第七十六話:マオの母親⑥
クミは、フィンを連れながら五キロほど歩いた。
「なんでこんなに離れるんですか」
とフィンが尋ねると、
「あほか。毎日場所変えねぇと、誰かに顔を覚えられるかもしれないだろうが」
吐き捨てるように答え、早足で進んでいく。ちゃんと彼がついてこれているか、など確認しようとしない。これくらい歩けないと話にならない、と彼女は思っていた。
やがて、ある場所でクミは立ち止まり、角からその道の先を慎重にうかがう。この角を右に曲がって歩いていくと、住民票を持った人たちが歩く表通りにぶつかる。
「おい、表通りをよく見ろ」
彼女はフィンの首根っこをつかみ、向こうをのぞかせた。
「女か子どもを選んで、こっちに連れてこい。あたしがこの角に隠れて、奇襲する」
「女の人か子ども、ですか……。そういう人たちに乱暴するのは、気が進まないんですが……」
「お前は甘いな。いつまでも万引きだけでやっていけると思うな」
「……え、なんで万引きばかりしてると分かるんですか」
「ばあちゃんから聞いたぞ。よく女の人を助けてるんだってな。そんな奴が、女子どもを相手にできるとは思えないだろ」
「ま、まあ確かにそうです。……この街で生きる術を教えてくれ、と頼んだのはぼくですし、なんとかがんばりますよ」
なら行け、とクミは乱暴に彼の背中を押し、彼は危うく転びそうになる。
フィンは、ゴクリと生唾を飲み、緊張した面持ちで表通りに出た。
クミとフィンが知る由もないが、今日は平日で、そのため、このショッピングストリートを歩いている人の姿はまばらだ。商品を納品するロボットや掃除ロボットも、所々に見られるが、数は多くない。目撃者も少なくなるから、二人の仕事には好都合だと言える。防犯カメラの設置はあまり進んでいなく、この辺りを映すものはない。クミはカメラに映されないこの場所のことを知っていたのだった。
自分たちが住んでいるアジトを出るとき、クミから一番きれいな服に着替えろ、と指示を受けていた。表を歩いて怪しまれない格好をするためだった。その前にしっかり体を洗うようにも言われた。
少しの間、どの店に入ろうか悩んでいるふりをしながら物色していると、ちょうど良さそうな女の人が現れた。三十代前半の人間の女性で、ビジネススーツを着ている。彼女はキャシーという名前のコンサルタントで、お店を出したい、という顧客のために、周辺調査をしていた。だから、彼女はキョロキョロと観察している。
「すみません」
前方から歩いてきたフィンに、キャシーは声をかけられた。
「え、えっと、何……?」
この地区に知り合いはいないから、まさか話しかけられると思っていなかった彼女は、左腕で胸を隠す体勢をし、身構える。そして、目の前の少年を見る。街に住んでいるどこにでもいそうな男の子。キャシーはそう感じた。
「あの、こ、この先で、クミさ……お姉ちゃんがお腹を押さえてうずくまってるんです。『子どもが生まれそう』って言ってました。ぼくにはどうしたらいいか分からないので、来てもらえませんか」
フィンの演技はキャシーに、切羽詰まった様子で助けを求める年下の男の子、という印象を与えた。実は彼女は出産経験があり、
「……分かったわ。案内して。容態を見たらすぐに病院に連絡を入れるわね」
疑うことなく、フィンに連れられて、人一人がやっと通れるほどの幅しかない裏通りへと足を踏み入れた。そして、角まで歩いた時、陰から飛び出してきたクミに羽交い絞めにされた。
「キャッ!」
キャシーが悲鳴をあげたので、
「おい、この女の口をふさげ。タオルは持ってきてるな。それを口に噛ませるんだ」
クミに言われたようにしたフィンは、申し訳なさそうにうつむく。
「よし、いいぞ。あたしがこのままこいつを押さえてるから、懐を探って金目の物を出せ」
「え、懐なんて触ったら、む、胸に触れちゃうかもしれませんよ……」
耳が赤く染まり始めたフィンを見て、
