袁譚~悔恨の館にて(6)
ここまで読み進めていただいた皆様には、袁紹と袁譚のすれ違いがはっきりと分かってきていることでしょう。袁紹は袁譚が生前から自分を蔑んだことを根にもっていて激しい攻撃をかけますが、袁譚は自分は生前何も悪いことをしていないと思っています。
いじめなどでは、加害者はそれをすぐ忘れてしまっても被害者はずっと覚えているもの。袁譚の最初の過ちが、袁紹の悪夢の中で語られます。
気がつくと、袁譚の眼前に中庭が広がっていた。
怪物はいないようだったので、袁譚は足早にそこを走り抜けようとした。
しかし、その瞬間、またも幻が袁譚を襲った。
星がきれいな夜だった。
自分は、酔いを醒まそうとふらりと中庭に入った。
そこで目にしたものは、まぎれもなく少年であった頃の袁譚の姿だった。
袁譚は、こちらに背を向けて誰かと話していた。
傍らには、もう少し年下の少年がいる。
(あれは……いとこの袁燿だ!)
袁譚はその少年に見覚えがあった。
あれは間違いなく、袁術おじさんの息子、袁燿だ。
そして、確かに自分はこんな夜に袁燿と話した記憶がある。
「ふーん、袁譚は自分が袁家を継げると思ってるんだ?」
袁燿はいかにも馬鹿にするような口調で袁譚に言った。
こういうところは、父親の袁術にそっくりだ。
「あはは、従兄さまは夢見がちですねぇ~。
だいたい、従兄さまには平民の血が混じってるんだから、ボクが上に決まってるじゃないか!
あなたのお父様だって、ボクのお父様よりずっと下賤に近いくせに」
そうだ、こいつは自分の血筋を徹底的にあざけりやがったんだ。
そして、それにムキになって対抗した自分、袁譚が口にした言葉は……。
「ふん、それはあくまで父上の話だろ。
おれはおれで、父上とは違うんだよ!」
今思い出すと、袁譚の背中に冷や汗が流れた。
「いいか袁燿、父上は半分平民だけどな、おれは4分の1平民なんだ。
確かに父上の血は穢れているかもしれないけど、おれには袁家を継ぐのに十分な濃さの高貴な血が流れてる。
てめえの父親がおれの父親より上だからって、おれまで一緒にするなよ!!」
そうだ、この時から、自分は父上を蔑むようになったんだ。
傲慢な従弟にばかにされて、それが腹立たしくて……。
その時は成り行きで口にしただけなのに、いつの間にかそれが本心になっていた。
自分の身に降りかかる不幸を、全部父の生まれのせいにして。
しかし、自分もそれまで口には出さなかったが、同じような気持ちを無意識に抱いていたのかもしれない。
だから袁燿に問われた時、自然とああいう答が出たんだ。
長らく忘れていたことを思い出しながら、袁譚は自分が犯したとてつもなく大きな間違いに気付きつつあった。
自分は今、父袁紹の記憶を追体験しているのだ。
その中で、自分と袁燿の会話を第三者として聞いているということは……。
あの夜は、確か袁家の皆が集まって宴を開いていたはずだ。
自分はどうせ誰も聞いてないだろうと思ってあんな事を口にしたが……。
父上が、自分と袁燿の会話をこんなにはっきり覚えているということは……。
聞かれていたんだ、父上に。
幻が消えてからも、袁譚はしばらくそこから動けなかった。
体が鉛のように重くて、足が動かない。
驚愕のあまり息がつまって、うまく空気が吸えない。
(じゃあ、何だ……父上は、初めからおれの気持ちを知っていて……!?
袁尚をかわいがったのも、おれを冀州から追い出したのも、
あの夜から全部父上の中では決まってたってことか!?)
思い返してみれば、父袁紹は自分と顔を合わせたくなかったのかもしれない。
本心ではあんなことを思っていながら、上っ面だけですり寄ってくる息子が嫌でたまらなかったのだろう。
自分がもし同じ立場だったら、そんな息子は首をはねてしまうかもしれない。
袁譚は身勝手にも、そう思った。
「ふふふ、どうした譚よ?
懐かしい夢でも見たか?」
後ろから、砂利を踏みしめる足音とともに、父の声が響いた。
「ち、父上……!!」
袁譚は飛び上がりそうなくらい身をすくめた。
振り返るとそこには、血塗られた剣を片手にゆっくりと歩み寄ってくる父がいた。
「ひいいぃ……ご、ごごめんなさいぃ……。
あの、そ、その……つ、つい出来心で……!」
袁譚は震えの止まらない口で、うまく聞き取るのも難しいような声で謝った。
それを聞くと、袁紹はふと足を止めた。
だが、袁紹の口から漏れたのは、許しなどではなかった。
「くっくっく……ふふふあはははは!!!」
突然、袁紹は声高らかに笑い出した。
そして、尻餅をついている袁譚を見下ろして嘲うように言った。
「ああ……おかしい!
おまえ、まさか今思い出したのか?
わしはあの夜からずっと苦しみぬいていたのに、そうか……おまえには忘れるほどちっぽけな事だったか!!」
どうやら袁譚の中途半端な謝罪は、袁紹の怒りの炎に油を注いだようだ。
いや、この期に及んで謝っても、父が許してくれるとは思えない。
袁譚は、こっそりと地面の砂利を握った。
「ふふふ、息子よ、覚悟!」
袁紹がすぐ目の前で剣を振り上げた瞬間、
「せりゃあああ!!」
袁譚は渾身の力をこめて、父の顔めがけて砂利を投げたのだ。
幾多の固い小石が、袁紹の顔に襲い掛かる。
「うぐっ!?」
父が思わず顔を覆って目を伏せた隙に、袁譚は再び脱兎のごとく逃げ出した。
どうせ許してもらえないなら、もう謝る必要はない。
力の限り父に抗い、できれば倒してここから抜けてやる。
そうだ、おれは自分より下賤な父上に地獄に落とされる筋合いはないんだ。
今回、また袁家でマイナーな人物が出てきました。袁燿は袁紹の異母弟である袁術の子で、袁譚のいとこに当たります。父である袁紹と袁術の関係は子世代にも影を落としていたため、袁譚がこのような不遜な言葉を浴びせられてしまった訳です。
しかし、袁譚が父を本当に尊敬して愛していれば、あの場面でもこんなセリフが出ることはなかったでしょう。これが袁譚の最初にして最大の間違いです。