第七十六話:マオの母親③
少年が住んでいるのも、空きビルの一室だった。ただ、そこは一階だった。そのことをクミは少年へ問いただした。
「ああ、ばあちゃんの足が悪くて階段を上り下りできないからですよ」
彼は淡々と答えた。
ノックして彼は入室した。
二人が住んでいる部屋は、コンクリートの壁で囲まれ、何か所も穴の開いたガラス窓、そして生きるのに最低限の物しかない、とても質素な部屋だ。
ばあちゃんは、昔少年がどこからか持ってきた布団の上で仰向けになって寝ていた。顔は血の気がなく、少しやせている。暑い季節だというのに、生地の厚い長そでの上着とズボンを着ていて、ピクリとも動かない。
もう死んでるんじゃないか、とクミは思ったのだが、
「誰さ、そいつは」
孫以外の存在を目をつむりながらも感じ取ったばあちゃんは、顔だけクミへ向けて鋭い眼光を放った。
「ぼくが助けたの。今日から一緒に住むんだ。いいでしょ」
少年は誇らしげに、クミを紹介する。
「そうかい。フィンが決めたのなら、私はいいよ」
すべての決定権を彼にゆだねているばあちゃんは、落ち着いた様子で、顔を天井に向けて目を閉じた。華奢な胸が緩く上下し始める。
ずいぶん警戒心が薄いな、とクミは思った。自分以外は信用できないと彼女は今まで思っていたが、この二人はそう思っていないようだ、と気づいた。
あたしなんて、大した人間じゃないのに。
そんなことを考えていると、
「食事にしましょうか。さっきの魚肉ソーセージです。どうぞ」
フィンと呼ばれた少年は、クミに一本差し出した。あまり腹も膨れないが、カロリーが高いからマシな食べ物だ。
「……」
彼女は黙って受け取ると、袋を破いて中身をあっという間に食べた。
「人から何かもらったら、何か言うことありませんでしたっけ」
フィンはニヤリと笑いながら、部屋の隅のバケツにためていた雨水を、ボロボロのプラスチックのコップにくんで、彼女に渡す。
「あ、ありがとう……」
くだらん、と言いたくなったが、それを引っ込めて水をもらって飲んだ。
食事が終わってクミがコンクリートの床にあぐらで座っていると、
「ねえ、これでぼくたちは、一緒に暮らす仲間になったわけですね」
すっかりリラックスした表情のフィンは、彼女のすぐそばに腰を下ろした。
「お前のこと信用したわけじゃないからな」
視線を合わせず、クミは独り言のように言う。
「いいですよ。ぼくが勝手に信用するだけなので。ぼくの行動を見てもらえれば、いずれ分かります。……あ、そういえば、名前まだ聞いてませんでしたね。なんていうんですか?」
彼女は、一瞬キョトンとしたが、すぐに鼻を鳴らした。
「名前なんて聞いてどうする」
「だって、仲間の名前を知らないなんておかしいでしょ?」
フィンは、フフッと笑みを浮かべる。
「どうせそのうち他人同士に戻るんだ。名前なんて知る必要はない」
まとわりつく虫を避けるように、クミはそっぽを向いた。
時間がかかりそうだな。
窓越しから外をぼうっと見始めたクミに対して、そんなことを感じた彼は、一つ試してみることにした。
「ぼくは晩御飯を盗りに行ってきます。あなたはその間、ここでばあちゃんの話し相手になってあげてください。頼みましたよ」
「なんでそんなことを」
思いもしなかった依頼に、クミは彼のほうを向いて少しいらだった声で聞く。
「あなたはさっきぼくを取り押さえた時、骨の一本も折らずにしてくれました。それって、ぼくに配慮してくれたからですよね。信用に値すると思います」
微笑みを浮かべながら、彼は答えた。
「フン、ガキを必要以上に痛めつけるのは趣味じゃねぇだけだ」
クミは再び、窓から外を眺める。
4へ続きます。




