第八十話 ガラスの向こうのお友達②
次の日、ローラのいる服屋さんへ行くと、ショーケースの隣の入り口の前に、見慣れないものが置いてあった。それは確かコッペパンという名前のパンで、白いきれいなお皿に二つのせられている。
「おはようローラ」
まだ開店前だから、お姉さんはポーズをとらず、床に足を投げ出して座っていた。
彼女はあたしに気がつくと、一人寂しそうにしていた表情が一気に明るくなり、ガラスの前まで近づいてきて、
「おはようございますクズリ。そちらのパン、ついさっき店主が置いていかれました。昨日の夜、お店で買ったものです。食べて良いのだと思います」
と、そのパンを指さした。
「どうせ、犬か猫にあげるやつじゃないの? なんであたしなんかに」
こんなきれいなお店の人が、あたしみたいな薄汚い人間に食事を分けてくれるなんて、ありえない。
衣食住に困っていない人たちは、あたしたちにゴミや石をぶつけてくることはあっても、こういうものをくれることはない。
「お願いです、食べてください。もし私がここから出られるのなら、今すぐにでもあなたの口に、それを入れてさしあげますのに」
お姉さんがあまりにも心配そうな顔をするので、仕方なくパンを手にして一口食べた。うん、おいしい。
食べ進めながら、あたしはショーケースの前に立ち、目の前にいるお姉さんを見つめる。何か、今日はいつもより寂しそうな顔をしている。
「お話があります」
あたしが口を開く前に、ローラが言った。「私はもうすぐ、ここからいなくなります」
「え?」
何を言ったのか理解できず、あたしは次の言葉が出てこない。
「昨日の夜、店主から言われました。私はこれから工場に行くのだそうです。どうなるのかは分かりません。ただ、私はあなたと出会うずっと前からこの仕事をしてきました。もう寿命なのかもしれません」
そう言うと、お姉さんはしゃがんだまま両手をガラスにべったりとつけた。
あたしは急に心にポッカリと穴が空いたような気持ちになり、ガラス越しに彼女の手と自分の両手を重ねた。ローラの方が手のひらも指も大きい。
「クズリ、一年近くの間、会いにきてくれてありがとうございました。歳の離れたお友達ができて、楽しかったです。私がいなくなっても、絶対生きてくださいね」
まだ彼女が何を言っているか分からない。せっかくお友達になれたのに。
気がついたら、あたしは目から涙が流れて、頬をつたっていた。お姉さんがぼやけて見える。
いっぱい言いたいことはあるのに、息が苦しくて嗚咽しか出てこない。あたしはその場に座り込んで、顔をガラスにくっつけて泣いた。
通りがかった人やロボットがあたしをのぞきこんでいたかもしれないけど、そんなのが気にならないくらい泣いた。
30分くらい経った時、目の前の道路に車が停まった音がした。
「あ……。運送業者の方が到着したようです」
お姉さんの弱々しい声で、あたしは後ろを見た。
そこには、荷台付きクレーン車がいた。車体は薄汚れている。
運転席から、女性が降りてきた。紺色の作業着を着ていて、顔は十四歳くらいに見えるが、背が高くて澄ました顔をしていて、大人びた雰囲気だ。
ショートカットの髪をなびかせながらこちらに歩いてきて、他の通行人と同じように、あたしを少しの間見ると、あまり興味なさそうに視線を外し、服屋さんの中に入っていった。
少ししてその女性は、店主と一緒に外へ出てきた。
「この女の子は?」
女性は、あたしを指さして店主に尋ねた。事務的で感情のこもっていない声だ。
「ずっとこの店に来てる子だよ」
店主も感情のない声でそう言った。
女性と店主が、クレーン車に向かって歩いて行く。あたしは、その後ろにもう一人いることに気がついた。
「ローラ!」
お姉さんが、店主の後に続いて、うつむきながら歩いていた。
あたしの声が聞こえたのか、お姉さんは顔を上げた。ガラスを挟まない彼女の姿を見たのは初めてで、まるで絵画の中から出てきたように美しかった。
汚らしいあたしとは全然違う。
「クズリ……!」
お姉さんは立ち止まり、こちらを向く。顔をくしゃくしゃにしている。生で聞く彼女の声は、とても澄んでいてきれいだ。
あたしは、ローラを抱きしめたくて駆け寄った。すると、
「触らないでおくれ」
女店主が、しわくちゃの手でさえぎった。「これからローラを工場に運んでもらうんだ。ここで汚くされたり壊されたりしたら、費用がかさむ」
その言葉を聞いて、あたしは愕然とした。この店主、どこかに転売するつもりだ。だから、少しでも金になるよう、余計なことはされたくないのかもしれない。
あたしは、背の高い店主を見上げた。店主の目は、ガラスのように感情がない。ロボットであるローラの方が、よほどきれいな目をしている。
「イヤだ! 連れていくな! 友達を殺すな! あたしから、何もかも奪うな!」
あたしは店主につかみかかった。だが、まともに食事ができていないせいか、力が入らず、抱き捕まえられて、身動きがとれなくなった。
「ユキさん、ローラを連れていって」
あたしを押さえながら店主は、女性に言った。
ユキと呼ばれた女性は、ローラの手を引いて、クレーン車の助手席へ乗らせた。
「死ね! 死ね! 地獄に堕ちろ!」
あたしは、クレーン車とユキに罵声を浴びせた。
助手席に乗ったローラが、両手をウインドーにべったり付けながら、あたしを見ていた。
クレーン車がゆっくりと発車する中、ローラは何かを言った。声は聞こえなかったが、「生きて」と唇が動いていた気がする。
「うわあああああ!」
あたしは店主を振りほどき、ゆっくり加速しているクレーン車にダッシュした。
なぜ空腹なこの体で、こんな力が出せるのか分からない。あたしは助手席の取っ手を両手でつかんだ。そしてつま先立ちの状態のまま、引きずられる。
すぐに、キキーッと耳障りな音を立てて、クレーン車が急停車した。
握力が限界だったあたしの手は、その反動で取っ手から離れ、あたしはその場に投げ出された。
お尻を打ったので、そこをさすっていると、運転席の方からドアの開く音と閉じる音が聞こえた。
すぐにユキが早足でやってきて、ものすごい剣幕であたしの両脇に手を入れられ、まるで赤ん坊のように持ち上げられる。そして、歩道まで運ばれて降ろされた。
「あのロボットの事が大事なら、自分の命も大事にしなさい」
怒られた。ユキの声は静かでトーンも低かったけれど、あたしを黙らせるには十分だった。
ちょうど太陽の光が向かいのビルの間から差してきて、逆光になり、クレーン車の助手席が見えにくくなった。
だから、ローラがどんな表情をしているのか分からないまま、クレーン車は走り去ってしまった。
一週間くらい経った日、あたしは気になってあの服屋さんに足が向いていた。
この一週間、辛さを忘れるために、あの場所を避けていたが、もしかしたら、と思ったのだ。
「あれ……」
ショーケースの中に人影があるのが、遠くから見えた。まさか、まさか、まさか!
