第七十六話:マオの母親⑧
マオが生まれて五年が経とうとしていた。彼女は、クミとばあちゃんとフィンによって、大切に育てられている。
身長と体重は、表通りを歩く同年代の子と比べると、どちらも少ない。貧乏暮らしのせいで食料が少ないから、と三人は考えていた。それでも、彼らはマオにたくさん食べて大きくなってもらうため、自分たちの食料を少しずつ分け与えていたから、彼女なりに成長していることは、身長を測ってあげるたびに実感している。
マオはよく走る子だ。クミとフィンが、仕事という名の窃盗をしに行っている間、ばあちゃんの目の届くところで、外を走り回っていた。かつて車が走っていたところを遊び場にし、羽虫が飛んでいくのを走って追いかけ、地面の割れ目の中の巣からアリが出入りしているのをしゃがんで眺めたり、彼女なりに楽しんでいた。外でひなたぼっこしているばあちゃんに小さなクモを見せてあげたら、
「私は虫が嫌いなの」
マオが手のひらにそれをのせて突き出してきたから、ばあちゃんは少しびっくりして冷や汗をかいたものの、優しくマオを注意した。
昼頃に二人が帰ってきて、みんなで食事を済ませ、クミだけはまたどこかへ出かけたが、フィンはマオの遊び相手になった。ばあちゃんが疲れた様子で布団に横になったからだ。
フィンは十七歳になっていた。体は大人と同じくらい大きくなって筋肉もそれなりについた。声は低くなって喉仏が目立ち、着替えて半袖短パンになった腕と足には、男らしく毛が増えている。仕事中に相手を襲うときにもみ合ってできた傷が、腕と足にあり、数か月経つのになくならない。
ちなみに、ばあちゃんは五年前と比べて少し若々しくなった。マオと一緒に外へ出ることが多くなったため、足腰が鍛えられた、と本人は言っている。日に当たる時間も増えたから、顔色も良い。
クミは、母親となったことですぐにカッとすることがなくなり、大人らしく落ち着きを見せるようになった。でも、口調は荒いままだ。
フィンとは、鬼ごっこをしたり少しその辺を散歩したりして遊んだ。そして、ただの散歩に飽きてきたマオは、
「ねえフィン、あのビルに上ってみようよ」
と、二百メートルほど離れた、横長の二十階ほどの大きな建物を指さした。
「あれか? ……ああ、ずっと前にばあちゃんから聞いたことがあるよ。確か、カジノっていう遊び場だったって」
「遊び場!? 行きたい行きたい!」
「いやいや、営業していたのははるか昔らしいし、もちろん今はやってない。ガラクタしか残ってないかもね」
「でも行きたい!」
「……ちょっとのぞくだけだよ。危なかったら戻るからね。君に何かあったら、君のママにぼくがぶん殴られるんだ」
以前、マオと二人でちょっと遠くまで散歩して、興味本位でビルを探検していたら、自分たちと同じタイプの住人と鉢合わせし、身ぐるみをはがされそうになったことがある。後でクミに訊いたら、そこにはその辺りでは有名な男が住んでいるらしく、自分の住みかであるビルに入ってきた人間を、容赦なく殺すという。逆に、そのビルの外で会っても何もされない。
「勉強不足だ」
クミに拳でぶん殴られてそう言われたフィンは、どこかで拾ったメモ帳にしっかり書き残した。
元カジノのビルの前に立ったフィンは、マオの手をしっかり握りながら、辺りをしっかり観察する。誰もいない。ネズミや猫やカラスはいる。
一見しただけだと、この建物がカジノだとは分からない。看板はどこにもなく、建物の前にある広い駐車場には、周辺から持ち込まれたゴミやがれきの山が、あちこちにできている。かつては、ここがカジノだと分かるように、駐車場のあちこちに装飾やライトがあったのだが、今は金目の物を欲しがる人間たちによって持ち去られ、何一つ残っていない。
「ばあちゃんは、ずっと前に一回ここに入ったことがあるんだって。だから、カジノだって分かったみたいだ」
フィンが解説する。
「早く入ろうよ」
彼の解説などたいして聞いていないマオは、先に歩いていこうとするが、手を握られているため引き戻され、鎖でつながれている犬が主人の様子をうかがうように、フィンを見る。
「分かった分かった。慎重に行こうね」
ちょっとだけ不安そうな顔をし、フィンはマオをつれてビルの玄関をくぐった。
一階は、かつてロビーだった空間が広がっている。床には一面赤いじゅうたんが敷かれているが、今はほこりなどの汚れでくすんでいる。玄関や窓ガラスから光が入ってくるから、ロビーの真ん中あたりまではよく見える。
ロビーの真ん中には、天井から吊り下げられていたシャンデリアが床に落ちて、その破片が散らばっていた。もちろん、金属製の部品はすべて持ち去られている。
玄関から見て右手の一番奥に、ホテルのような大きな受付があり、その周辺には、破けているソファが複数配置されている。破裂したかのように中身の綿が散乱していて、ソファの中に何かないか探した輩が以前いたことを物語っていた。
