第七十六話:マオの母親⓪
マオなんて、死んでしまえばいいのに。
爆弾や砲撃によってがれきの山と化した、かつてのビル街を、マオという名前の娘を背に抱えながら、二十代後半の女性が歩いていた。
女性の格好は、薄い生地の白い半袖と、紺色のジャージのズボン姿。しかし、半袖は砂ぼこりや泥で黄土色に変色し、ズボンはあちこちに穴が開いている。下着は昨日、たき火をおこすのに使ってしまったため、上も下も身に着けていない。背中まで伸びる黒い髪の毛は、ちりやほこりでかなり汚れている。
マオの母親は、はだしだ。昨日までは履いていたのだが、元々ゴミ捨て場でそれを拾った時点でボロボロだったため、歩いたり走ったりしているうちに、ただのゴムと布の塊となった。凹凸のあるがれきをたくさん踏まなくてはいけないから、両足の裏からは、歩くたびに血がにじみ、痛みが走って、顔をしかめる。
日は完全に落ちているが、空には三日月がのぼっていて、視界はそれほど悪くない。気温は二十度ほどで風はほとんど吹いておらず、本来なら過ごしやすい条件だが、彼女とマオは昨日の朝から何も食事ができていないため、体温が上がらず、体を震わせていた。お互いのわずかな体温を分け合っていた。
グー、とマオのお腹の鳴る音が聞こえた。それは昨日からずっと聞こえてきていて、通りかかったところにあった池の水をたらふく飲ませても、鳴りやむことはない。
「お腹空いた……」
蚊の羽音のように弱々しい声で、マオは訴える。
「…………」
食料など母親は持っておらず、何もできぬまま歩き続ける。
「お腹……」
「…………」
「お腹……」
自分も空腹をがまんしていてイライラしてきていたが、マオがあまりにしつこいので、
「うるさい!」
夜のがれきの山の間を、悲鳴のような母親の声が響いた。
自分の背中で、マオがビクッと体を大きく震わせたのが分かり、グスッグスッと小さな泣き声がし始めた。
彼女は娘を地面へ下ろし、身長も体重も平均より全然足りないその幼い子どもを見つめる。
ぼろきれのような、とっても薄くてあちこち破けている服が、風で少しはだけると、かなり浮き出た肋骨が見える。この年の子なら、ほっぺたはふっくらして温かいはずだが、この子どもは、肉は削げ落ち、青い血管が目立ってしまっていた。
母親は、やせこけた自分の腕や足をちらっと見る。自分の食料もないのに、子どもなど、これ以上面倒を見られるのだろうか。
もしここでマオが死んでくれたら、どれだけ助かることか。
心に余裕がなくなっている彼女は、そのことを強く考えるようになっていた。ただ、どうやったら娘が死んでくれるのか、それすら思い浮かばず、惰性でここまで連れてきている。
すると、突然遠くから小さく、がれきを踏みしめる音が聞こえた。
母親は少し姿勢を低くし、音のした方を見る。
頭にライトをつけて見回りをしている、人型の作業用ロボットが、月明かりに照らされていた。この辺りでは、治安維持のため、ときどき警察に委託されたロボットが巡回にやってくる。
彼女は、再びマオをすばやくおんぶし、がれきの山の陰に隠れながら、ロボットとの距離をとるため歩く。
マオをまた連れ始めたのは、本能だった。いなくなってほしいと願っていたはずなのに、勝手に体が動いた。
そのロボットが人間を見つけると、すぐに犯罪者データベースと照合し、疑いがある者は拘束される。
母親は、指名手配されていた。容疑は、窃盗と強盗と殺人。すべて、食料を手に入れるための行動だった。捕まれば、死刑は免れないだろう、と彼女は考えていた。
やがて、ロボットは二人から遠ざかっていった。気力を一気に使った母親は、その場に座りこむ。彼女の緊張感を背中越しに感じていたマオは、一切口を開いていないが、心臓は激しく動いていた。
彼女が目指していた場所は、がれきの山を通り抜けた先にあるという、とても大きな街だ。あそこには綺麗なお店と共に、ホームレスの住みかとなる空きビルがたくさんある。そこならば、他の人やロボットに紛れて暮らせるだろう。しかし、このがれき地帯ははるか先まで続いていて、たとえ車があっても街へ着くにはかなりの時間がかかる。
そんなことを知らない二人は、夜中の間移動し続けた。
1へ続きます。