「クズリ!」
ガラスに顔と手をべったりと付けて、ローラはあたしを見ながら叫んだ。
「どうして……」
確かにローラがいる。先週と変わらないかっこうで。
あたしはショーケースの前まで来ると、腰が抜けて座り込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
お姉さんはあたしと同じ高さにしゃがんだ。スカートの裏の下着が見えてしまっているが、隠そうとしない。
店のドアが開いて、お客さんが大きな袋を下げて出てきた。そしてあたしを珍しそうに見る。
そういえば、開店中だというのに、ローラは仕事をほったらかして、あたしの相手をしている。
ローラが言った。
「あの、言いにくいのですが、私は寿命ではなく、ただ修理されただけだったのです……」
あたしは開いた口が塞がらなかった。「うそ、うそ……」
「二日ほど後には、お店に帰宅しました。それからずっとあなたを待っていたのですが、なかなか来なくて、とても心配していました」
「じゃあ、あたしが勝手に勘違いしてたってこと?」
いつの間にか出ていた涙と鼻水を拭い、あたしは呆然とする。
「いえ、私が変なことを言ってしまったのがいけなかったんです。ごめんなさい」
お姉さんはペコリと頭を下げた。
「もう! ローラったら、永遠の別れが来たって本気で思ったじゃん。ローラの前でめっちゃ泣いちゃったよ」
その時、ドアが再び開いて、今度は店主が出てきた。お客さんはいなくなっていた。
「入ってきな」
店主は手招きした。
ローラと顔を見合わせてきょとんとしていたあたしだったが、お姉さんがあたしを勇気づけるようにうなづいたので、従うことにした。
「あんた、食事に困ってるね。毎日げっそりした顔をしながら来てただろ」
店内に入るなり、店主にそう言われた。バレていたのか。
すると、店主はショーケースの裏側の鍵を開けた。ガラスがドアのようにこちら側に開き、ローラを中から出して店内に入れた。
「ローラ、お前さんはこの子が大事かい?」
突然の店主の言葉に、ローラは驚いているようだが、
「もちろんです。私はこの子を助けたい」
「そうかい。分かった。だったら、わたしから話がある。今からローラに働いた分だけ給料を支払おう」
お姉さんは、「え?」と言う。
「その金を何に使おうが、わたしの知ったことではない。たとえ、この子のご飯を買ったとしても」
今度はあたしが「え?」と言った。
「今ローラに与えている二階の部屋だが、それもお前さんがどう使おうが、わたしの知ったことではない。もう一つベッドを用意して、この子を寝かせたとしても」
この店主の言っていることって、つまり……
「クズリをお店に住まわせてもよろしいのですか⁉︎」
突然、ローラがすっとんきょうな声を上げた。
「さあてね。私は知らないよ。ただ、そうするのなら、お前さんは仕事が終わったら、この子に勉強を教えてやるんだ。きっとこの子は、世の中のことを何も知らないだろうからね」
あたしは今、何が起きているのか、まったく飲み込めない。え、ここに住む……?
「やったー!」
高くて大きな声で、お姉さんは子どものように叫び、あたしをおもいっきり抱きしめた。きつくて息が止まりそうだ。彼女の背中をバンバンと叩くと、
「あらあら、ごめんなさい。私、つい」
彼女は力を緩めた。でも、抱きしめたまま。
お姉さんの服は少し乱れていて、背中まで伸びる黒い髪はあちらこちらに跳ねていて、ショーケースに入っていた時のお上品さは欠片もないけど、あたしは直接ローラに触れられていることが嬉しくて、そんなのは気にならない。
ロボットだから体温はないものの、とても心が温かくなる。あたしは顔を埋めて、お姉さんの匂いをめいいっぱい嗅いだ。とても安らぐ匂いだ。
「なんであたしを」と、レジ前のイスに座った店主に訊こうと思ったが、どうせ答えてくれないだろうと思い、胸の中にしまいこんだ。きっといつか、直接話してくれる時がくるだろう。この人は信用してみてもいいのだろうか。
あたしはお姉さんを見上げた。少し上にお姉さんの優しく微笑む顔があって、まっすぐあたしを見てくれている。
「これからよろしくね! ローラ……お姉さん!」
次話をお楽しみに。