フィンは、マオを連れて慎重に受付まで行き、背伸びをして職員が立っていた側をのぞきこんだ。たまにこういう死角になる所には、寝泊まりしている人や死体が横たわっていることがあって、出くわしたらとても心臓に悪いのだが、ここには何もなかった。ただ、備品が壊されたり盗まれたりしているのは変わらない。
受付の一番端に、大人一人しか通れない小さなドアがあり、そこを開けて入ってみると、受付の向こう側に行くことができた。そこからロビーを見渡すと、少し職員の気分を味わえた。
受付の中を二人で歩いていくと、また同じ大きさのドアがあり、その奥には監視室があった。営業中は防犯カメラの映像を見るための画面が壁一面にあって、AIが自動監視していたのだが、それらもなくなっている。
特に見るものもないので、ロビーに戻った。
「ねえフィン、上の階に行ってみようよ」
少し暇そうな顔をしているマオが言った。
「そうだね。その前に、他の階に何があるのか分かればいいんだけど……」
何か手がかりはないかとロビーを歩き回る。すると、エレベーターの横に建物内部の案内があった。薄汚れているが、何とか解読を試みる。
「ええっと……」
目を凝らして字を読むと、どうやら二階から十階までは娯楽施設があり、十一階から二十階までがホテルになっていたようだ。
「ううむ……」
フィンは、あごに右手を当てて考える。外観やこの案内図を見ても、とても一日で探検できる広さではない。それならば……、
「マオ、今日は二階と三階に行こうか。そこから上は、また別の日に来よう」
「うん、いいよー」
そして二人は、当然動いていないエレベーターの前を素通りし、その横にある階段を上った。
一階は窓ガラスのおかげで明るかったが、二階にはそれが一切なく、真っ暗だ。フィンは、ポケットに持っていた携帯ライトをつける。
二階は一階と同じく壁がなく、色んな遊びが同じ空間でできるようになっていた。ただそれは営業していたころの話で、大抵のものは盗まれていて、妙な空きスペースがあちこちに見られる。このフロアは広すぎて、一番奥まで光が届かないが、目の届く範囲でも、営業中のきれいな状態を維持している備品は、何一つない。
二人は、ほこりが積もるじゅうたんの上を歩く。そのたびにほこりが舞うから、かなり衛生状態は良くない。時折、かさこそと虫の動く音が遠くから聞こえるし、ライトに照らされたネズミの目が光るのが見えると、さすがにマオは強張り、フィンの手を強く握った。
巡回を続けると、スロット台が設置されていた空きスペース、ルーレットが置かれていたところ、転がっているダーツの矢を見つけた。矢は何かに使えるかも、と思い、彼はポケットにしまう。
「テーブルがあるよ」
マオは、ぐいぐいと彼の手を引っ張り、指さした。
「トランプのゲームをやるテーブルだね。トランプが残っていればいいんだけど……」
フィンは手をつなぎながら、テーブルの下を探す。すると、
「あった!」
彼はつい叫んだ。テーブルの下に、数十枚のトランプが散乱しているのだ。
「本当に?」
興味津々といった様子で、フィンの手元をのぞく。ライトに照らされた彼の手は、トランプをかき集めているところだった。
「ちゃんとそろってるかな……」
あまり期待は高くなかったが、幸いなことにすべてのカードが残っていた。
「何かゲームしようか」
彼が提案する。
「ゲーム? トランプのゲームって、あたし知らなーい」
マオは口をとがらせる。
「教えてあげるよ。ババ抜きをやろう」
まだ幼いころに彼は、ばあちゃんとトランプで遊んでいたことがあるのだが、いつの間にか無くしてしまっていた。
ルールをマオに説明し、
「マオ、何か賭けないか」
いたずらっ子のようにニヤッと笑ったフィンに、
「賭けるって? なんで? どういうこと?」
彼女は首をかしげる。
「ここはカジノだからね。そういう遊び方をする場所なんだ。例えば、ぼくが負けたら、君の頭をなでなでするとか、ね」
「勝ったらなんでも命令していいってことだね!」
マオはクスクスと笑いだし、何がいいか考え始める。そして、
「あたしが勝ったら、帰りにお姫様だっこして」
彼女の顔が少し熱くなる。
「……ほう、面白い。じゃあ、ぼくが勝ったら――」
彼が言う前にマオが、
「あたしのほっぺたにチュウさせてあげる。ママとばあちゃんが、寝る前にやってくれるやつ」
確かに、マオが布団に入ったとき、二人は彼女の頬に軽くキスしているが、フィンは恥ずかしいからやっていない。
「えー、それってどっちもマオが喜ぶやつだよね?」
「いいからやるの!」
そう言って、マオはトランプ一式を彼に手渡す。
「仕方ないなぁ」
苦笑しながらも、彼はカードを切り始める。
こうして、フロアの一角で真っ暗な中、ライトの明かりだけで二人はゲームを始めた。
ちなみに、ゲームに勝ったのはマオで、帰りは約束通りお姫様だっこだったのだが、
「チュウもして!」
と、まるで本物のお姫様のようにわがままを言い、結局だっこされながらほっぺたにキスさせたのだった。
9へ続きます。