「バカかよ! あたしらはすでに犯罪者だ。今さら、そんなくだらないこと気にすんな」
他の女の胸になんか興味はないクミは、早くしろ、と彼に低い声で脅すように言った。
「失礼します……」
おっかなびっくりといった様子で、フィンは慎重に、キャシーのビジネススーツの上着の裏に、右手を差しこむ。
その瞬間キャシーは、ビクッと魚のように体を震わせる。顔はかなり強張っていて、全身から冷や汗が吹き出ていた。
「これで全部です」
懐から出した携帯端末と財布を、彼はクミに見せる。
「まあ、こんなものか。あたしのズボンのポケットに縄が入ってるから、それでこいつの手足を縛れ。こいつが動けない間に、あたしらは逃げる。いいな」
はい、とか細い声で答えた彼は、指示通りに行い、キャシーを地面に転がした。
そして、財布の中身を確認しようとしたフィンだが、
「そんなのは後にしろ。今はここを離れる」
彼の耳元でそう言ったクミは、財布と端末を持った彼の手首をしっかり握り、アジトの方へと走る。
二人が去った後、高い廃ビルに囲まれた裏通りに放置されたキャシーは、
「……え?」
まさかこれはスリというやつか……? と、今起きたことに現実味を感じていなかった。
何しろ彼女はこれまでずっと治安のいいところで生きていたから、犯罪に出くわすことがなかった。窃盗なんて、ニュースかドラマの中での出来事だと思っていた。
自分が当事者になるとは……。彼女は放心状態になり、通行人が駆け寄って助けに来るまでの約三十分間、息絶えたいもむしのように、転がっていたのだった。
アジトに帰った後、二人は財布の中身を見る。この国ならどこでも使える紙幣が数枚と、電子決済ができるカードが一枚入っているだけだった。キャシーはあまり現金を持ち歩かない主義だった。
「カードか……。セキュリティが高くて、あたしらじゃ使えないな」
クミは肩を落とす。そして、ばあちゃんが出してくれたコップの水を、ぐいっと一気に飲み干した。
「そっちはどうだ」
地べたに座りながらキャシーの携帯端末をいじっているフィンの横に立ち、クミはそれをのぞきこむ。
「端末自体にパスワードはかかってません。……あ、でも連絡先はちゃんとパスワードでロックされてますね。あとは……、撮った写真は見れます」
大人の女性のプライベートをのぞくのは、少し気が引けるが、彼だってネズミのようにこそこそ生きている人間だから、何か有益なものを探すのに必死なのだ。
キャシーは、ほぼ自分の子どもの写真ばかりを撮っていた。一番新しいのは、五歳くらいの男の子がパフェをおいしそうに食べているところだ。場所はレストラン。
画面をスクロールして時間をさかのぼると、男の子の年齢がだんだん下がっていく。そして、一番古いほうの写真の中に、生まれたての赤ん坊がいた。
この端末を誰が見ても、男の子は愛されていることが分かる。
「…………」
その写真を撮る母親の様子が目に浮かんでいたクミは、黙ってそれから視線をそらした。
さっきまで仕事していた間、自分が妊娠していることを忘れていたが、これから母親になるかもしれない、と想像が膨らむ。写真の中の男の子のように、笑顔がまぶしい子が生まれてくるのだろうか。
慌ててクミは、その想像を振り払うかのように首を何回か振った。まともに出産できるか分からないし、すぐに死なせるかもしれない。
希望なんて持たないほうがいい。それが絶たれたとき、とても傷つくのだから。
結局、写真の中に、金目になりそうな情報はなく、現金だけを懐にしまって、カードは真っ二つに折って捨てた。財布は、後日きれいな格好をさせたフィンに、表通りにあるお店に行かせて、お金に換えさせた。
その後、お腹の大きくなったクミは、自ら仕事をするのをやめ、やり方だけアジトで指導するようになった。
やがて彼女は、フィンのばあちゃんに助けてもらいながら、元気な女の子を出産した。
7へ続きます。




