下
* * *
彼女は怒っていた。怒って憤懣やる方ないような気持ちのままで今ステージの最前列に立っている。
(音楽祭なんて誰が思いついたんだろう、)
彼女の住んでいる町には年に一度大々的な音楽祭がある。中心となるのは町の端っこにある小学校から大学までのエスカレーター式の私立学校。小学生も中学生も、吹奏楽部も軽音楽部も、クラス合唱もなにもかも、町に住んでいる大人でも子供でも。学校の生徒は3日間のお祭り騒ぎで必ず一度はステージに立つはめになる。
(クラスの合唱なんて、しょぼいに決まってるのに、なんでさせるんだろ)
彼女はクラスの委員長だ。だから、(というのは横暴だ、と彼女は思っているけれど)こういう行事ごとではクラスをまとめなくてはいけないし、率先してやらなくてはいけない。音楽の時間は好きでも嫌いでもないけれど、こういう合唱はごめんだった。
(あの子がやった、あの子が上手、調子に乗ってるのってない、男子がやらない、女子がうるさい、ああああ、もううんざり!)
それもとりあえずは今日で終わりである。直前のステージ裏では一昨日までは真面目にやる気もないかに見えた男子が円陣を組ませたりなんかして、それは良いことのはずなのだが、彼女にはどうにも許せない。
(毎年、こんなことの繰り返し。最初からやればいいのに。なんでわざわざドラマをやりだがるんだろう)
そんな風だから、彼女のクラスの合唱は特に音のハーモニーやバランスに気を遣えているわけがなし、情感もへったくれもない。けれど年頃的に、声の出たもの勝ち、というレベルの話になってしまう。クラスの曲は「怪獣のバラード」。ますます声の出たもの勝ちである。
(ばらーど、のはずなんだけど)
海が見たい
人を愛したい
怪獣にも
心があるのさ
指揮の手振りにつられるまま、怒りに近いものを込めて彼女は音を伸ばした。指揮所の目をほとんど睨みつけている。
声がホールいっぱいに伝わっていく感触がした。彼女のパートはアルトだから、バランス的には良くないことかもしれないけれど、せっかく頑張って合唱をしてきたのだから、このくらい楽しみは譲りたくない。
真後ろの声が隣の声が、彼女の声に引っ張られるように伸びて、混ざって、跳ね返ってくるような気がしていた。
彼女は少し満足して、大きく息を吸った。
* * *
さむっ、さむっ、さむっ、さむっ
もごもご呟きながら、ポケットに手を突っ込んだままスキップのような調子で歩くのは中々楽しい。誰に言ってもあまり理解してもらえないが。
祝日のキャンパスは祭りの後の奇妙なざわめきを残しているが、奥に行けばいくほど、葉の落ちた木々に街灯ばかりが目立って随分物寂しい。キャンパスの奥も奥、サークルの溜まり場と化している旧十号校舎の玄関ホールが自分の所属するアカペラ・サークルの主な活動場所だ。
ここ二か月ばかり準備してきた音楽祭での公演も終わり、ほかの音楽系サークルのほとんどが打ち上げに出ているような夜八時。彼が向かうともうすでに歌声が響き始めていた。
根っからの歌狂いだから、この人達は。
「おっそーい。飲んでたんだ?」
「いや、片付け終わらしてから、直行で来ましたよ。椅子の数が合わなくて探し回ったりとかしてたんです」
「柔軟からねー。寒いから走ってからでいいよ。しっかりやること!」
結成は二年目。サークルの先輩は五人。内一年は三人。自分以外は一年から三年まで皆、元々の知り合いらしい。女性は一年と三年に一人ずつ。リーダーは今話しかけてきた三年の女の先輩で、おっそろしく良い声を出す。その上、さばさば、てきぱき、できる女という佇まいで、最後の一押しはアメリカ育ちというわけである。一種の人間の理想だな、うん。あれは単にガサツというんだッ、と二年の男性陣は力説していたが。
大学に受かったのはいいものの、エスカレーター校への編入組ということで不安を抱えたままキャンパスをふらふらしていたのが入学説明会の日。やけに雰囲気のある校舎だ、と学生闘争時代のような無法地帯のにおいに惹かれて近づいたこの場所で、彼らに出会った。
歌っていたのは、ベタもベタだが〈Amazing Grace〉 ぽやぽやとした春の空を突き上げていくような歌声と、七人のあまりに気持ちよさそうな表情を羨んで、一週間後にはそこで歌っていた。
