曹操~霧の中にて(2)
いよいよ、最後のお別れの時が来ました。
袁紹の悪夢を払う旅路の中で、曹操は何を得たのでしょうか。
覇道に生きる男と、家族の幸せに生きた男、二人はお互いに足りないものを気づかせ合い、それぞれの道へと進みます。
二人は、しばらく感傷にひたっていた。
積年の友情はあまりに重くて、伝えたいことが多すぎて、いくら話してもきりがなかった。
しかし、そのうち袁紹の方から曹操の手を放してささやいた。
「もう、行くが良い。
おまえには、まだ歩むべき道がある。
現世に戻り、おまえの道を生きよ」
名残惜しみながらも、袁紹は目の前の門に目を移した。
目の前にそびえる、洛陽の門。
曹操と袁紹が、何度となく再会と別れを繰り返した思い出の場所。
「思い出は、時として現実よりも美しい。
だが、それに囚われていては、得られるはずの未来を閉ざしてしまう。
母への想いに囚われ、家を滅ぼした私のように」
袁紹は、少し皮肉っぽく言った。
しかし曹操が心配するような視線を向けると、慌てて明るい笑顔になった。
そして、少しためらうように口ごもった後、どこかすまなさそうな顔で口を開いた。
「それに……私にもようやく見えるようになったのだ。
私の、進むべき道が……!」
それを聞いて、曹操も晴れやかな笑顔になった。
袁紹に見えるようになった、進むべき道。
つまり、魂が割れたままでは見えなかった、大切な道。
袁紹が本当に会いたいと望んでいる、今は亡き人たちに続く道。
袁紹は、ついに冥界への道が見えるようになったのだ。
割れた魂が一つに戻り、悪夢の暗雲が晴れて、ようやくその道が目に映るようになった。
袁紹は、期待と感動に涙すら浮かべて、何もない空間を見つめていた。
おそらくそこに、あるのだろう。
袁紹が、見つけたくてたまらなかった道が。
「……そうだな、あまり引き止めるのも悪い。
おまえにも、今すぐにでも会いたい人がいるのだろう」
曹操がいたずらっぽく言うと、袁紹は急に真っ赤になった。
「い、いや、別にそのためにおまえを急かす訳では……!
わ、私は死んでいるのだぞ!時間などいくらでも……」
どうやら、図星だったようだ。
こんな風に不意を突かれると取り乱すのは、昔から変わらない。
曹操が笑い出すと、袁紹もつられて笑った。
幼い頃、一緒に遊びに行って、二人で楽しい思い出を作った時と同じ。
笑いながらそれを思い出すと、急にそれが愛しくてたまらなくなって、気が付いたらお互いをひしと抱きしめていた。
別れたくない!
こうしていても、何も先に進まないのは分かっている。
しかし、心は現実に抗うように抱擁を求めた。
本当は、生きているときにこうしたかった。
片方が死んで、苦難の果てに悪夢を払って、ようやくこうできるようになったのに。
二人がそのぬくもりを享受できる時間は、あまりに短すぎる。
曹操の耳元で、袁紹がかすかにしゃくり上げるのが聞こえる。
泣き声を上げまいと、必死で噛みしめて耐えている。
「私は、結局ここまでしてくれたおまえに、何も返してやれないのだ!
おまえは死の危険を冒してまでここに来てくれたのに、私は一緒に生きることができない……私は、それでも……!」
辛さに耐えきれず後悔の言葉をこぼし始めた袁紹の背を、曹操は優しく撫でてやった。
「大丈夫だ、また会える。
それに、おれもおまえの悪夢から、学ぶことがたくさんあった」
曹操は、袁紹への感謝をこめてささやいた。
「おれはこれまで、家族のことをあまり顧みていなかった。
息子たちのこともおまえほど大事にした覚えはないし、おれの野望のために何人かの息子を犠牲にしたこともあった。
それに、妻にも苦労をかけてしまった……」
曹操は、これまで置き去りにしていた家族の事を思い出していた。
己のために戦で散らしてしまった若い息子たち。
そんな息子の死を責めて、去っていった前妻。
そして、そんな曹操を一言も不平を言わずに支えてくれている今の正妻。
今の曹操には、その全てがかけがえのないものに思えた。
むしろ、なぜ今までそれに気づかなかったのか、ふしぎでならなかった。
「おまえが声をかけてくれなければ、おれは大切なものを知らぬうちに失うところであった。
これからは、おまえには及ばぬだろうが、家族のことも大切にしよう」
すると、袁紹の顔がわずかに曇った。
その理由を思い出して、曹操ははっと言葉を止めた。
袁紹があれほど大事にしていた家族は、もう……。
だが、袁紹は曹操が謝ろうとするのを遮って言った。
「大丈夫だ、息子たちとは、きっとまた会える。
劉のことは、残念だったが……これであれに殺された妾と子供たちにも、胸を張って会える。
あれも、いつかは心を入れ替える日がくると良いのだが……」
袁紹は、そうつぶやいて地面を見下ろした。
二人の息子と、妻が地獄にいる。
彼らと再び会えるのは、一体いつになるのか……。
しかし、袁紹は気持ちを切り替えるように軽く頭を振った。
そして、強い光の宿った目で天を見つめて言う。
「だが、私にもまだ息子たちのためにできることがある!
