第四話:旅の始まり
よく晴れた夜だ。
じめじめと暑苦しい空気に覆われていた昼とは打って変わって、さわやかな夜風が吹いている。
深い森の中に大きな丘がある。遠くから見てもひと際目立つ。新鮮な草に覆われ、頂上にはあらゆる動植物を見守るかのように木が数本立っている。
眼下の森林はすっかり闇に覆われている。その暗さはまるで地獄のようで、揺れる木々は悪魔が手招きしているように感じられる。だが、見上げると満天の星空だ。星々は空をまんべんなく光で覆い尽している。
頂上には荷台付きクレーン車が止められていて、十四歳ほどの少女と六歳くらいの少女の二人が、荷台の上で仰向けに寝転んでいた。
「バーン!」
小さい少女が右手の親指と人差し指を伸ばして銃の形をつくり、真上に向けて撃つ仕草をした。
「マオ、何してるの?」
大きな少女は顔だけ彼女に向けて言った。
「あんなにたくさんあるんだから、一個くらい星落ちて来ないかなーって」
「無理よ。だって星は何光年も先にあるもの」
「でもお姉ちゃんなら届くでしょ?」
「出来ないわ。目では小さくしか見えないけど、本当はものすごく大きいのだから。レーザー銃じゃ歯が立たない」
「もーっ。無理とか出来ないとか言わないでよー。遊びで言ってるだけなのに」
「ごめんなさいね。私は現実主義なの」
マオと呼ばれた小さい少女は機嫌を損ねたようだ。むすっとほっぺたを膨らまし、顔を見せぬよう背中を向けた。
マオが黙ってしまったので、お姉ちゃんは再び夜空を見渡した。
星空を見るにはあそこが最高です、と教えてくれたのは、回収した鉄くずを買い取ってくれた業者さんだった。何でも、その業者さんは天体観測が趣味らしく、週に一回は丘に登って持ち込んだ天体望遠鏡を覗くのだという。
マオが喜ぶだろうと考え、次の街に行く予定を延期し、市街地から五キロほど離れたこの場所に向かうことにした。
お礼を言って事務所を後にしようとすると、予備知識として覚えておくと便利ですよ、と彼女を引きとめた。鉄くずを破格の値段で買ってくれた後だったため、無理に断ることは出来なかった。
業者さんは話し始めた。星はどのように生まれるのか、周りの星々とどう干渉し合っているのか、星はどんなふうに一生を終えるのか……。なかなか興味深いものだったが、中でも面白いと感じたのは、星の光が地球に届いたころにはもうその星の寿命が尽きているかもしれないという話だった。地球と星は途方もなく離れている。光はその距離を長い時間かけて進み、ようやく自分たちの目に入るのだという。
この話をマオに教えてあげてもいいのだが、こんな壮大な話を小さい子どもが理解できるとは思えない。人間の母親なら、こんな時はどんな話をするのだろう。
ふと、母親が子どもに本を読み聞かせている光景が浮かんだ。そうだ。おとぎ話を聞かせてあげよう。あのお話があった。
「ねえマオ、織姫と彦星のお話は知ってる?」
背を向けていたマオがこちらに向き直った。
「知らなーい」
彼女の間の抜けた声に少し笑うと、話し始めた。
「今日、鉄くずを買い取ってくれた人から聞いたお話なの。昔々、神様の着物を織って暮らしている織姫という女の人がいたの。ある日、神様がいつも服をつくってくれているお礼に、天の川の岸で神様の牛の世話をする彦星という若者を連れてきた。二人は一目ぼれしてすぐ結婚するのだけど、仲が良すぎてしまってずっと遊んでしまっていたわ。仕事をさぼっている二人に神様は怒ってしまい、神様はそれぞれを天の川を挟んで住まわせてし二度と会えなくしたの。でも、あまりにも悲しくしている織姫を見て神様が、一年に一度だけ会うことを許した。それが、七月七日というわけ。それから、二人は一生懸命働くようになったわ。これが、織姫と彦星の伝説よ」
