第八十話 ガラスの向こうのお友達①
ローラに出会ったのは、あたしがこの街の廃ビルに移り住んできて少し経った時だった。
だんだん日中汗ばむようになってきた頃のことだ。
その時あたしは、お店からこっそり盗んだクリームパンをほおばりながら、きれいなお店が並ぶ大通りを歩いていた。
ここは、あたしの住んでる廃ビルの建つエリアとは違って、とても清潔で、明るい音楽と装飾で彩られている。
二車線の車道には、自動で走る大きなトラックがたくさん行き来していて、人が自分で運転している乗用車もちらほら見かける。
赤信号で止まっているその灰色の車には、大人の男女が一人ずつと、子どもの男女一人ずつが乗っていて、楽しそうにおしゃべりしている。声は聞こえないが、とても盛り上がっているようだ。
家族もいなくて貧乏なあたしには、絶対体験できない。うらやましくて、胃がキリキリと痛む。きっとこの痛みは、空腹のせいでもある。
その服屋さんは、パン屋さんから数百メートル離れたところにあった。
たいして大きくないレンガづくりの二階建てで、一階がお店になっているようだ。
看板は、ボロボロな四角い板に店名が書いてあるだけの質素なものだ。
入り口の横には、とても大きいショーケースがあり、服を着せられた女の人形が、ポーズをとりながら立っていた。
いや、人形にしては人とほとんど変わらない見た目をしている。ガラス越しだと、人が立たされているようにしか見えない。
あたしは気になってそれを見上げた。地面より高い場所にそれは立っていて、しかも身長がとても高いから、少し首が疲れる。
パンをほおばりながら見続けていると、
「うわっ!」
突然、それの目だけが動き、あたしを見下ろした。
パンを落っことし、尻もちをついてしまった。
「……大丈夫ですか?」
今度は口も動き、声を発した。若くてきれいな声だ。
「お姉さんって、ロボット?」
あたしはたぶん十二歳くらいだけど、これの見た目はもっと年上だ。だから自然と、お姉さんと言った。
「ええ、私はロボットですよ。あなたは人間ですね?」
顔は横を向いているが、ロボットはフフッと微笑んだ。笑い方が上品に思えた。
「人間だよ。お姉さんは何をしてるの? もしかして仕事?」
「もちろん。私はこのお店の店主に所有されている身ですから、ここで働くよう命じられています」
「こんなところにずっといて、つまんなくない?」
「んんー、正直そう思うこともありますけれど、私を見てくれるお客様がいらっしゃるので、やめたいと思うことはありません。ただ、私は人工知能も人工声帯もあるので、ずっと店主以外の誰かとお話をしたいと思っていました。ここで働き始めてから、話しかけてくれたのは、あなたが初めてです。私は嬉しいです」
「あたしも……誰かとお話ししたのは久しぶりかも」
「では、よろしければ今後も私とお話をしてくださりませんか? 私はあなたに興味を持ちました」
「……まあ、たまになら」
「約束ですよ? 可愛い年下のお友達ができて、私は楽しいです」
笑顔がとても美人なこのお姉さんは、話の途中からポーズをとるのをやめて、あたしに近づいてしゃがんでいた。
「仕事中でしょ? ポーズとらなくていいの?」
「店主は接客中ですし、通行人もいないので大丈夫です」
お姉さんは、チロリと舌を出した。
ずいぶんグイグイくるお姉さんだな、と思いながら、自分がまだお腹を減らしていることに気づく。
「じゃあ、あたしそろそろ行くから」
「あ、その前にお名前を教えていただけますか?」
「……クズリ」
「私はローラです! ぜひ仲良くしてくださいね」
お姉さんは右手を伸ばしてきたが、ガラスに阻まれた。
彼女は少し驚いた顔をしてそれを引っ込めたから、あたしたちの前に壁があることを忘れていたのかもしれない。
その日は、それで別れた。
その三日後、人に追われていてやっとまいて一安心した後、あのロボット……ローラのことを思い出した。
「まあ、また来てくれて嬉しいです!」
ポーズをとったまま、ローラはそう言った。笑顔がまぶしい。本当に嬉しいのだろう。
あたしは、彼女から見やすい位置に立った。
「ところでクズリは、とても痩せているように見えます。ちゃんと食事はできていますか?」
身なりから、あたしの生活状況を想像したのだろう。実際、あたしは明日の食料は持っていない。
「昨日は久しぶりにたくさん食べたよ。廃ビルにいた知らないおじさんからたくさん奪えたから」
一応他の人に聞かれないよう、小声で話した。
「……そんなことをしていたのですか」
