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音楽祭   作者: 夕貴
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 家を出たとき、吐き出した息が白いことに少女は驚いた。


 もう、そんな季節だったかな。衣替えが終わって、野暮ったいセーラー服が暑い、と騒いだところなのに。道路には人っ子一人いないし、やけに鳥たちが騒ぎ立てている。見慣れた街並み全部がなんだか薄青い。


 そりゃあそうだ。今は朝の5時半だもの。


 小さな子供みたいな自分に、ちょっとお姉さんの自分が答える。今日は本番の日だから、実行委員の自分は皆より早くに行かなくちゃいけない。そう意気込んだはずの今朝の早起きは親に起こしてもらった結果なのだ、という忸怩たる事実にはこの際目を瞑る。九時には布団に入ったのだけれど、昨日に限って緊張しすぎて眠れなかったんだから仕方ない。

 今日ばかりは背中のランドセルの中身はすっからかんで、がたがたとなる音に嬉しくなって坂道を駆け下りる。わーっと叫んでる時のような、走った後のようなドキドキが朝から止まらない。ほんとに走ってみるとますます強くなるみたいでのどに何かこみ上げてくるみたいだ。は、は、と肩で息をしてみると白い息がふわっとなって溶ける。


 今日の仕事は呼び出しの係。出演する人を楽屋まで呼びに行ったり、舞台裏で順番に並ばせたりする。ほんとはステージの装飾とか、かっこいいアナウンスとかの方がよかったけれど細かいことにはこだわらない、だって私は実行委員だもの。


 実行委員になれるのは5年生からで、5年生のうちはクラスで一人しかなれない。つまりたったの4人。1年生の時から憧れていた委員に選ばれたことが大切なのだ。今年はそのために友達皆に頼んでクラスの委員長に選ばれないように「政治的工作」までしたのだ。

 うんと早起きした日しか見られない朝焼けでピンク色の雲が一面に広がっていて、やっぱり今日は素敵な日になる、とそれだけでもうワクワクした。歌いながら調子の外れたスキップのような具合で学校へ急ぐ。


 ううん、違う。素敵な一日にするんだ!絶対!


 *   *   *


 人の少ない朝の階段をかけ降りる音はよく響く。朝から上り下りを繰り返しているために汗がシャツに冷えつきはじめていて、反射で身震いをしてしまう。立ち止まってしまったら一気に寒くなるだろうし、息が上がりきって動けなくなるに決まっているけど、走っている間は大丈夫。

 打楽器パートの初歩練習のように、リズムは正確に、音の粒は揃えて、体重は等分にかけること!

 タンタンタンタン

 踊り場までは13段。最後の2つは両足飛び。

 タンッ

 膝より少しばかり短いスカートがぱさりと落ち着いて、そんな悠長なときでもないけれど、内心満足しつつ、くるりと向きを変えた瞬間、足が止まった。

 もう秋も終わろうかというこの時期に白いワイシャツをまくり上げている、〈へのへのもへじ〉でも描いてやりたくなるようなとぼけた顔の物好きは、思わず目をそらしたこちらを意にも介さぬ様子で、

「おはよう、ゆーきさん」

 今日も朝から元気だねぇ、なんぞと抜かしやがった。

 なんでよりにもよってお前が、今この時間にこんなところにいるのかと、あまりにもあまりな受け答えにふつふつと怒りすら込み上げてきて、見なかったことにしたくなる。でも足はもう止まってしまって、次の一歩はとてつもなく重い。ああもう。

「手伝え!」

 え、え、と戸惑った顔を横目にしてやったりの気分である。なまっちろい腕を引っ張って、そのまま階下へ直行。倉庫の譜面台を押し付けて、またしても階段を上った。

「俺、もう吹奏楽部員じゃないんだけど」

「食中毒か何かで男子3人が休み。朝の音合わせまであと十分。顧問様は既にスタンバイ済み。まさか見捨てるなんて言わないだろう?」

 五年間一緒にやった仲だもんな、と言外に込める。休みの一人はウチのクラリネットパートだから本当ならなりふり構わず、演奏を手伝ってほしいぐらいだった。駆け上がる足音は二人分。段々ペースが合ってくる。軽快な音に引っ張られるように足が前に出る。譜面台を持つ手も、真っ白な後姿も、妙に真剣なその走り方も、馴染んだもののはずだったのに、今では懐かしいとすら思う。

 音楽室の分厚い扉の前、彼はかしゃんと譜面台を置いた。私が台を持ったまま肩で扉を押そうとすると、彼が横から開いてくれる気配がした。

「今日、がんばって。見てるから」

 優しいのに硬質なその声に、ふりむきたい、と痛いほどに思った。

「お前もな」

 なんてわざとらしく、固い声だろう、軽さを装うどころか。伝わってしまうだろうか。それとも伝わってほしいのだろうか。

 五年間ともに練習に励んだパート仲間のうちで、最も上手いのが誰だったかなど聞かなくてもわかる。次の生徒指揮者をやるのは彼だろうと部員の誰もが思っていた。私は部長か副部長。天才肌としまり屋、クラリネットパートの名(迷?)コンビ。そんな呼称は気恥ずかしいのと同じくらいに誇らしかった。

 秋に着任した新しい顧問とそりが合わず、彼がふらりと部活に来なくなったのは高三の春先。科が違うからやめた後の接触の機会はなかった。さほどもせずにバンドをやり始めたのだと噂が流れた。部員は皆、悪く言うではないがはじめから居なかったことのように扱った。

 ある時、ギターを背負っている後姿を見たのだ。何故、と思う気持ちは今でも消えてはいない。もう帰ってはこないのだと思い知った。本当は戻ってこいと叫びたかった、あの時。


 彼は音楽室の扉をくぐらない。私は閉まるその扉を振り返ったりはしない。なんて滑稽なやりとりだろう。いいや、滑稽なのは私だけ。


 ―――お前の音をもう一度聞きたい、と言いたいんだ、本当は。



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