ならって立ち止まる。そこは屋敷の玄関と同じくらいの大きさがあるドアの前だった。
「こちらでお待ちください。旦那様もすぐに参ります」
両開きのドアを片方だけ開けて、二人を招き入れた。
そこは奇妙な部屋だった。
食事する場所と言えば、テーブルと椅子が普通のはずだ。金持ちならば絵画やシャンデリアなどの高価な装飾品が並んでいると思っていた。執事がドアを開けるまではそう考えていた。だが、椅子はどこにも無く、背が低くて広い木でできた四角いテーブルがどっしり構えるように置かれているだけだった。床は乾燥した草で編まれた、絨毯とは違う物が敷き詰められている。奥には素手で戦うための武器が大事そうにコレクションされている。あれは確か刀という物だ。切れ味が一級品であると聞いたことがある。どこかのお店で、高価すぎて仕入れることができなかったのを覚えている。
靴を脱いでお上がり下さい、と執事が先に部屋に入った。どうやらここは土足厳禁らしい。マオは入って来たそのままに靴を脱ぎ散らかした。ユキはそれをドアに向けてそろえ、自分もその隣に脱いだ靴を並べた。
「こちらの座布団に座ってお待ち下さい」
執事が手の平を見せて、背の低いテーブルの前に置かれている四角い布団のようなものを示した。これは座布団というらしい。
ユキはもちろん彼の言う通りに従った。しかし、初めて見る品の数々に囲まれてマオが落ち着いていられるはずもなく、温泉の時のように四つん這いになってうろついている。
「マオ、座って待ってなさい。もうご飯の時間よ」
言い終わった後、自分がまるで世の中の一般的な母親みたいだなと思った。
「まだ何も無いじゃん。暇だもーん」
マオはテーブルにまだ何も用意されていないことに不満があるようだ。反抗心を見せて立ち上がり、刀の向かい、つまり入って来たドアに面した壁に興味を示した。そこには、長方形の紙に黒で描かれた木の絵画が吊るされていた。見るからに高そうな一品だ。マオはそれに手を伸ばした。
「いけません」
いつの間にかマオのそばに立っていた執事が、彼女の手をさえぎっていた。
「こちらの絵は、旦那様のお気に入りであります。とても高価な物です。いくらお客様でもお触りは許されません」
彼は真っすぐ幼き少女の目を見つめてそう言った。怒っているのか叱っているのかは表情から読み取れないが、少なくとも笑ってはいない。
「つまんなーい」
マオは率直に感想を述べると、おとなしくユキの隣に腰を下ろした。指で座卓をトントンと叩き、それにも飽きるとその木目をなぞり始めた。
「ただ今ご夕食を給仕の者が運んで参りますので、後一分ほどご辛抱なさって下さい」
二人の背後に直立してニコやかに言った。
5へ続きます。




