第五話:子どもだまし⑥
テントから十メートルほど離れたところに、男女専用トイレがそれぞれ設置されている。元は白色だったのだろうが、今は塗装があちこちはげていて灰色の下地が斑模様をつくっている。
ユキはそこで、昨日と今日で腹に入れた食べ物を捨てていた。作業着と半袖を脱いで上半身は下着だけになると、みぞおち辺りに手を当てた。体の内部でカチッと音がし、みぞおちから下、ちょうど彼女の手のひらと同じくらいの広さの皮膚に、横に長い長方形の切れ目ができる。そこが自動ドアのように上へ収納されていく。中から直径十五センチほどの金属でできた円筒形の容器が内部から前へスライドして出てきた。中身は、凝縮された食べ物や飲み物だ。それを手で取り、傾けて捨てていく。設置されたティッシュペーパーで空の容器を拭うと、再び体の中に入れた。そしてスライドして入っていき、上から皮膚が下りてきて閉じられる。中からカチッとロックがかかる。特に急ぎもせずに半袖と作業着を着た。
「お姉ちゃーん、終わったー?」
外からマオが急かすように呼んでいる。騒がしいので、一緒に子どもたちもついてきたのだろう。汲み取り式なので水は流れない。湿っているシートが置かれていたので、それで手を拭き、ドアを開けて外へ出る。
「皆、準備はいい?」
ユキはそう尋ねて、一同の顔を見下ろした。もちろん、当たり前よ、と答えが返ってきた。予想通りだった。
「ねえねえ」
三歳のアカヤという男の子がケンジの服を引っ張った。なんだ、としゃがんで視線を合わせる。
「ルリちゃんがいないよ」
「……あ、本当だ」ケンジが後悔した風な顔をする。
「どうしたの?」
マオが彼の顔色をうかがった。
「いつものカラスよ」
リンがニコやかにそう言った。
「あれって、習慣なの?」
ユキがリンを見ると、そうよ、と相づちをさらっと打つ。
「前の晩やその日の朝に出た余り物の食べ物を持って、カラスにあげてるの。楽しいんだって」
「皆は一緒に行かなかったの?」
「無理だよ」とケンジがバトンタッチした。「いつもふらりといなくなるから気配に気づけなくて。それに、そもそもあのカラスたち、ぼくらが近づいていくと警戒して怖いんだ。だから、エサをあげるのは彼女の仕事なんだよ」
どうやら彼は、皆をまとめるリーダーとしてルリの行動に目が届いていないことが悔しいらしい。
「幼女好きのケンジでも、ルリは対象外なんだよね」
苦笑しながらリンは彼を見た。彼女は安心したような目をしている。だが、頬は少し引きつっている。
「子ども好きと言え、子ども好きと。まあ、ルリって年下なんだけど、何か雰囲気がそう感じさせないんだ。まるでぼくらのことは全部お見通しであるかのようにさ」
友達としては大好きだよ、と慌てて付けたした。
「それを忘れちゃダメじゃーん。まったく。ルリちゃんをいじめるのは許さないんだから」
弾けたようにリンは笑った。頬に入っていた力が緩む。平手でケンジの背中をバンバン叩く。
「痛いよ、もう。それじゃ、そろそろ行こう。今日はユキちゃんとマオちゃんにいい所を案内するよ」
空気を入れ替えるように言葉に高揚感を含めてそう言った。
「そうね。でも、どの道を通っていけばいいの?」
「それは追い追い教えるわ。とりあえず、ルリがいる空き地に行って。その場所は分かる?」
「ええ。昨日、ショウジさんと寄ったから覚えているわ」
早く早くー、と六歳になるカケルという男の子が足を踏み鳴らす。カケルはさっきからずっとリンの袖をつかんでいる。
「行こう行こう! クレーン車に乗って行こう!」
ケンジのかけ声にユキ以外の子どもが、おー! と拳を上げた。ユキは口に手を当てて目を細めて笑った。
「あ、ルリちゃんいた!」
