第九十六話:さよなら、我が島よ②
外へ出て、ラフは家のドアに鍵をかける。
「このアトリエは、今後は別荘みたいに使おうと思ってるんだ」
そう言って、彼女は家の脇に停まっているレッカーを見た。
「ほうほう、これがレッカーだね! 年季が入ってるけど、私はこのメッキの剥がれ具合とか、部品の欠け具合とかが好きだなぁ。あ、ちゃんと荷台はブルーシートで守ってくれてるんだ。ねえねえ、少し運転してもいいかな」
レッカーの言葉をユキが伝える。
「レッカーが、『そのうち』と言っています」
「なるほどね、体を預けるには心が通っていないといけないもんね。分かった、私のことを気が許したら、すぐに言って」
レッカーとユキを見て、ラフは言った。
レッカーにはこの場で待ってもらい、三人はお昼ご飯を買いに港町を歩き出した。
大きな港のあるこの町は、各地から人間やロボットの商人がやってくるため、この商店エリアはごった返している。
ユキたちは、石畳の道を歩いている。
左側には、プレハブでできた平屋のお店がすき間なく並んでいて、人やロボットの従業員が威勢のいい声で呼びこみをしている。
お店の裏には、レンガ造りの大きな倉庫や十階くらいのアパート、そして縦長に空へ伸びるホテルがずらっと並んでいる。
そのどの建物にも、人やロボットがたくさん行き来していた。
右側には、幅十メートルほどの川が流れていて、等間隔に石造りの橋がかけられている。
川には、流れに逆らってエンジン付き小型ボートがいくつも走っていて、所々に設けられた乗船場にボートを停め、そこからたくさんの荷物を台車に載せ替えて、商店に届けていた。
夏真っ盛りで、太陽がカンカンに照りつけているから、働いている人間の顔は皆汗まみれだ。
「人口密度高いわね」
ユキは独り言のように言った。
「いつもこんな感じ! この町に住んでると、世界で人口が減り続けてるなんてことが信じられないくらい」
聞き逃さなかったラフが、感心するようにウンウンとうなづく。
「色んな匂いがするね」
マオが言った。
「どんな匂い?」
ユキが訊くと、
「海の匂いとー、お肉とお魚を焼く匂いとー、あと周りの人の匂いかなー」
すんすん、とマオが鼻をひくつかせながら言った。
「色んなところに住んでる人がここに集まってくるからね、それぞれ匂いも違うよね。あっ、いいアイデア浮かんだかも」
ラフはエプロンを脱いでいるが、メモ帳とペンはちゃんとワイシャツの胸ポケットにしまっていた。
「匂い……」
ユキはそうつぶやいて、周囲を観察する。
今、彼女たちの目の前を歩いて、右に避けていった三人の若い人間の男たちは、登山用の装備を身に着けていた。
彼らからは、汗と砂と硫黄が混じったような匂いが少し、ユキには感じられた。
男たちは、
「ようやく着いたな!」
「早く宿でシャワー浴びてお酒飲みたいぜ」
「まあまあ、露店で食べ物たくさん買ってからでも遅くないだろ?」
と談笑しながら、お酒と合いそうな食べ物を、歩きながら探し始めた。
振り返りながら彼らを見送っていると、
「ユキさん、前――」
ラフが注意したが、
ユキの腰辺りに、花束と女の子がぶつかった。
ピンク色のスカートを穿いた十歳くらいのその女の子は、
「わふっ!」
と自分の持つ花束に顔が埋もれながらぶつかり、尻もちをついた。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫?」
ユキは冷静に、花束を右手で持って、左手で女の子の手を引いて立たせる。
子どもを立たせたとき、空気が動いて、辺りに女の子の汗と花の匂いが広がったのを、ユキは感じた。
マオもそれに気づいて、クンクンと鼻を動かす。
「はい、大丈夫です! ごめんなさい、あたし花束で前がちゃんと見えてなくって」
女の子は、スカートと同じ色の花を両手で抱きかかえるように持ち、ペコっと頭を下げた。
「いえ、わたしもよそ見をしていたから……。見たところ、ケガはしていないようだけど」
「はい、どこも痛くないので問題ないです。では、ベッドで寝ているお母さんが待ってるので、失礼します!」
あどけない笑顔を浮かべ、軽く会釈すると、女の子はユキたちの左側を通り、今度はちゃんと前が見えるように花束を持って、路地の角を曲がっていった。
「お母さんが病気なのかしら」
ユキがぼそっとつぶやくと、
「病気? 誰が?」
それを聞いていたマオが尋ねる。
「たぶん、今の女の子のお母さんね」
「ふうん」
ユキとマオは、女の子が曲がっていった角を少しの間見ていた。
一方、ラフはまた何かをメモしていた。
ラフの案内で、彼女たちはハンバーガーを売っている屋台の前で足を止めた。
「あ、ここ! ここだよお姉ちゃん!」
マオがユキの手を取って、もう片方の手でお店を指さした。
その店は、パイプをいくつも組み合わせてつくられたテントで、そこから吊るされているのれんに「お魚バーガー!」と書かれている。
のれんのに書かれたその文字のすき間には、いろんな魚や海洋生物の可愛らしい絵が描かれていた。
「お、ここは私もよく来るよ。サクサクに揚げた白魚がパンに挟んであって、とてもおいしいんだよね」
ラフは舌なめずりしながら、ズボンのポケットから財布を取り出した。
「それじゃ、約束通り私が買ってあげる」
そう言ってラフはお店に近寄っていく。
「いいんですか? お金は持ってますが」
本当はおごってもらう気満々なユキだが、雇用主の前でそんな感情は微塵も出さず、懐の財布を少し見せて、払う意思があるように見せかけた。
「いいよいいよー。マオちゃんが可愛いし、私は今気分がすごくいいから。だってこれから島で一人暮らしだし!」
ラフは振り返ってユキとマオを見ながら言った。
そしてお金を払って、ハンバーガーを一つマオに手渡した。
マオはさっそく、包装紙を開けて中身を見た。
揚げてある白魚が、パンからはみ出すほど大きい。
マオはサクサクという音を立てて、口いっぱいにかぶりついた。
「んん!」
マオはうめくような声を上げ、目を大きく見開き、口の中にあふれる油と魚のエキスを味わっている。
立ったまま夢中で食べ続けるマオを見て、
「そんなにおいしいの?」
とユキが訊くが、マオは夢中で答えず、
「おいしいよ! ユキさんも人間だったら、この味を共有できるのに」
ごくんと飲みこんでから、ラフは言った。
「わたしは、二人がおいしそうに食べているのを見ているだけでいいです」
ユキは、フッと微笑んだ。




