第五話:子どもだまし⑦
検問官にいったんさよならを言うと、分岐点から北東に進むようケンジに言われた。林を切り開いた道がどこまでも伸びている。
「登るってもしかして、あの山……?」
ユキはまさかと思いつつ、前方にそびえ立つ岩山を指さした。遠くから見ても緑は一切なく、中腹から上は白く染まっている。雪だろう。頂上は雲がかかっていて全く見えない。
「違うよ。あの山に登ろうと思ったら、ちゃんと登山用の装備を整えて行かなくちゃ。ぼくたちみたいなこんな恰好で行ったら凍え死ぬさ。今から行くのは、山と言うよりも丘だね」
彼はクスクス笑いながら、北東よりもさらに東よりの方角を見た。針葉樹が生い茂っていて遠くの様子をうかがうことはできない。
「たまにショウジがヒマな時に連れて行ってもらうんだけど、そのてっぺんから見る景色は綺麗なのよ」
「あと、頂上には桜という木が立っているの。あそこにはカラスはいないけれど、春になると黄緑色の羽を持った可愛い鳥が止まるの。人間を怖がらなくて、パンを小さくちぎって手の平に載せていると、突いて食べるの。飼いたいってショウジに言ったんだけど、野生で好きなように生きるのが一番いいだろうって言われて諦めちゃった」
ルリは目を落として小さくため息をついた。
街が見えなくなった、とマオがつぶやいた。ユキだけが後ろを見る。林道に入り、木々で隠れて景色が悪くなった。前方と後方しか分からなくなり、それはトンネルを走っている時の早く抜け出したいという気分とよく似ていた。
十分ほど過ぎると、前方に見えていた雪化粧の山が大きく迫ってきていた。あと数キロ走れば、おそらく山のふもとまで着くだろう。
「ユキちゃん、あの丘だよ。見て!」
ルリと手を重ねてどちらが大きいか見比べていた時、ケンジが作業服の裾を引っ張ってきた。彼はまるで宝物を見つけた冒険者のように目を輝かせている。そしてユキとその感動を分かち合おうとするかのように誘っている。
どうしたの、と尋ねるまでもなく、右手に丘が見えてきた。その丘は短くて青々とした草に覆われていて、頂上までの高さは特に驚くほど高くも低くもない。ただ、大地から盛り上がってきたこぶのようなそれは、針葉樹やゴツゴツした岩があちこちに転がっているふもとと比べれば、楽園のような美しさを持っている。緑色の草に混じって、ピンクや黄色もあちらこちらに点在している。丘のすぐ下にレッカーを止めてよく見ると、それは色とりどりの花だった。
「ここからは歩いていくよ。車じゃ、この急な丘は登れないから」
一足先にケンジが荷台から降りてそう言った。レッカーはそこらの車とは馬力が違うから、普通の車では進めないような急こう配の坂を駆け上がることはできる。でも、そんなことをすれば一気にエネルギーを消費してしまうし、運が悪ければひっくり返ってしまうかもしれない。第一、この丘には頂上まで車が登ったタイヤ跡はどこにも見当たらない。雨風を受けてもなおこの綺麗な姿を見せてくれる草花たちを、ユキは傷つけたくは無かった。一目この丘を見てそう思った。
「分かったわ。悪いけどレッカー、あなたはここで留守番していて」
ユキは苦笑して彼の荷台をなでた。仕方ないな、と律儀な紳士のようにすんなりと彼女の言葉を聞きとった。エンジンを切っておとなしくなった。
着いた着いたー、と子どもたちは歓声を上げ、リンとマオとルリはジャンプして飛び降りた。アカヤとカケルもそれに続こうとするが、リンに止められて抱っこされて降ろされた。
少しの間ふもとで地面に何か転がっていないか探していた子どもたちは、やがて頂上に向かって走り始めた。カケルが真っ先に走り出し、つられてアカヤも続き、二人をケンジとマオとリンが追いかけて行く。皆の通った所に生えていた花が数本倒されていた。
「花をよけて行くように言わなくていいの?」とユキは隣を歩いているルリに尋ねた。うん、と首を縦に振った。
「これでいいの。この丘をよく見て。花が散らばって咲いているだけでしょ。もしたくさん生えていたら、一つの花の吸う栄養の量は少なくなっちゃう。だから、自然に数が減っていくのは、いいことなんだよ」
って、ショウジが言ってたよ、と付け足した。
これから冬になれば、咲いていた花は姿を消す。寒さで枯れてしまうものもいるかもしれない。だが、根っこが残っている限り、春になればまた花を咲かせる。そんな根性が無いと、これだけ色鮮やかな花にはならないのだろう。
ルリが花が咲いていることにおかまいなく先に歩いていくその足元を、ユキはじいっと見つめていた。
頂上から見た景色は絶景だった。
右手には、レッカーで走っていた時よりは近く感じる山が立っている。眼下には林が道にそって伸びている。まっすぐ先を見ると、岩だらけの荒野がどこまでも広がっていた。左手の方から川が流れていて、それが右手の山の方へと続いている。山で生まれて流れている水なのだろう。また、左手には高くそびえ立つビルが一つだけ小さく見えている。そしてどの方角も、遠くへ行くに従って霧のようなものでかすんで見えなくなっている。地平線の姿を見ることはできない。
「綺麗ね」
ユキは一言そうつぶやいた。近くにいたマオが反応した。
「きれいだねぇ」
「おーい、登ろうよー!」
