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第七十六話:マオの母親①

 早朝、小鳥の鳴く声で、クミはベッドの上で目を覚ました。


 ここは、廃ビルの三階にある、クミの部屋だ。部屋と言っても、壁はコンクリートがむきだしで、窓ガラスはあちこちヒビが入り、ゴミが散らかり、私物はあまりなく、ベッドもゴミ捨て場から拾ってきた布団を、たまたま見つけた金属製の枠の上に載せてあるだけの、とても簡素なものだった。


 昨夜、この上で一緒に過ごした名も知らぬ男は、すでに部屋を出たようで、入り口の木製のドアが、半分ほど開けっ放しになっていた。


 彼女は部屋を見回す。自分が寝ている間に何か盗まれていないか、と思ったのだが、特に持っていかれてはいないようだ。ほぼすべてがどこかで拾ったか盗んだ物だから、たとえなくなっていたとしても、金銭的被害はない。でも、一度手に入れたら、もう自分の物だ、というのがクミの考えだから、何かなくなっていたら、すぐに奴を追いかけるつもりだ。


 むしろ、物が増えていた。枕元に封筒が置かれていて、中身を確認すると、一番価値のある紙幣が十枚入っていた。


 たまたま街で声をかけて、昨夜の行為について取引を交わしただけであったが、きちんと約束通りの額を置いていったところを見ると、遊びほうけているような風貌でも、彼の性格は律儀だったらしい。


 それに気づくと、クミは「クックックッ」と小さく笑った。


 自分はもう誇れるような仕事はできないが、世の中の人間はまだ捨てたものではないようだ。


 それを考えると、笑い声の中に、自分のみじめさが混じる。


 朝日が差しこみだした窓の前に、彼女は一糸まとわぬ姿で立った。どうせ、周りの建物はすべて廃ビルで誰もいないから、問題ない。


 日の光が、鎖骨、それほど大きくない胸の谷間、胸の下部に影をつくる。へそにもわずかに影が落ちているが、下腹部から下は、窓枠にさえぎられ、光は当たっていない。光を受けている若々しい肌全体が、みずみずしく輝いていた。


 あたしの生き方はこれだ。


 クミは、それしか道はない、と感じながら、今まで生きていた。そして、これからもそうだろう。


 彼女は、華奢で臆病な若い男から、夜の路地裏でひん剥いて手に入れた灰色の作業着上下を着ると、食料を盗みに外へ出かけた。




 しばらく日にちが経ったある日、自分が妊娠していることに気づいた。


 まずい。失敗したようだ。誰との子だろう。彼女は考えたが、分かったとしても、この大きな街から一人の男を見つけ出すなど、無理だ。


 おろしたいが、金は飲み食いと高揚感を得られる薬に使ったから、余裕はない。産むか、自然に流れるのを待つしかない。


 子どもを育てる環境にないし、産んだらすぐ捨てよう。子どもを連れたまま仕事や盗みなどできるわけがない、と考えた。赤ん坊は売れるんだろうか、とまで考えていた。




 お腹が出てきたころも、クミは相変わらず盗みを続けていた。


 自分が根城にしている廃ビルのある付近は、最近の暑さでゴミや小動物の死骸の臭いが立ち込めているが、彼女が今いるのは煌びやかで綺麗な街。どこでやろうと物色しているわけだが、ずっといると、吐き気がしてくる。


 こんなところは、自分の居場所ではない。みんなオシャレしていて、休日の昼間、人間とロボットが一緒に楽しく歩いて談笑している。人とロボットの比率は、半々ほど。


 人類は、ロボットに滅ぼされそうになったのではなかったか。なぜ一緒にいられる。人口が自然に減るくらい、暮らしにくい世界ではないのか。なぜこんなにも人間が集まっている。


 実際は、この街が人とロボットの共存を目的としたモデル地区の一つに指定されていて、数々の優遇を受けられることから、国中から人が集まってきているのだが、そんなことクミが知るはずもない。


 戸籍も住民票も持たない彼女は、この街にとって存在しない人であり、優遇なんて提供されない。


 犯罪を犯せば捕まるのは同じだが、きちんと住民票を持つ人は、軽犯罪であれば金を積んで保釈される制度が適用されるのに対し、クミみたいな人間は、即刻路上での労働奉仕に駆り出される。


 誰か、自分を認めてほしい。この世にいてもいい、と言ってくれる人に出会いたい。


 心の奥深くではそんなことを考えていても、それを発信することはできていないし、周りを歩く人やロボットは、「ネズミ」が何を思っているのか想像する必要はない、と見て見ぬふりをしている。




 小さな食料品店の前を歩いていた時だった、突然出口のドアがけたたましい音を立てて開き、少年があわてた様子で飛び出してきた。


 十二歳ほどで、服は大人用のかなり大きめの半袖と薄い生地の長ズボン、髪は汚れている。右手には、魚肉ソーセージを三本持っていた。


「待てコラー!」


 すぐに、店員の格好をした人間の男も、路上に出てきた。とても太っていて体が重いため、走っていく少年を自分で追いかけるのは、早々に諦めた。


 クミは、その店員が飛び出してきたとき、肩がぶつかっていた。彼女がよろけて倒れたものの、男は少年の後ろ姿を見ていて、こちらに目もくれていない。


 はあ、とため息をついた後、彼は自分の肩が痛むことに気づき、ようやくクミの方を見た。


「おいお前」


 汚らしいものを見る目を、男は向ける。「あのガキを捕まえろ。前金はこれだ。捕まえてきたら、もう一枚やる」


 彼は、二番目に価値の高いお札を懐から出し、彼女の前に落とした。


 クミは、他の誰にも渡すまいとすばやくそれをかすめ取り、立ち上がってズボンのポケットにしまい、男をにらんだ。


「…………」


 彼にとって大した額でなくても、彼女にとっては大金だ。


 また、この女が金のためなら言うことを聞きそうだ、ということを、店員の男は彼女のみすぼらしい格好から分かった。


 そしてクミは、ちょっとだけ見えている少年の背中を追いかけ始めた。


2へ続きます。

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