第八十二話:露天風呂にて
荷物を運ぶために峠越えしているユキたちは、森がどこまでも続く急斜面の道を進んでいた。
そこは大きな山脈の中腹辺りで、道は一切舗装されていなく、小さな石がゴロゴロとしている。
道の幅は、レッカーがどうにか通れるくらいの幅しかなく、片方の道沿いに群生している茂みの数メートル先は崖で、眼下にはさらに深い森がどこまでも広がっていた。
その景色には、一つとして人の手が加わっているものはない。
ようやく頂上の開けた場所に着いたレッカーに、
「少し休憩するわ」
ユキはそう言ってレッカーのハンドルをなで、悪路の運転に疲れた彼をねぎらった。
彼女は、マオに外の新鮮な空気を吸わせるため、手を繋ぎながら運転席から降りた。
空はきれいな冬空で、雲がポツリポツリと点在するだけで、雪の心配のない、いい天気だ。
「空気、おいしい?」
ユキがマオに聞くと、
「冷たくておいしい」
まるでアイスを食べた時のような感想を言った。
三時間以上、閉鎖された車内で過ごしていた時のマオは、少し暇そうで疲れた顔をしていたが、今は少し回復し、辺りの景色に興味を持ち始めている。
すると、
「ねえ、あっちから煙出てるよ」
マオは、崖の方にある茂みの向こうを指さした。
「本当ね。でも煙じゃなさそうね。ちょっと見に行く?」
お姉ちゃんの問いかけに、マオはこくんとうなづく。
「そういうことだからレッカー、少しここで休んでいて。ついでに入ってくるから」
〈入ってくる? 何に?〉
「温泉に」
〈あれって湯煙か〉
「ええ、ちょっとだけ匂いもするの。マオ、煙の出てる方、匂いしない?」
先に行こうとするマオの背中に、そう尋ねる。
「匂い、するね。何の匂い?」
マオは子犬みたいに鼻をひくつかせた。
「たぶん、温泉よ」
「温泉⁉︎」
とたんに目をギラギラと輝かせたマオは、お姉ちゃんの手を振り切って走って行こうとする。でも、ユキはしっかり握って離さない。
「温泉は逃げないから、ゆっくり行きましょ」
ユキは、いったん運転席に戻ってバスタオルを二枚手に取ると、マオと一緒に茂みをかきわけていった。
旅人である彼女たちは、毎日お風呂に入れるわけではない。
でも、お風呂に入って体をきれいにするのは、あらゆる病気にならないために大切なことであり、ユキはその機会があるたびに、マオをお風呂に入れるようにしている。
そして、マオと手を繋いだりギュッと抱きしめたりすることのあるユキも、同じく体を洗うようにしている。
「これ、湯気?」
ワクワクして少しほっぺたが赤く染まっているマオが、目の前にある小さな池を指さした。
「そうね、湯気ね」
そこには、周辺を天然の仕切りである茂みと木々に囲まれた、直径五メートルほどの浅い池があった。
その真ん中あたりから、ポコポコと泡が絶えず上ってきていて、下から温泉が湧いているのが分かる。
池の三メートルほど先は崖になっていて、眼下にはやはり深い森が広がっていた。
「天然の露天風呂ね」
お金を払わずに入れるこのような場所は、ユキにとってありがたい。
「入ろうよ!」
すでに靴をその辺に脱ぎ散らかしたマオは、興奮した表情でユキを見上げる。
「ちょっと待って。先にわたしが入って、安全か確かめるから」
ユキは服を全部脱いで、池をのぞきこむ。水深は浅くて、腰を下ろせば、大人が肩まで浸かれるくらいだ。マオは、ユキの膝の上に座らせれば問題なさそうだ、とユキは思った。
次に、池の中に入り、底に足をケガしそうなものが落ちていないか探した。
誰かが管理しているものではないため、石や枝がいくつも沈んでいる。それらを取り出しては、ポイポイと茂みの方へ捨てていく。
池全ての底をさらっていると、空の一番高くにある太陽が沈んでしまうから、ユキが座る辺りだけにしておいた。マオはしっかり離さないようにすればいい。
そして、お湯の成分を調べるため、ユキはそれを少し口に含み、分析した。温度もちょうど良く、有害な物質は入っていない。
「服脱いで。一緒に入りましょ」
「うん!」
コートやトレーナーを脱いでいくマオは、「寒い!」と、遠くまで聞こえる声で叫んだ。
そして、ユキに連れられて、そろりそろりとお湯に浸かる。先にユキが腰を下ろし、その膝の上に座った。
ユキはマオのお腹の前でしっかり腕を組み、彼女が逃げ出さないようにした。
マオは、「ホッ」と小さく息を吐き、表情を緩ませた。寒空の下で入る温泉は、とても肌に染みて気持ちいい。
お湯に浸かるのは二日ぶりだから、マオをしっかり洗ってあげなくてはならない。ユキは、背中までのびるマオの黒い髪を、自分の手で優しくお湯を含ませながら、梳くように洗っていく。
マオは、ご主人に頭を撫でられて嬉しそうにする犬のように、ふふふっと笑いながら、お姉ちゃんに洗ってもらうのを楽しんでいた。
そうして体も洗ってもらい、静かに温泉に浸かっていると、
「誰もいないね」
マオは、人の気配を一切感じられない森を見下ろしながら、ふと寂しそうに言った。
「確かにね。マオは、他にも誰かがいた方がいいの?」
「おねえちゃんと二人っきりもいいけど、周りでペチャクチャおしゃべりしている人がいるのも、いい」
「それが知らない人たちでも?」
マオは小さくうなづいた。
ユキは、マオとレッカーさえいれば、周りに人っこ一人いなくても気にならないのだが、どうやらマオはそうではないのだ、と彼女は気づいた。
「ずっと前に、人がたくさんいるお風呂屋さん行ったでしょ? マオは、あそこみたいなところがいいの?」
それは役所が運営していた、労働者やホームレスのための公衆浴場で、マオはそこでたくさんはしゃいでいた。
「うん、あったまった後に、広いところでミルク飲んだのが、すっごく楽しかった」
なるほど、とユキは思った。最近そういうお風呂場に行っていなく、ホテルの個室のバスルームだったり、野宿の時にタオルで体を拭いてあげたり、という事が多かった。
「分かったわ。大きな街に着いたら、お風呂屋さんに連れて行ってあげる」
「本当⁉︎」
「ええ、本当よ。でもまあ、今日はこの二人っきりの露天風呂を楽しみましょ」
「外のお風呂も好きだよ。ずっとお姉ちゃんがくっついてくれるから。お姉ちゃんの上に座ってる時、お姉ちゃんのお腹、あたしの背中で触ってると、とっても気持ちいいの」
「そうなの? じゃあ、お風呂屋さんでもやってあげるわよ」
「うん!」
そんな二人の会話を、遠く離れた茂みの向こうでレッカーは聞いていて、
〈話に混ざりたい……〉
彼女たちのいるところまで入っていく道がないことが、レッカーは少し残念に思った。
次話をお楽しみに。




