第八十六話:いやなことがあった日
仕事の話が終わり、ユキが事務所を出られたのは、午後九時を回った時だった。
外は気温が氷点下まで下がっていて、彼女は自分の表面温度もだんだん下がっていくのを感じた。
深いため息をついたユキは、駐車場に停まっているレッカーの運転席のドアを開けた。
〈お疲れ、ユキ〉
小声で、レッカーが言った。
「ええ」
ドアを閉めると、ユキはシートの背もたれに体をどっぷりと預けた。
車内は、暖房のおかげで二十二度ほどに保たれていた。
助手席では、毛布にくるまって寝転んだマオが、静かに寝息をたてている。
ユキは、少しずれている毛布を、マオの肩までかけた。
〈本当にお疲れのようだな〉
「そうね……。結果的に交渉決裂になったわけだし。これまでの苦労を考えると、精神的に参るわね」
〈やはり安く買いたたかれたのか〉
「悪路で、運んでた鉄製材を落として傷がついたのが、ダメだったようね。荷台にそれをロープで固定したのは、あの会社の倉庫のロボットだというのに」
〈もしかして、『ちゃんと走っていれば、商品を落とさずに済んだ』とか言われたか?〉
「わたしたちの話が聞こえていたの? おおむねその通り。経費を差し引いたら、ほぼ収入はないわ」
〈さすがに聞こえてはいなかったが、予想くらいつく。すまない。早く到着しようとしたのがいけなかった。俺のミスだ〉
「いえ、きちんとロープで固定されていることを確認しなかったわたしにも責任がある」
〈せっかく、峠を越えてきたのにな〉
「……いい勉強になったと思うことにしましょう」
ユキは癒しを求めるように、マオの頭に手を伸ばし、軽くなでた。
汗の成分がマオの頭皮から蒸発しているのが、ユキには分かった。今日は彼女をお風呂に入れることができなかったから、その成分がいつもより多いと分析した。
マオのほっぺたに手のひらを移すと、皮脂で潤った肌に、彼女の体温がしっかりと感じられる。
少し手を首筋に動かすと、細い首でわずかにピクピクと動く頸動脈に指先が触れて、温かく穏やかな血液の流れを感じ、手を顔に近づけたら、湿った鼻息が規則正しくかかった。
車外には、人間や動物の姿は一切なく、明かりが漏れている事務所の中もロボットやアンドロイドだけだ。
マオという、血が通った生命力に満ちた存在に、ユキは自ずと手を伸ばしてしまう。
〈こういう日は、ユキはいつもマオにそうやって触るよな〉
「どういう日?」
〈いやなことがあった日〉
フッとユキは小さく微笑んで、マオに触れる手を止めた。
「そうかもね。理屈は分からないのだけれど、自然とマオを求めてしまうの」
〈寒い日は特にな〉
「気温が?」
〈心が〉
心……。ユキは、マオを触っていた手を、自分の胸に当てる。
ユキの胸の奥には、燃料である水素電池があり、そこから血管のようにコードが伸びていて、人工皮膚に隠されている機械の体の内部に張り巡らされている。
自分の首筋に指で触れても、拍動は感じないし、鼻から息もしていない。
そんなロボットである自分に心などないはずだが、それでは説明のつかないことが、マオやレッカーと過ごしているうちによく起きる。
もしかしたらわたしは人間に近づいているのかも。
ユキはそう思った。
理屈では説明できないことを考えながら、ユキはまたマオに手を伸ばすのだった。
次話をお楽しみに。