皆でレッカーの荷台に乗って雑談していると、リンが空き地の中央を指さした。カラスが二十羽以上集まっていて、その真ん中にはルリが立っている。手を彼女の頭上まで勢いよく挙げてエサをばらまいていた。その度に、カラスは我先にと羽を広げて食べ物の落ちた所までジャンプし、競い合うように地面を突いている。再びルリがエサを放ると、またガーガーと威嚇するような鳴き声を出しながら集まっていく。
「ルリちゃんがエサをあげ終わるのを待つしかないのかしら」
ユキはレッカーを空き地の隅に止めさせると、荷台に乗ったままカラスたちの様子をうかがった。あれほど群れていては、ルリに近づくのは難しい。ユキだけならカラスがいくつ襲いかかってきても問題ないが、敵意が子どもたちにまで向いてしまうと危険だ。最初はレッカーで突っ込むつもりだったが、止めた方が良さそうだ。
「大丈夫だよ。いつもならルリちゃんが……ほら、遠くにエサを投げた」リンは腰を下ろした。「もう少し近づいてもいいんじゃない?」
リンの言う通り、ルリはユキたちとは反対の方に残飯を放っていた。今まで手前側の地面ばかり突いていたカラスたちが、一斉に移動していく。見ると、ルリは透明な袋を反対にして上下に動かしていた。もうエサは無いようだ。
「分かったわ。レッカー、ルリの所まで行って。でも、あまりスピードは出さないで」
少し面倒くさそうに言った。了解、とレッカーはエンジンをふかせ、ゆっくりと加速していく。「すげー!」とケンジが叫んだ。アカヤとカケルも一緒になってすげー、と真似した。
「意思を持ってる車なんて見たこと無いよ。本当に誰も運転してないんだよね?」
彼が荷台から身を乗り出して運転席を覗こうとする。危ないわよ、とユキが手をつかんだ。
「後で運転席に乗せてあげるから、焦っちゃダメよ」
へへ、とケンジは頬を赤らめた。恥ずかしそうに頭を掻く。
せっかちなんだから、とリンは笑った。そして、静かに微笑むユキをじろっと見つめた。
バタバタと派手な音がした。全てのカラスが一斉に飛び立ったのだ。ルリがこちらに走ってきていた。右手をこちらに大きく振っている。
「レッカー、いったん止まって」
ユキの声に、少しずつブレーキをかけて停止した。やっぱりすげー、とケンジは感嘆の息を漏らす。
レッカーの荷台の下で足を止めたルリは、昨日と同じように先のとがった帽子と黒いコートを着ていた。右手が残飯で少し汚れていた。それに気付いたのか、持っていたビニール袋で軽く拭った。そしてそれをコートのポケットに押し込む。
「怖くなかった?」
マオがおそるおそる尋ねた。密集したカラスの鳴き声とギラギラと光る眼に、背筋が寒くなっているようだ。
「そんなことないよ、楽しいよ! だから、この仕事を続けてる」
「仕事なの?」
ユキが彼女に手を伸ばしながら言った。
「そうだよ。お互い助け合うために食べ物を分けることも、大切な仕事でしょ?」
にぱっと子どもっぽい無邪気な笑顔を浮かべた。ルリは左手だけ伸ばしてユキの手を握った。ケンジが「右手も伸ばせ」と言ったので、彼女はコートで手を拭ってから彼の手をつかんだ。そして二人で持ち上げ、静かに着地させる。
「ようこそ、レッカーの荷台へ!」
リンが、自分の車であるかのように胸を張った。そのおませさんっぷりに、ユキはくすっと一回笑った。
「わあ、結構広いね」
ルリは運転席に一番近い所に座った。
「さあ、お昼にならないうちに早いとこ登ろうよ」
ケンジが皆の顔を見回した。おー、とアカヤとカケルが拳を上げる。
「登るって、どこか山にでも?」
「ユキちゃん、それは行ってからのお楽しみだよ。とりあえず、検問辺りの分かれ道まで行ってくれる?」
もやもやした気持ちでユキはマオと顔を見合わせる。だが、きっとサプライズを用意してくれているに違いない。これ以上聞かないほうがいいだろう。
「……分かったわ。レッカー、聞こえてるでしょ。よろしくね」
彼女が荷台をなでてやると、彼は急発進した。「わあ!」と子どもたちが騒ぐが、彼らはまるで遊園地の遊具に乗っているかのように顔をほころばせていた。
7へ続きます。