お姉ちゃんの目や口を見ながら、マオは黙って話しを聞いていた。物語の世界に入り込んでいるかのように。自分と登場人物を重ね合わせているかのように。
話しを終えて、お姉ちゃんは仰向けになって両腕を頭の下に置いて目を閉じた。子どもには、もっと簡単な文やイラストがないと理解してもらえないかもしれない。今、マオは聞きたいことが山ほどあるはずだ。全部答えてあげて、ゆっくり分かってもらえればそれでいい。子どもの好奇心は大切にしないといけないと、以前会ったお年寄りが言っていた。
マオは、仰向けになってまだ考え込んでいた。頭の中で思考のピースをはめ合わせようとしている。どんな言葉が飛び出してくるか、楽しみであり少し怖い。
お姉ちゃん、と顔だけこちらに向けた。
「神様って何でも願いをかなえてくれるんだよね。あたしも叶えてほしいな」
何、と返すと、彼女は顔を曇らせた。
「ママに会いたいな。ぎゅっと抱いてほしい。声を聞きたい」
ああ、とお姉ちゃんは納得した。今まで旅していて何もそのことについて話していなかったから、てっきり踏ん切りはついているのかと思っていた。だが、ずっと引きずっていたのだ。
当然のことだ。七歳にもならない年の子は、まだまだ甘えたい盛りだろう。母親の代わりに自分はなっていると考えていたが、完全に違っていた。そのことが胸にちくっと刺さった。
マオは、いったん閉じた口をまた開く。
「新しい街に着くといつも、ママがいないかなーって探すの。でも、いつも見つからないの」
か細い声だ。あと少しで涙があふれそうだ。だが、これだけは確かめておきたい。
「ねえ、マオ……。ママが……死んだ、ということは、分かってる……?」
とげとげしい言い回しを避けたつもりだが、傷ついてはいないだろうか。
「分かってるよ。だって、息をしなくなって、だんだん体が冷たくなっていったんだもん。もう起きないことくらい、分かるよ」
「そう……」
「お姉ちゃん」
「ん……?」
人生の岐路に立っているかのような声色に、お姉ちゃんは顔が引きつる。
「もうママには、会えないのかな?」
マオの表情をうかがう。それを見てすぐ分かった。決して分からないことを尋ねているわけではない。彼女は私に、今考えていることを肯定してほしいのだ。暗闇に漂う一粒の光を導いてほしいのだ。だてに一緒に旅してはいない。子ども、特に女の子の思考はだいたい分かる。
「無理だ、とか、出来ない、とか言ってほしいの?」
「え……?」
お姉ちゃんは体を起こして座り直した。つられたかのようにマオもそれに従う。
「ママは死んだ。それは事実。マオも確かめたのでしょう? だったら、受け入れるべきよ」
お姉ちゃんに何か言葉を返したくて「うっ……」と漏れたが、それ以上は出て来なかった。
「あなたがそれほど会いたがっているママは、とっても優しくてマオのことが好きだったはず。そうでなかったら、会いたくて会いたくてたまらないという顔をしているわけがないもの」
マオは、再び黙って話しを聞く。
「あなたのママは、いったいどういう人だったと思う? 他人に優しくする人だったと思う? それとも、ひどいことをする人だったと思う?」
すぐに「優しくする人」と答えた。
「そう思うのなら、ママの優しさの跡を探しなさい。ママはいなくなっても、彼女に優しくされて知っている人はどこかに必ずいるはず。そんな人を探してみたら?」
マオは何も答えなかった。再び仰向けに寝転んで、星々をなぞるように見つめ続けた。
クレーン車がエンジンを軽くふかせた。そろそろ行こう、という合図だった。
二人は静かに運転席と助手席に入った。クレーン車はゆっくりと動き出し、丘を下る。
マオは窓から夜空を見ていた。高くそびえ立つ木々のてっぺんに、大きく光る星とそれに寄りそうように光る小さな星が見え隠れしていた。
第四話はこれにて終わりです。次作にてお会いしましょう。