突然お姉さんは声のトーンを落とし、周りに通行人がいるのに、あたしの近くにしゃがみこんだ。
「だってしょうがないじゃん。あたしはいつも生きるか死ぬかの生活をしてるんだから」
そんな人間がたくさんいることくらい、いくらショーケースの中のロボットでも知ってるはずだ。
するとローラはため息をつき、
「これだけは約束してください。必ず生きて。生きて私に会いに来てください」
それまでとは違う真面目な表情をつくって、あたしをまっすぐに見ながら言った。
「あたしだって死にたくないし、そんなの分かってるよ。気をつけるよ」
そうしてその日は別れた。
あたしは、ショーケースに閉じ込められたお姉さんが、とても不自由だと感じた。こんな生き方しかできないあたしも不自由で、仲間になれると思った。
それからも、ローラに会いに行く日は続いた。猛暑の日、秋深まる日、息が白くなって雪がちらつく日、そして少しずつ暖かくなってきた日……。
また別の日。最初に出会った日から、一年くらい経った。
「おはよう、ローラ!」
あたしはガラスを優しくコンコンとたたき、あいさつした。この頃になると、あたしは毎日のようにここへ通っていた。
「おはようございますクズリ。今日はいい天気ですね」
ショーケースの中に立っているお姉さんは、店主から命じられたポーズをとりながら、目だけ動かし、あたしと空を交互に見た。
「ローラ、服が昨日見たのと変わってるね。涼しそう」
お姉さんは肩が出たきれいなかっこうをしている。何ていう服だろう。
上半身の服は、水玉模様が白い生地に散りばめられていて、下半身は白くて薄いスカート。裸足で、床には砂にできた浅い水たまりの映像が映し出されている。
顔は白くてきれいで、長い黒髪との色合いが映える。
「ありがとうございます。もうすぐ夏ですからね。こういう服が売れるのですよ」
すると彼女は、キョロキョロと辺りを見回す。あたしもつられて周りを見るが、この歩道の近くに人影はない。
それを確認できたのか、ローラはポーズを崩し、あたしの目の前まで近づき、しゃがみこんだ。あたしよりも身長がとても高い彼女が、同じくらいになった。
ガラスがなかったら、お互いの顔を触れる距離だ。
下着が見えないよう、スカートの布を手で押さえるローラのその仕草は、とてもお上品に感じた。
「クズリ、最近ちゃんと食事できていますか? 顔色が悪いですよ」
お姉さんは、あたしに心配そうな表情を見せた。
「さっき、二日ぶりに食べれたよ。食パン一枚。変な臭いしてたから、腐ってたかも」
あたしは心配させまいとケラケラ笑ったつもりだったが、あまり喉の筋肉に力が入らなくて、乾いた笑い声しか出ない。
「ああ、もし私がこのお店の所有物でなかったら、ここを飛び出して働いて、あなたを養ってあげられますのに……」
ローラは今にも泣きそうな顔をした。涙を流す機能はない、と前に聞いたことがある。
「大丈夫だよ。あたし、たぶん十二歳くらいだし、遠くまで盗みに行けるようになったし、力もついてきたから人を殺すことだって……
そこまで言った時、急にお姉さんは怖い顔をした。今まで見た事のない表情だ。
「そんなことを続けていたら、いずれ返り討ちにあいますよ! 死んでしまう事だってあるかも……」
いきなりお姉さんが怒鳴ったことに、あたしはびっくりして、おしっこをちびりそうになった。
「いや、だって、他に手段がないし」
「何でしたら、私が店主に相談しましょうか。引き取り手を探してもらうために」
「他人は信用できないから、イヤ。それに、あたしはこの生き方しか知らないし」
そこまでしゃべった時、急に腹具合が悪くなってきた。あたしは慌てて服屋さんの隣の細い路地の奥まで走り、用を足した。
ショーケースの前に戻ると、ローラは立ち上がってポーズをとっていた。
店の中をよく見ると、さっきまで接客をしていた高齢の女店主が、レジ近くのイスに座りながら、ショーケース越しに外を眺めていた。
店主と視線が合った気がした。立ち上がってこちらに歩いてきた。
「じゃあ、また来るね!」
軽く手を振って、あたしは歩いてその場を離れた。店主とは顔を合わせたくない。
お姉さんは視線だけこちらに向けてくれた。
少し離れた時、お店の立て付けの悪いドアが開く音がして、あたしは振り返ると、女店主が顔を出していた。
泥だらけの薄い布地の服を着た子どもなんて、店主は見たくないだろうから、あたしは耳を塞ぎながら、その辺の適当な路地から廃ビルの建つエリアへ走った。
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