ケンジが呼んでいた。見ると、彼は頂上に一本だけ生えている桜の木の中間あたりをよじ登っている最中だった。その根元には、まだ登れないアカヤとカケルと、彼を見守るリンとルリがいた。
「登る登るー!」
エサにつられる動物のようにマオは走っていった。あわててユキも走って追う。
「ダメ。危ないから」
「危なくないよー。ちゃんと気をつけるから」
肩をつかまれ、身動きが取れない。そのため、どうにかしてお姉ちゃんを説得できないか考える。
「やめたほうがいいって。昔、リンがぼくと一緒に登って背中から落っこちたことがあるから」
「失礼なケンジ。運動神経はいいんだから、大丈夫よ」
「……こんな時にピッタリな言葉があるのを知ってる? 『サルも木から落ちる』ってさ」
「おいこら! サルとは何だ! ウキ―!」
リンはわざとらしく動物の鳴き声みたいな声を出した。だが、木を登って彼を追いかけることはしないでいた。木から落ちたことは本当のようだ。今でもトラウマになっているのだろう。
二人が言い争っているのを見ているのが面白くて、木登りしたいと思ったことをマオは次第に忘れていった。
その後、皆でだるまさんが転んだという遊びで楽しみ、お昼になってから街へ出かけた。村へ帰ったのは日の入りまで三十分になってからであった。
翌朝、ユキとマオは出発の準備をしていた。昨日のように朝ご飯を頂戴しお礼を言うと、「これ、道中で食べていけ」とシカ肉の燻製を手に持ちきれないほどもらった。「食べるのもいいけど、売ってもそれなりの値段はするはずだから、好きな方を選ぶといい」とショウジは笑った。これほどの量はとても食べ切れないから、次に訪れる街で四分の三ほど売ることにした。
それだけでなく、遠い南の国から取り寄せられたものだ、と実がギュウギュウに詰まったフルーツを三種類いただいた。「今食べたい!」と、朝ご飯を食べたばかりだというのにマオがねだったため、女性の一人が包丁を持ってきて切って一切れ渡してくれた。残りは包装紙で包んでくれた。
「ずっとここにいてもいいんだぞ」
おじいさんが杖をついてレッカーの所まで来てくれた。今日は風邪を引いてなく顔色がいい。
「ありがとうございます。ここの生活は楽しかったです。マオも子どもと遊べて嬉しかったようですし。でも、いつまでも甘えているわけにもいかないですし、わたしたちは旅人です。定住してしまったら、そうではなくなります。わたしはそれは望んでいません」
もらったものを全て荷台に積んで、ビニールをかけてひもでしっかりと固定した。ユキは荷台から飛び下りる。
「それに、マオとレッカーで、見た景色や食べた物や出会った人のことを話すのが楽しいのです。これはやめたくないのです」
ユキがわずかに笑顔を見せると、大人たちは納得したようにうなずいた。
「かつては、俺たちも旅人だった。その楽しさは理解できる。でも、定住したくなったらいつでも来いよ。歓迎するから」
ショウジの息子が手を差しのべた。ユキはそれを握り返す。少しの間、ユキと大人たちの間で握手する時間が流れた。
「いやだぁ」
ケンジがマオを抱きしめてわんわん泣き声をあげている。アカヤとカケルもそれにつられて泣いているし、リンは最初ケンジをからかうつもりだったが、こらえきれずに涙を流している。
「痛い……」
彼に締め付けられて、マオがうめき声を出している。それに気づいたリンがあわてて引き離す。ケホッと咳を数回した。
「また会えるんでしょ?」
ケンジのその声は、抱きしめられているマオの耳にかろうじて入った。
「うん! また遊ぼうよ」
マオのその言葉は何の根拠もないけれど、自信に満ちあふれた表情に、子どもたちは元気づけられた。
「本当だよ? 約束してね? もし破ったら、針千本飲ませるからね?」
涙声を抑えきれずに、ケンジはマオの体を引き離して両肩をつかんだ。マオは、何それ、と首をかしげる。
「マオ、そろそろ行くわよ」
運転席のドアに手をかけながら、マオを呼んだ。じゃあね、とケンジたちに手を振った。彼らはマオの後をついていき、彼女が助手席に乗ると、我先にと手を伸ばして最後まで手を握ろうとする。でも、レッカーの席は地面から高い場所にあるから、子どもの腕の長さでは届かない。
レッカーがエンジンをブルンとかけた。元気よくさよならを言うかのように、何回もエンジンをうならせる。
「それでは皆さん、ありがとうございました!」
ユキがウインドーを開けて頭を下げた。「また来いよ!」と笑顔を返される。
そしてレッカーのアクセルを踏もうとした時、「ちょっと待って」とおばあさんが男や子どもたちをかき分けて来た。半分ほど閉めたウインドーをまた開けた。
「ルリ、またカラスにエサをやりに行ったみたいだから、帰り際に声をかけておくれ」
「はい、もちろんそうするつもりです」
ユキはニコッと笑って、ギアを動かしてアクセルを踏んだ。徐行運転をしていると、子どもだけでなく大人たちが全員名残惜しそうに後をついてきた。もう一度頭を下げ、開けた道路に出ると、もう一度ギアを動かしてスピードを上げた。サイドミラーとバックミラーに、手を振る村民たちが小さくなってやがて見えなくなるまでずっと写っていた。
8へ続きます。次がこのお話のクライマックス!




