第六十九話:牛の楽園⑥
その日の晩餐は、牛乳をたっぷり使ったスープやパン、牛のステーキで、マオは大満足の様子だった。
「年をとった牛は、あんな風にしてあたしたちがいただくようにしてるのさ」
食後、アメリーはユキにこっそり教えてくれた。
マオとユキがお風呂から上がって客間でくつろいでいると、
「お二人さん、明日帰る予定なんだろ?」
部屋着に戻ったアメリーが、ドアを開けて入ってきた。
「ええ、そうですが」
何かあったのだろうか、とユキは思った。
「外は、今夜遅くから大雨になる。災害級だそうだ。だから、もう一日ここにいるべきだと思う」
その言葉に、ユキとマオは顔を合わせる。
雨の予報があったことは、ユキも事前に知っていた。でも、たいした量ではないと三日前にラジオで報じていた気がする。
「この地域は天気が変わりやすいんだよ。予報もころころ変わる。まあ心配するな。この街にいれば大丈夫だから。それに、外が落ち着くまで仕事もあげるよ」
アメリーがニカッと歯を出して笑った。
「それじゃ、そうします。よろしくお願いします」
ユキは会釈し、話はそれで終了した。
夜十時半ごろ、二人は就寝した。
同じ日、二十四時ごろ、二人の男が牧場の隣にある倉庫に侵入していた。
「ぼくにかかれば、セキュリティなんてかんたんに解除できます」
牧場主の青年が、防犯システムの電源を切り、ドアを開けることに成功した。
「し、しかし、さすがに盗むのは……」
所長の男は、この作戦に乗り気ではない。まだ善人の心が多少残っている。
「あのガンコなお嬢ちゃんが悪いんですよ。我々が少しくらい儲けても罰は当たりませんって」
倉庫の一番奥にはハイテクな冷凍庫があり、そこにも本来セキュリティがかかっていたが、すでに遠隔で解除されている。
青年はそれを開けると、中から牛の精子と卵子が入った容器を取り出し、彼が持っている専用のボックスに仕舞った。
手慣れた手つきで成し遂げ、彼は所長に外へ出るようジェスチャーする。
二人は、この街へ来るときに使った車に急いで乗り込むと、周辺住民にバレないよう、静かに車を走らせ、外の世界への出口へ向かった。
夜中の一時ごろ、街の中心部に設置されているスピーカーから大きなサイレンが鳴り響き、ユキとマオはあわてて飛び起きた。
「ん、何かあったのお姉ちゃん……」
けたたましい警報音に、マオは不安げに姉のパジャマの袖をつかむ。
「アメリーさんのところへ行くわよ」
ユキは寝ていたままの格好で、マオの手を引っ張って部屋を出て、アメリーさんの寝室へ駆けた。
二人が二階へ上がった時、彼女の寝室のドアは開いていた。暗い廊下に、部屋からの明かりがのびていて、中からアメリーがどこかへ電話をかけている声が聞こえる。
「何があったんですか」
緊張した声で、ユキはマオと一緒に寝室へ入った。
アメリーは、ベッドに腰掛けて部屋着の状態で端末を耳に当てていた。とてもおびえた表情で、興奮した声で相手と状況の確認をしている。
彼女は二人が部屋に入ってきたことに気づいて、ユキたちをちらっと見たものの、すぐに視線を戻して会話をつづけた。
それから一分ほどして、アメリーは電話を終えた。
「ユキ、マオ。急いで逃げるぞ。着替えてる暇はない。荷物も置いていけ。レッカーに乗って、街の奥へ走れ」
アメリーは早口で叫ぶように言って立ち上がり、二人の手を強く握って走り、玄関を目指す。
走りながら、
「昨日のアホな男二人が、街の出入り口のセキュリティを破って、勝手に開けて外に出ようとしやがった。外は大雨洪水なのに。防犯カメラに映ってた。たぶん、あたしの倉庫から何か盗んだんだろう。街に向かって大量の水が流れ込んできてる。防災壁と排水システムが起動したが、それらが制御しきれないほどの水で、壁が一枚破られた。二枚目も危ないらしい。街の一番奥には、シェルターがあるから、そこに入れ。みんな向かってるから分かるはずだ」
「そんな……」
ユキはそれ以上言葉が出なかった。
三人は靴を履き、外へ出た。出入り口の方を見ると、巨大な白い壁が牧場地区の真ん中あたりの地面から天井まで伸びていて、水が入ってくるのをかろうじて防いでいた。
「今見えてる壁が、二枚目なんだ……」
独り言のようにアメリーは小さくつぶやく。そして、牧場の方へ全力で走っていった。
「どこへ行くんですか!」
ユキは、遠くなっていく背中に大声で必死に呼びかける。彼女がいなくなれば報酬が支払われないことは確かだが、さすがにそれしか考えていないほど非情ではないため、純粋に彼女のことが心配なのだ。
「牛舎の鍵を開けるんだよ! そうしたら牛は自分で逃げられる。トラックに載せる暇はないからな。少しでも生き残らせるんだ。君たちは先に行け!」
振り返ってそう言い残すと、ユキの「気をつけて……」の言葉を聞くことなく行ってしまった。
アメリーの家の前では、レッカーがすでにエンジンをつけて待機していた。
「話は後でするわ。街の奥に向かって急いで」
マオを突き飛ばすように助手席に乗せ、自分も乗り込んでドアを閉める。その瞬間、レッカーは猛スピードで走り出した。
〈おっと〉
レッカーは少しスピードを緩めた。周辺住民も自家用車で避難していて、渋滞はしていないが全力では走れない。
街の一番奥に到着すると、前に走っている車たちが次々とさらに地下へ降りる入口へ入っていくのが見えた。その先がシェルターだ。
シェルターの入り口に突入すると、少しの間金属の壁のトンネルを下った。そして、だだっ広い地下空間にたどり着く。
その中も、トンネルと同様に金属の壁で囲まれていて、数十万人の人間が収容できそうな広さだが、街の人口はそこまで多くないため、車や牛も避難してくることが前提に造られたのだろう。
シェルターの中には数多くの車や家畜の姿があり、人間やロボットが歩き回ってけが人がいないか確認していた。腰が抜けて座りこんでいる者や、逃げてくるときに転んで頭を打ち、寝かされている者もいる。
この空間の一番奥には地上への脱出口があり、洪水の被害が及ばない高所へ出るようになっているという。ただ、実際に使われたことは、この街ができて以来ない。
横から息切れの音がしたので見ると、全力疾走したように息を吸っている。あまりの恐怖に過呼吸をおこしていた。
ユキはシートベルトを外してマオの隣に座り、膝枕で寝かせて落ち着かせようとする。
彼女は、妹の看病をしながら、ウインドー越しにシェルターの出入り口を見つめた。
アメリーさんはもう来ただろうか。自分たちが避難できた今、それが心配だ。
7へ続きます。次がラスト。




