第七十六話:マオの母親⑩
クミと二人っきりで過ごした男は、その日、ホテルの前で別れた後、彼女を尾行していた。
「この日限りなんて嫌だ。あんな美人は初めてだ。どこに住んでるんだろう。ようし……」
そうして男は、クミが表通りの店でケーキを買い、アジトに入っていくまで見届けたのだった。
なるほど、と彼女の身分を理解した男は、自分もケーキが食べたくなり、同じケーキ屋に立ち寄った。
お金を払おうとしたのだが、
「あれ、お札がない」
すっからかんになっていた。すぐに、あの女のしわざだと思った。
「くっそ、裏切りやがって。……そうだ、警察に捕まえてもらおう」
彼は警察署に行き、事情を説明した。どうせああいう身分の人間は、ちゃんとしたこの街の住民である自分が訴えれば、すぐに牢屋へ入れられる。そう考えていた。
男は警察のロボットを引き連れ、アジトへと行くことにした。
ちくしょう、ちくしょう……!
娘をおんぶして廃ビルの下を走っているクミは、心の中でそう叫んでいた。
ちょっと欲が出たのがいけなかった。男からもらった代金だけで満足していれば良かったのだ。財布にまで手を伸ばしていなければ……。
今さら後悔しても遅いが、それでも考えざるを得なかった。少し高いケーキを買いたくて盗みを働いたのは、はたして悪い選択だったのかと。
客観的に見ればもちろん悪い選択だったが、それでも彼女にとっては、マオと、一緒に暮らす仲間のことを考えての行動だった。少なくとも、財布に手を伸ばしたあの時点では、彼女に迷いはなかった。
クミは顔と背中に大量の汗をかきながら走る。特に目的地はない。とにかく、警察から逃げられればいい。
裏路地はとても入り組んでいて、行政でもすべては把握できていない。だから、いくら警察のロボットがGPSを頼りに彼女たちを追跡しようとしても、不利だ。その点、このあたりの地理に詳しいクミなら、問題なく姿を隠せる。
それなのに、彼女が気を動転させているのは、フィンとばあちゃんが身代わりになったからだ。ばあちゃんが捕まったのは、ロボットの声で確認したが、フィンはどうなったか、クミには分からない。ただ、彼女ほどではないが、彼もこの辺りにずいぶん詳しくなったし、生きる術もだいたい身につけた。それでも、彼は抜けているところがあり、百パーセント安心とは言えない。
やがて、疲れ果てて路地の段差につまづき、クミはうつぶせに転んだ。
「わっ!」
母親の背中で悲鳴を上げたマオは、前方に投げ出される。泣かなかったが、薄いズボンの生地が破れて、ひざを少し擦りむいて血が出ていた。
クミはかなり息が上がっていて、うつぶせになったまま胸を激しく上下させている。時々吐き気を催し、胃の中身を出してしまった。
そんな母親の様子を、ひざを手のひらで擦りながら見ていたマオは、そろりそろりと慎重に近づき、頭をなでた。
「大丈夫……?」
マオの声は、恐怖と不安で弱々しく、すぐに消えてしまいそうだ。
娘の問いかけには答えられなかったクミだが、ちょっとずつ体を起こし、すぐ近くにあるプレハブ小屋の壁に背中を預けて座る。
「はあ…………」
長いため息をついたクミは、細いのどをさらすように空を見上げる。とても高いビルのすき間から、灰色の雲におおわれた空が見えた。こみあげてくる何かを戻すようにつばを飲み込み、少し目立つ喉仏が上下した。
ふと、一雨きそうだな、とクミが思った矢先、
「あっ」
マオが小さく声を上げ、上を見る。一滴、二滴と、雨粒が落ちてきた。あわてて彼女は、クミの隣に避難し、雨宿りする。
すぐに本降りとなり、空気中のちりやほこりを含んだ雨のイヤな臭いが鼻につく。雨はでこぼこのアスファルトに水たまりをつくって、それがあふれて二人の座っているところまで流れ、ズボンと下着を濡らした。
「うひゃ!」
と苦い顔をして、マオは立ち上がり、プレハブ小屋の中へ避難した。
ズボンと下着が濡れ続けているクミは、まるで電池切れのロボットのように動かず、屋根に隠れずに雨に打たれ続けている足をひっこめることなく、うつむいて目を閉じた。
一休みして目覚めたクミは、周りの様子を観察する。自分たちを探してうろつく警察の姿はないし、音も声もしない。雨はやんでおり、このプレハブ小屋の周辺は、まるで狩りつくされたかのように生き物の気配がせず静かだ。
食料をとってこなくてはいけない。できれば金も。行動するなら早いほうがいい。そう彼女は考えていた。指名手配されていると思ったからだ。
実際、クミの顔はこの街で従事しているすべての警察ロボットに共有されていて、現在も捜索活動が続いている。ただ、裏の住人による犯罪などあちこちで起きているから、クミたちに割ける数は多くない。
クミは、プレハブ小屋の中で体を丸くして座っている娘に、
「少し待ってろ」
そう言って、すばやくそこを出た。
「どこに行くの?」
マオのその言葉は、クミには届かなかった。
一時間後、クミは帰ってきた。両手にはお菓子が入ったビニール袋がたくさんあり、その袋と彼女の上着には返り血が付いていた。怖い顔をしてたたずむ母親に、
「その赤いのって、血? ケガしたの?」
とマオが尋ねる。
「…………」
通行人の女性の命を奪って手に入れた食料を、マオのすぐ前に雑に置いたクミは、同じく手に入れた小さな着火装置を使って、その辺に捨てられている木材を集めて火を点け、たき火にした。
たき火の前で体を温めるマオの隣に腰かけたクミは、盗ってきたお菓子の袋を破裂させ、中身のスナックを乱暴にわしづかみにして口に入れた。本当はしょっぱくて味が濃いのだが、クミはまったく感じることができなかった。それに、頭痛がして少し熱もある。クミが暮らしているのは、清潔とは言えない廃ビルばかりが建つ地域だから、風邪でももらってしまったのかもしれない。彼女はそう考えた。
母親から、「食べろ」と言われ、マオはその袋の中身を同じようにつかんで食べた。本当はおいしいはずなのに何も感じない。それはクミと一緒だった。
二人はその日ずっと、プレハブ小屋の中で過ごした。
11へ続きます。次が最後です。




