第五話:子どもだまし①
事務所のドアを叩こうとした時、中から中年男の怒鳴り声が聞こえた。
「そんなわけあるか!」
ユキは一瞬肩が跳ねる。声だけで相手を押し倒すことが出来そうだ。ドアに触れていた拳を下ろし、中で一体何が起きているのか、耳をドアにくっつけてうかがった。
「ですから、先ほどからご説明させていただいている通り、この金属の値段はこのような相場となっているのです」
事務所の人間は、若い男のようだ。少し面倒くさそうなため息をした。紙の擦れ合う音がしたから、資料を使って話しをしているのだろう。
「俺もさっきから何回も言ってるだろう。いつもお世話になっている業者は、もっと高く買ってくれるんだ。国中に展開してる企業で、信頼できる。こんな値段ありえねえよ」
若い男に負けじと、中年男は大げさにため息をつく。いつからこんな調子なのだろうか。きっと事務所の中は、ため息で濁った空気でいっぱいに違いない。
「しかしですね、お客様。私どもはこの業界においてまだ新参者ですが、ある会社社長からの指導を受けており何から何まで熟知しております。従いまして、このお値段は適切な判断の下付けられたものであります」
「そうかい、そうかい。そんなら、その社長とやらに言っときな。算数と社会ぐらい教えろって。計算と世相は最低限な知識らしいですよってな」
「………………」
「俺はな、いつも取引してる事務所を経営する企業が、この街のある支店に盗品が持ち込まれていたことが判明したとかで臨時休業したものだから、仕方なくここへ来たんだ。その辺は理解してくれよ」
どうやらアテが外れたようだ。はてしない草原を越えてこの地方都市に着いて、ようやく営業している業者を見つけたというのに。
おそらく中で怒鳴り散らしている中年男も、ユキと同業者なのだろう。ここは救いの手を差し伸べるべきなのではないだろうか。ノックせずにドアを開ける。
中はこじんまりとしていた。狭いスペースを最大限に使い、デスクが並んでいる。壁は所々塗装が剥げていて、床も欠けている所があちらこちらにある。直す余裕がないのか、あるいはワザとこうしているのかは分からない。
奥に進んだ所には、こちら側に向けて置かれているデスクがある。それは他のよりも一回り大きい。どうやら社長のものらしい。
男二人はそこにいた。若い男がイスに座っていて、中年男はその前に丸イスを置いて座っている。人影はそれだけだ。二人とも、ユキが入ってくるのに気付き、タイミングを合わせたかのように振り向いた。
ユキは無言で二人の下まで歩いていった。だんだん迫ってくる作業服姿の少女に、けげんそうな顔を男共は見せる。
「誰だ、あんたは」
「………………」
中年男はにらんできたが、若い男はユキを見たまま何も言葉を発しなかった。近くで見るとネクタイもシャツもくたびれていて、頬が痩せこけているのが分かる。まさかこの人も文句を言いに来たんじゃないだろうな、という目をしていた。
「こんにちは。この方と同じように私も品を売りに来たのですが、一つ言わせてもらいます」
男二人はぴくりとも動かずユキを凝視し続ける。
「私はこう見えてもこの商売を長くやっています。だから、大抵の金属の値段や流通事情は理解しています。これまでの経験から考えると――」
ユキはデスクの上におかれている資料に目を通した。A4用紙一枚に、金属の名前やそれを磨いて整えた形の写真、戦前ではどのように使われていたか、そして現在は主にどこで良く発見され再利用されているかが大まかに書かれている。
「この金属は私もよく廃ビルで発掘します。昔、建物を支える鉄骨の補強として使われていたものです。耐震性を高めるとして当時は評判だったと聞きます。現在でも十分建設用に使用でき、他の金属よりも比較的高い値段で取引されています。柔軟性が高いため加工がしやすく、昨今その使い道が拡大しています」
そこまでしゃべると、中年男は怒りに満ちあふれていた表情が一気に明るくなった。目の前に救いの神が現れたかのような顔をしている。
「つまり……あなたは何をおっしゃりたいのですか……?」
既に分かっているはずなのだが、若社長は唇を震わせながらそう尋ねた。
「あなたが提示したこの額は、あまりにも常識外れだということです」
彼女はそばに置かれた電卓を指さした。
信じられないという表情で、若社長は肩を落とした。
