曹操~霧の中にて(1)
曹操は、ついに袁紹の悪夢を払うことができました。
しかし、袁紹を救ったのは曹操だけではありません。
そして、数多の助けで心を洗われた袁紹は、曹操だけが初めて見る笑顔を向け……。
袁紹は、今まで見たことがないような穏やかな表情で佇んでいた。
ゆったりと安らぎを湛えた目。
ほがらかに落ち着いた微笑を浮かべた唇。
曹操は、これまでずっと親友でいて、袁紹のこんな顔を見たことがなかった。
幼い頃も、大人になってからも、袁紹の表情には常に影があった。
多分、袁紹を知っている誰も、こんな顔を見たことはないのかもしれない。
あったとしても、それは物が分かるようになる前の赤ん坊の頃。
現実を前にしっかり目を見開いて、そのうえでこんな風に笑う袁紹は、おそらく誰も知らないのではないだろうか。
(これが、本当の袁紹か……)
曹操は、その顔に思わず見入ってしまった。
今の袁紹は、本当に美しい。
内にある穢れを洗い流されて、本来の優しさと愛情が阻まれることなく溢れている。
袁紹は、かすかに光を帯びて見えた。
それは、名家の威光とか偉丈夫とかいう類のものではない。
家族や自分とつながる者を誰よりも愛し、慈しむ、素朴な仁君にして父親のようなおおらかな光だ。
そんな袁紹が、ふと目の焦点を曹操に合わせた。
「曹操、我が友よ……」
つないだままの手が、ぎゅっと握られる。
袁紹は、はにかむような笑みを浮かべた。
そして、これまでの袁紹からは考えられないことだが……曹操に深く頭を下げ、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう……こんな所まで私を助けに来てくれるとは。
私は正直、おまえと顔を合わせても助けてもらえるかは半信半疑だった。
今は、素直に友を信じられなかったこと、恥ずかしく思う」
曹操は、二人に分かれていた袁紹を思い出してその言葉を聞いていた。
曹操を始めから信じていた裏の……幼い頃からの、悪夢に沈んでいた袁紹。
曹操を敵として憎んでいた表の……名家の虚栄の中で生き抜いた袁紹。
半信半疑とは、こういうことだ。
「私は、この世に私を助けてくれる者などいないと、諦めていたのかもしれない。
……いや、諦めて、助かる資格などないと思い込んでいた。
そのせいで、おまえに声をかけるまでにこれほど時間が経ってしまった」
曹操は、袁紹が死んでからの年月を思い起こした。
袁紹が死んで、それに乗じて袁家を滅ぼして、もう袁紹のことなど過去のことになりかけていた。
誰もが、袁紹を歴史の一部にし、個人として忘れ去ろうとしていた。
事実、曹操も袁紹のことを思い出すことは日に日に少なくなっていた。
だが、曹操の方もすんなり記憶をそぎ落とせた訳ではない。
袁紹のことをふと思い出すたび、何かが心にひっかかって、飲み込めずに気持ちが悪かった。
「謝る事はない、袁紹。
おれもおまえに会わなければ、大切なものを忘れたまま先に進むところであった。
失っても、取り戻せなくても、新たにつなげることはできる」
曹操は、自らも袁紹に頭を下げた。
身分の違いからではない、人間としての敬意。
「おれは、使えぬもの、理に適わぬものは全て切り捨てればよいと思っていた。
おまえのことも、その相反する感情も、全て……。
だが、それではだめだと分かった」
曹操は、自分で言っていて恥ずかしくなり、少し顔を赤らめた。
「国も戦も政も、人が全ての根底にある。
相反する人の感情が分からずして、人の世を治めることはできぬ……おれは少々、効率に囚われすぎていたのかもしれん」
そうだ、囚われていたのは袁紹だけではない。
曹操自身も、天下へと突き進むうちに人として大切な何かを失いかけていた。
だが、今回の悪夢で、曹操はそれを取り戻した。
袁紹の見せた憎しみと愛、二つの心は一つの中にあるのだと。
曹操は、袁紹の冷たい手を温めるようにさすって言った。
「もし、おれがおまえの痛みを少しでも分かろうとしていたら、おれたちは手を取り合って二人で進めたかもしれぬ。
そうすれば、互いを補い合って天下を平穏に導けただろう」
すると、袁紹はバツが悪そうに苦笑した。
「いや、無理だな。
私の方に、おまえを受け入れる余裕がなかった。
おまえに会いに行くのにこれほど時間がかかったのは、私自身がおまえを疑いの目で見て、それを自分で止められなかったからだ」
そこまで言うと、袁紹の目の焦点がぼやけた。
どこか遠くを見るような目で、記憶を探りながらつぶやく。
「私は、おまえを呼ぶ前にその猜疑心を取り払わねばならなかった。
親友も臣下も家族も信じられぬ、暗くて重い塊をどうにかせねば、次に手を伸ばすことができなかった」
それを聞いて、曹操は少しだけ嫉妬を覚えた。
袁紹を救うのに力を貸したのは、自分だけではない。
親友も臣下も信じられなかった……つまりそれを解決したのは曹操でも辛毗でもない訳だ。
その人物に会うまで、袁紹はどちらにも声をかけられなかった。
そして、猜疑心と痛みの赴くままに長男を地獄に落としたのだろう。
袁紹の穢れを払ったのは、曹操一人ではない。
他に何人もの助けがあって、ようやく曹操に手が届いたのだ。
(全く、恥ずかしい限りだな……このおれが、先を越されるとは)
だが、自然と怒りは感じなかった。
袁紹を救うためには、誰の手が欠けてもいけない。
誰かが猜疑心を和らげ、辛毗が真実に向き合う強さを示し、そして自分が最後に全てを払って今の袁紹がある。
むしろ今は、向き合ってくれた誰かへの感謝でいっぱいだった。
「おまえは、良い縁を持ったな」
曹操が声をかけると、袁紹は少し首をすくめた。
「良い縁ばかりではないがな。
むしろ私は、良くない縁を切れずに持ちすぎていた」
それを聞くと、今度は曹操が苦笑する。
「そうか、おれとは真逆だな。
おれは要らないと思ったものは全て切り捨ててきたが……思えば、その中には切るべきでない良縁も混じっていたのかもしれぬ」
二人は、顔を見合わせて笑った。
自分たちは、本当にいい友達だ。
つなぎ、守るのが得意な袁紹。
切り、攻めるのが得意な曹操。
二人で生きていけたら、きっとどんな苦難も乗り越えられたはずだ。
惜しむらくは、それに生きている間に気づけなかったこと。
袁紹の手を握る曹操の手は、温かい生者の手。
曹操の手を握る袁紹の手は、冷たい死者の手。
二人はもう、同じ世界にいない。
どんなに心がつながっていても、もう現世で交わる事はない。
二人が互いを補い合って進めば、きっと今よりずっと幸せな未来が開けたはずなのに……袁紹が命を落とした今となっては、それは届かぬ幻想に過ぎなかった。
曹操は、自分と辛毗以外に誰が袁紹を助けたのかを知りません。
袁紹も、それをわざわざ曹操に話したりはしません。
それでも二人が穏やかでいられるのは、お互いを本当に信じあっているからです。今の二人がお互いを見て、その過去が悪いものではないと信じられるから。
次回、曹操と袁紹は最後の別れを交わします。