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第七十六話:マオの母親⑦

 これまでの人生で、クミにとって子どもは、未熟でうるさくて関わりたくない存在だと思っていた。


 以前表通りで、裕福そうな両親に連れられて歩く子どもを見かけたが、あれ買ってこれ欲しい、とわめいていて、なんて自分勝手なんだろう、と顔をしかめたものだ。


 だが、彼女は一週間前に女の子を産んだ。自分が苦労して産んだからなのか、あるいは人間という動物に備わっている本能なのかは判断できていないが、クミはこの子を愛おしいと感じている。今は彼女の乳を飲み終わって、彼女に抱かれながら寝ていて、意識はないはずなのに、母親が何となく出した人差し指を小さな手で握っていた。赤ん坊の手は温かくて柔らかく、クミは初めて小さき者の体温を肌で感じていた。


 わが子を大事そうに抱きながら、二か月ほど前にフィンがどこからか持ってきた布団に座っているクミを見て、


「あんた、疲れていないかい? 私が代わりに抱いてあげるよ」


 すぐ隣に敷いてある布団に座りながら、ばあちゃんはクミと赤ん坊の顔を交互に見比べる。


「いや、あたしが抱いてるから大丈夫だ。気持ちだけ受け取る」


 クミはそっと目を閉じた。まだ子育ては始まったばかりだというのに、ひどく疲れる。だから今は昼間だというのに、眠たくて仕方がない。でも、子どもはあまり手放したくない。


 今までは自分一人だけのことを気にすれば良かったが、子どもができてからは自然と、そうはいかなくなった。フィンとばあちゃんが手伝ってくれるから、何とかやれている。


 それに、妊娠が発覚した時、産んだ子どもを売る、などと言っていたクミだが、初めての子育てに翻弄されているうちに、そんな気持ちはなくなってしまっていた。


 フィンとばあちゃんも、クミのその様子に、わが子を売る暴挙に出るのでは、という心配はしなくなった。彼女の口調はあいかわらず荒いが、その奥に見える心はだいぶ優しくなった、と二人は感じている。二人がクミの手助けをした時、彼女は「ありがとう」とお礼を言うようになったからだ。


 季節はすっかり冬になったが、今日は日差しが部屋の奥まで差しこんできて温かい。クミと赤ん坊は、その光を浴びながら、ゆっくりとひと眠りした。


 ばあちゃんは、二人のその様子を見てほほえましく思い、小さく笑みを浮かべ、布団で横になり、昼寝を楽しんだ。




 フィンが帰ってきたのは、夕方のことだった。右手に食料、左手にたき火用の枝と材木を持っている。


「お疲れ」


 ばあちゃんよりも先に、クミが彼にねぎらいの言葉をかけた。


「ありがとうございます。クミさん、赤ちゃんは大丈夫ですか」


 廃ビルの一角という、おせじにもきれいとは言えない環境で子どもを育てているから、彼はその子の健康状況が気になるのだ。


 ちなみに、クミは二週間くらい前に、自分の名前を二人に教えた。今さら、名前を隠している必要はない、と思ったからだ。


「ああ、さっきまで寝てたが、今は起きてる。……おおっと! 泣き出したぞ。ばあちゃん、何で泣いてるんだ」


 赤ん坊は何かを催促しているような気がするのだが、クミにはさっぱり分からない。


 ばあちゃんが近寄ってきて、子どものオムツが濡れていないことを確認すると、


「お腹が空いてるんじゃないかね。乳をあげてみたらどうだい」


 そう提案する。


「なるほど。わかった。ちょっと持っていてくれ」


 クミはいったんばあちゃんに子どもを抱かせると、上着を脱ぎ始める。


「え、あ、ぼくは外に出てます!」


 少し顔を赤らめて、荷物を置いて部屋を出ようとするフィンだが、


「いや、いい。そっち向いていれば。たき火に枝を追加してくれ」


 クミは胸を出してばあちゃんから赤ん坊を受け取りながら、そう言った。


「わ、分かりました」


 絶対にクミの方を見ないようにしながら、彼は部屋の真ん中にあるたき火に、今持ってきた枝を放り投げる。煙は、天井のあちこちに開いている穴から出ていくため、部屋は煙たくならない。その代り、外の冷気が入ってきて寒くなるため、四人とも多く着こんでいる。




 赤ん坊の後は、三人が食事をする番だ。子どもを布で何重にもくるんで布団の上で寝かせ、クミは少し肩の力を抜き、ハムがはさまれたパンを豪快にほおばった。


「ところで、その子の名前は考えましたか」


 フィンがコップの水を一口飲んだ後、クミに尋ねた。


 彼女は首を横に振り、


「あたしは学がないからな。大した言葉が浮かばなくて困ってるんだ」


 乾いた笑い声で、少しみじめな様子で答える。

 

 と、ばあちゃんが提案する。


「何かあるのか」


 子育てに関してはばあちゃんは結構助けてくれてるから、名前の候補を考える権利はある、とクミは思っていた。


「マオ、というのはどうかな。私が生まれ育った遠い国の言葉なんだが、この国の言葉では、『猫』という意味だ」

「なんで猫?」


 と、クミが訊く。


「猫のように自由にのびのびと育ってほしい、と私は思うが、名前に込めた意味は、親が考えるべきじゃないか?」


 自由に、とクミはつぶやきながら、頭の中でその言葉を思い浮かべる。


 せっかく生まれてきたのだから、こんな汚くて寒いところではなく、のびのびと過ごせるところで生きてほしい。クミはそう思った。


「よし、決めた。この子の名前は、マオだ」


 寝ているところを起こさないよう、静かにクミは宣言した。


8へ続きます。

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