祈るばかりではない、愛する息子たちのために、今度は私が行動する番だ」
袁紹の凛とした表情に、曹操も安堵を覚えた。
袁紹はもう、不幸を嘆くだけの子供ではない。
不幸や悪夢を消し去るために、自分で考えて行動する強さに満ちている。
自分の知らない悪夢の旅路が、袁紹自身を変えたのだろう。
袁紹が何をしようとしているのかは、分からない。
しかし、きっと悪い結果にはならない……曹操にはそう思えた。
今の袁紹なら、しっかりと考えて確実に良い手を打っていけるだろう。
親友の変化を喜ぶ曹操に、袁紹は静かに告げた。
「それより、おまえの方こそ子供たちをきちんと見てやれ。
あまり子をおろそかにしすぎると、私のようになっても知らぬぞ!
おまえもおまえの子供たちも、まだ生きているのだから……やるべきことは、生きている間にやるのが一番だぞ!」
その言葉に、曹操は力強くうなずいた。
我が身を翻ってみれば、心当たりはある。
器用貧乏な長男と、詩文に優れた可愛い三男……袁家の二の舞になる訳にはいかない。
「分かった、親友の警告は素直に聞いておくさ。
帰ったら、たまには家族水入らずで過ごしてやるか……」
曹操も、光が漏れてくる門の方を向いた。
お互いの、進むべき道を見据えて、一歩を踏み出す。
隣で、親友がささやいた。
「曹操よ、河北のことは、任せたぞ。
おぬしになら、安心して任せられる!」
「ああ、安心して任せておけ。
おれはもう、親友の頼みを裏切ったりしない!」
最後に固く誓いを交わして、二人は門の向こうに足をつけた。
まばゆいばかりの陽光があふれ出し、世界を鮮やかに彩っていく。
視界を遮っていた霧が晴れ、くっきりと道が見える。
それぞれの、歩むべき道が……。
曹操は、生者の暮らす現世へ。
袁紹は、死者が安息を得る冥界へ……。
門を超えると、そこはいつもの洛陽だった。
多くの人が行き交い、むせかえるような人の営みがせわしなく時を刻んでいる。
曹操は、その市井の空気を胸一杯に吸い込んだ。
「袁紹……安らかにあれ」
気が付けば、両側の頬を涙が伝っていた。
だが、きっと許昌に向かって馬をとばす間に、それは乾いてしまうだろう。
それでも、心のぬくもりはきっと消えない。
長い時を超えてようやく仲直りを果たした親友は、きっといつまでも自分を見守ってくれていると思うから。
「行こう、おれはおれの道を!」
自分もまた、足りなかったものを補って先へ進む。
そして願わくば、親友にもう一度会えた時に、誇れる生を紡ぐために。
二人で取り戻した、消える事のない絆を胸に、曹操は洛陽を後にした。
本編はここで終わり、次の最終話はそれぞれのその後です。
袁紹と曹操、二人は友情を取り戻して幸せなエンディングを迎えました。
やっぱりハッピーエンドは難しいです。不幸になるのは簡単でも、幸せになるのは案外難しいことだからでしょうか。
しかし、某ディズニーで真実の愛が凍った心を溶かすように、真実の友情はいかなる悪夢にも負けないという物語を書き切れたと思っています。
もっとも、現実世界でこんな強い友情を得ることは難しいですが。