『歌、好き?じゃあ、おいでよ。ちいっとばかしキツイけど、楽しいよ』
ソプラノをとる先輩の地声はちょっと驚くほどハスキーだ。話しかけられたときはそのベリーショートの髪型にもしや男かと思ってしまったぐらい。今でも男装してこられると一瞬焦る。
男子の先輩たちはどちらかといえば寡黙な人ばかりだけど、半年以上いると段々と慣れてきて、時々無駄口も叩くようになる。そのうちの一人がまた、無茶苦茶に面白い。歌以外では二,三日に一度ぐらいしかしゃべらない人なのだが、しゃべると、必ず腹筋を崩壊させてくれる。
しばしば、何があっても決して面とは向っては言えないリーダーへの鬱屈を語る彼らだけど、基本的に尊敬しているのは態度で分かる。なにより、歌っているこの人たちはとてつもなく楽しそうだ。そこに自分の声がうまく混ざった時はもうおかしくなりそうなほど幸福なのである。
六年続けたオーケストラを辞めると決めたときから、もう音楽に関わることはないのだと思っていた。あの頃の自分にとって音楽はそこにしかないもので、大事であると同時に部活としては重かった。主に人間関係諸々が。音楽にそのどろどろとした部分は付き物だと諦めたのだけれど。
ここにこんな、幸福があるのだ。音楽だけでできた幸福があるのだ。
冷えた空気が音を遠くまで運んでくれるような気がする。もう体は暖かい。
今、自分は世界で一番幸せだ。
* * *
講堂も、体育館も、野外ステージのあった広場も、音楽ホールも、もう全部空っぽになってしまった。
当然だ、祭りは終わった。片付けまできちんとやり終えて、後には何の欠片も残らない、それが祭りの正しい形であると思う。どたばたは、あったけれど、片付けまで全部終わって、わたしはようやく息をついていた。
椅子の数、ステージの備品数と場所、外部から貸し出された機材の返却、ごみの始末、実行委員長がわざわざやる必要はないことだ。ぜんぶ、優秀な実行委員たちが済ませてくれている。
「実行委員長、お疲れさまでしたぁ。」
背後からぎゅ、と腕を回された。誰かは知っていたので、いちいち振り向くことはしなかった。
「あれ、奇襲失敗?」
偶には驚かないことだってあるのだ。わたしだって。
「おつかれさまでした、アナウンスのお姉さん」
へへっ、と笑う気配が耳元でする。一部の隙もないアナウンスで通した時とは打って変わってひどく甘えたな舌足らず。
「終わったねえ、音楽祭」
「おわったね、音楽祭」
「毎年、こうやって続いていくんだねえ」
「毎年、だれかがこうやって大変な思いするんだね。」
「責任重大すぎて、まともに音聞いてられなかったや」
「わたしも。」
「大変だったねえ」
「がんばったよね」
「――本当に、お疲れ様でした。」
抱きついている友人よりももっと後ろの方から、まったく別の人の声が聞こえて、二人そろってあわてて振り返る。
「「先生!」」
いつもと変わらず、くたびれたスーツ、ちょっと白味の混ざり始めた髪に無精ひげ。目元の隈のせいで二割増ぐらいで不健康そうな、私たちの先生。
「おかげさまで、今年も良い音楽祭でした。ありがとうございました。」
これが地元ではそれなりに有名な音楽家だなんて、どうかしてるな、と思う。十年前に音楽祭を始めた張本人。そして音楽の才能が皆無なわたしに音楽への無暗な憧れを植え付けた人。
この人が良いというなら、良かったのだろう。それでもう、十分だ。
「打ち上げは明日ですよね?今晩の夕食ぐらいなら奢ってあげられますがどうしますか?」
「「それはもちろんお願いしますっ!」」
施錠前のホールを振り返った。有るのは静寂ばかり。わたしには、何の音も蘇ってこない。それでいい。この静寂が次の音楽を孕むのだから。
今日の音楽が誰かの夢に芽吹けばいい。
「ありがとう、ございました。」
〈おしまい〉
ある小さな町の音楽祭にまつわるいろんな人のお話。
最初と最後が対になってたり、3番目と4番目が続きものだったり。1番の子に委員長を押し付けられちゃったのが5番目の子。などなど誰にも気づかれない作者だけが楽しいうらせってい。
サークルの冊子に載せたものに少々の改変を加えました。もしかしてのもしかして、見たことのある方はそういうこと、です。