中
* * *
「りょうたぁ!七時半すぎるよー!」
本日三回目の呼び声に、三度目の正直で起きだしたらしい弟の地を這うような返事が返ってくる。昔は聞いているだけで苛々してくるようなソプラノだった声はいつのまにやら低く落ちていて、身長はとうの昔に抜かれ、顔立ちにも全く可愛さの欠片もなくなってしまった(そういうものは無くなってから気づくものである)。最近では無駄に反抗的でなくなったのはいいものの、話しかけてもぶっきらぼうにしか返してこないことが増えた。考えてみると。
常日頃、落ち着きのなさと気骨の無さと口数の多さに辟易していた身としては、うれしいことこの上ないはず、なのだが。
「パンは自分でトーストね。バターとジャムとチーズあるから好きなの。残ってるサラダは食べちゃって。」
「ん」
「終わったら食器片づけて、机拭くとこまでやること。私は洗濯物干してるから。」
「……」
「ストップ。先に着替えてきなさい。ついでに顔洗って髪も直す。大事な日でしょう。シャキッとしなきゃ」
「……ほっといて」
(頭爆発させといてほっといても何もないでしょうが。なんかもう、口数減ったら減ったで嫌だ)
両親ともに朝早いせいで、この時間帯はたいて家に弟と二人きり。余裕のある日はこうやって家事を済ます。これ以上言っても機嫌を悪くすると踏んでそのまま洗濯物を干しに行ったが、はたしてちゃんと着替えたのだろうか。
「……あんた、そのくたびれた制服も膝に穴あいたズボンももう諦めたからいいけど、せめて髪ぐらいは整えていきなさい。」
戻ると既に出かける間際の弟の普段と大して変わらない姿。一応晴れ舞台の日にそれはどうなんだ。
今日ばかりは、と無理やり整えさせて、カバンの中身ももう一度見させる。
案の定、本番用の楽譜を忘れていた。
「いい、Dの上はE。大丈夫ね?」
「デーの上はエー。行ってきます」
復唱して出ていく後姿はもう見知らないものだ。
小学校中学年で先生と大喧嘩する形でピアノをやめた私と違って、弟は中学三年の今でも続けている。練習は昔から大嫌いなくせに、やめるとは言い出さない。結局のところ好きなのだ。その証拠にこうやって、合唱の伴奏ばかりやりたがる、毎年。
〈Dの上はE〉はおまじないだった。発表会の日には必ず言うのだと聞いた。〈人の字〉のようなものなのだろうか。それが音の名前であることは知っているが、よくは分からない。弟は知っている。
いつまでも、ひ弱でおしゃべりなばかりの、頼りない弟であるわけではないことは、分かっていたけれど。
* * *
椅子の高さを揃える、手を置く、ピアノのふたは開かれて鍵盤はスポットで常より白い。いつも家で練習するのとは全く違う音がするはずで、きっとタッチが浅くて、響き方が浅く広いのだろう。彼は一音、試してみたい衝動と戦っていた。
たった一音。それでこの奇妙な緊張は破られる。静寂で張りつめているわけではなくても、ステージに上った緊張としては何の差もない。どちらかといえば嫌いなこの焦燥感。けれども今日は少し違う。
彼はちらりとピアノの前、彼よりもステージ前方にいる後姿を見つめた。野暮ったいと評判の褪せた紺の制服、スカートは膝丈よりも更に下。有って無きが如しの校則を律儀に守っている、というわけではなく彼女曰く、『長い方が好き。文句ある?』ということらしい。
彼女がチェロを弾くことは聞き知っていた。学年でもうまいことでは有名だったし、毎年の音楽祭でも耳にしていたはずだ。だが彼が彼女の顔や名前を一致させたのは、この春にクラスメイトになってからしばらくしてのことだった。
自転車で追い抜いた時、楽器ケースがひとりでに歩いているのかと思った。追い抜きざまに思わず振り返って、陰に隠れていた人間に見覚えがある気がした。
教室に入ってきた楽器ケースにああ、クラスメイトだったかと思ったのも束の間、
「人のことじろじろ見んな」
つかつかと歩み寄ってきた、彼の肩にも届かない少女に凄まれたのも今では良い思い出である。その後、朝の件については謝罪を入れさせられた。
彼女はまあまあの美人だ。随分と小さめの背丈も相まって女子どもからかわいいかわいいと抱きつかれて辟易しているのをよく見るし、楽器がうまいという(よく分からないが高嶺の花っぽい)ステータスと相まって男子からの評判もなかなかに良い。が、なんというか、毒舌なうえに横暴である。今のところ主に自分に対して。
なにしろ、夏休み明けの登校初日に『ピアノパート、弾けるよね?音楽祭エントリーするよ。』の一言で今の状況を作り出してくれた人間である。普通なら恨む。
今日の静寂を破るのは彼女だ。低音の主題。自身と背丈のそう変わらない楽器を抱えた彼女は、けれど格別に深い音を出す。その低音は安定しているくせにやけに力を孕んでいて、気持ちが沿って行くのが分かる。こういう時は、うまく入れる。
「入ってくれば?立ち聞きとか趣味悪い。気が散る。」
「う……」
その晩春の日は天気が異様に悪くて、もう廊下は暗かった。彼女のチェロの音に惹かれて、練習場にしているらしい資料室の外で放課後を過ごすようになって一週間ほどは経っていた。
それから、夏の間中ずっと、クーラーもない部屋で彼女の音を聞き続けた。大した回数ではなかったはずだけれど、夏の思い出といえばそればかりだ。
「音大進学、するの?」
「は?」
「いや、噂で聞いて。」
「しない。馬鹿らしいじゃない。音楽がいったい何になる?これは趣味。こんな七面倒くさいこと、割り切ってなきゃやれない。」
そのころ、下がり続きの成績とあやふやな進路に嫌気がさして音大進学を考えていたのは本当は彼の方だった。彼女の音のように、響く音を、強い音を、作ることができるのなら、体ごと渦の中に引きずり込むような演奏ができるのなら、それは最上のことのように思われた。そんな現実逃避は綺麗にぶち壊されてしまったのだけれど。
自分がピアノを弾くことを言えないままに夏が終わって、だから、密かに練習を重ねていたベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第3番」のチェロパートを聞かされた時は顔に出るほど驚いた。なぜ知っていたのかは聞けずじまいで今まで来ている。
彼の甘い幻想は打ち砕いた彼女だけれど、こうして密かな望みを叶えてくれるあたりは、ひどく優しい、と思う。
尋ねる、答える、かけあい、絡む音。
今日は二人で、渦を作るのだ。