「ほら! この博識なお嬢さんもこう言ってるじゃないか。自分の知識不足を認めろよ!」
中年男はデスクをバンバンと片手で何度も叩く。
「確かに私どもは調べたのです。……証拠を見せましょう。これです」
若社長は背後の棚からファイルを取ってきて見せた。中年男は該当する金属のページを開き、一字ずつ目で追う。ユキも彼に近づいてかがみ、それを覗き込む。
「なんだこれ。五年前のデータじゃねえか!」
見てみろよ、とユキにファイルごと渡す。他の金属と比較した価格表があるのだが、そのどれもが古い値段のままであった。
「本当ですね。五年前というと金属の高騰がまだ起きていなかったので、もしこの値段で取引していたのだとしたら、いわゆるぼったくりとなります」
一つ聞いてもいいですか、と若社長がおそるおそる言った。「なぜ金属の高騰が起きたのですか?」
「はあ!?」と中年男はあきれて、口をあんぐり開けている。ユキはかまわず答える。
「建築技術が発達したからです。それまで加工が難しかった金属を扱えるようになったためです。これによって、幅広いデザインのビルが増えました」
「そうですか……」若社長は立ち上がると、頭を下げた。「完全に私の勉強不足でした。ご無礼をお許しください」
返事をするように鼻を鳴らし、男は立ち上がってイスを蹴飛ばした。社員用のデスクが少しへこんだ。
「出直してこい!」
男はつばを吐きそうになるのをこらえ、足を大げさに踏み鳴らしてドアを開けて出て行った。それでは、とユキも言葉を残して去る。ちらっと振り返ると、若社長は再びイスに座ってデスクに突っ伏していた。嗚咽や泣き声は聞こえなかった。
事務所を出ると、中年男は割れてしまった風船のようにおとなしくなった。狭くて光が差さない階段を下りていく。後ろから見ると、熊がしょんぼりしているように見えなくもない。
別に後を追うというわけでもないが、ユキは彼の後ろを黙々と歩く。ここは四階だから、下りて行くのには時間がかかる。だが、彼と話しすることは特にない。今考えていることは、この後の予定をどうすべきかということであった。レッカーに積んである荷物を、早いとこ売りさばいてしまいたい。右手首にしてある時計を見ると、午後三時を過ぎていた。そろそろマオが「おやつ食べたい!」と騒ぎだすころだ。その用足しをすると、もう今日は時間が無くなる。商売は明日に延期しようか。
そこまで考えがまとまった時、先が明るくなって外へ出た。まだ空は明るい。しかし、太陽はビルの影に隠れてしまっている。日陰になっているこの通りには、レッカーと中年男のものらしき軽トラが止まっているだけだ。人の姿もまばらで、この街がにぎやかなのは大きな通りだけのようだ。
ユキが現れたことに気づき、マオが助手席のウインドーに顔をべったりとつけた。「私が戻ってくるまで、絶対ここを離れてはダメよ」という言いつけをしっかり守っている。手を振ったので、ユキも一振りした。
レッカーの所に戻ろうとした時、中年男が自分の車に乗らずに近づいてきた。どうも、と一礼した。
「ありがとうな。おかげで胸が少しスッとしたよ。完全ではないがな」
彼はちらっと軽トラの荷台を見た。建築用の鉄骨がロープで固定されている。
「いえ、同業者だからこそ助け合わなければならない時もありますから。気にしないでください」
それでは、とユキは彼に背中を見せる。だが、ちょっと待ってくれと呼び止められた。顔だけ振り向く。
「俺の気持ちをスッとさせる手伝いをしてもらえないか?」
「何のことです?」
ユキは首をかしげ、面倒くさいことが起こらなければいいな、と眉をひそめた。
「簡単なことだ。お礼をしたいから、俺たちの村まで来てほしいんだ。見たところ、お前さんたちは旅人だな? 夕食をご馳走しよう。この街のことや村のことを話すから、ぜひ旅のお土産にしてくれ。いいだろ?」
ご馳走と聞いて、ユキはニヤけた。当初の予定から外れてしまうが、食費の節約になる。しかも、大きな街に来たらホテルに泊まらないとイヤ、とダダをこねるマオを上手く言いくるめられるに違いない。村と言っていたから、自然が豊富で遊ぶには困らないだろう。彼女を満足させるには十分だ。
「はい、お言葉に甘えさせていただきます!」
ユキは、目を輝かせて男の手を握った。
2に続きます。




