表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
袁紹的悪夢行  作者: 青蓮
最終章~曹操孟徳について
194/196

曹操~霧の中にて(1)

 曹操は、ついに袁紹の悪夢を払うことができました。

 しかし、袁紹を救ったのは曹操だけではありません。


 そして、数多の助けで心を洗われた袁紹は、曹操だけが初めて見る笑顔を向け……。

 袁紹は、今まで見たことがないような穏やかな表情で佇んでいた。


  ゆったりと安らぎを湛えた目。

  ほがらかに落ち着いた微笑を浮かべた唇。


 曹操は、これまでずっと親友でいて、袁紹のこんな顔を見たことがなかった。

 幼い頃も、大人になってからも、袁紹の表情には常に影があった。


 多分、袁紹を知っている誰も、こんな顔を見たことはないのかもしれない。

 あったとしても、それは物が分かるようになる前の赤ん坊の頃。

 現実を前にしっかり目を見開いて、そのうえでこんな風に笑う袁紹は、おそらく誰も知らないのではないだろうか。


(これが、本当の袁紹か……)


 曹操は、その顔に思わず見入ってしまった。


  今の袁紹は、本当に美しい。

  内にある穢れを洗い流されて、本来の優しさと愛情が阻まれることなく溢れている。


 袁紹は、かすかに光を帯びて見えた。

 それは、名家の威光とか偉丈夫とかいう類のものではない。

 家族や自分とつながる者を誰よりも愛し、慈しむ、素朴な仁君にして父親のようなおおらかな光だ。


 そんな袁紹が、ふと目の焦点を曹操に合わせた。


「曹操、我が友よ……」


 つないだままの手が、ぎゅっと握られる。

 袁紹は、はにかむような笑みを浮かべた。


 そして、これまでの袁紹からは考えられないことだが……曹操に深く頭を下げ、感謝の言葉を口にした。


「ありがとう……こんな所まで私を助けに来てくれるとは。

 私は正直、おまえと顔を合わせても助けてもらえるかは半信半疑だった。

 今は、素直に友を信じられなかったこと、恥ずかしく思う」


 曹操は、二人に分かれていた袁紹を思い出してその言葉を聞いていた。


  曹操を始めから信じていた裏の……幼い頃からの、悪夢に沈んでいた袁紹。

  曹操を敵として憎んでいた表の……名家の虚栄の中で生き抜いた袁紹。


  半信半疑とは、こういうことだ。


「私は、この世に私を助けてくれる者などいないと、諦めていたのかもしれない。

 ……いや、諦めて、助かる資格などないと思い込んでいた。

 そのせいで、おまえに声をかけるまでにこれほど時間が経ってしまった」


 曹操は、袁紹が死んでからの年月を思い起こした。

 袁紹が死んで、それに乗じて袁家を滅ぼして、もう袁紹のことなど過去のことになりかけていた。

 誰もが、袁紹を歴史の一部にし、個人として忘れ去ろうとしていた。


  事実、曹操も袁紹のことを思い出すことは日に日に少なくなっていた。


 だが、曹操の方もすんなり記憶をそぎ落とせた訳ではない。

 袁紹のことをふと思い出すたび、何かが心にひっかかって、飲み込めずに気持ちが悪かった。


「謝る事はない、袁紹。

 おれもおまえに会わなければ、大切なものを忘れたまま先に進むところであった。

 失っても、取り戻せなくても、新たにつなげることはできる」


 曹操は、自らも袁紹に頭を下げた。

 身分の違いからではない、人間としての敬意。


「おれは、使えぬもの、理に適わぬものは全て切り捨てればよいと思っていた。

 おまえのことも、その相反する感情も、全て……。

 だが、それではだめだと分かった」


 曹操は、自分で言っていて恥ずかしくなり、少し顔を赤らめた。


「国も戦も政も、人が全ての根底にある。

 相反する人の感情が分からずして、人の世を治めることはできぬ……おれは少々、効率に囚われすぎていたのかもしれん」


 そうだ、囚われていたのは袁紹だけではない。

 曹操自身も、天下へと突き進むうちに人として大切な何かを失いかけていた。


  だが、今回の悪夢で、曹操はそれを取り戻した。

  袁紹の見せた憎しみと愛、二つの心は一つの中にあるのだと。


 曹操は、袁紹の冷たい手を温めるようにさすって言った。


「もし、おれがおまえの痛みを少しでも分かろうとしていたら、おれたちは手を取り合って二人で進めたかもしれぬ。

 そうすれば、互いを補い合って天下を平穏に導けただろう」


 すると、袁紹はバツが悪そうに苦笑した。


「いや、無理だな。

 私の方に、おまえを受け入れる余裕がなかった。

 おまえに会いに行くのにこれほど時間がかかったのは、私自身がおまえを疑いの目で見て、それを自分で止められなかったからだ」


 そこまで言うと、袁紹の目の焦点がぼやけた。

 どこか遠くを見るような目で、記憶を探りながらつぶやく。


「私は、おまえを呼ぶ前にその猜疑心を取り払わねばならなかった。

 親友も臣下も家族も信じられぬ、暗くて重い塊をどうにかせねば、次に手を伸ばすことができなかった」


 それを聞いて、曹操は少しだけ嫉妬を覚えた。


  袁紹を救うのに力を貸したのは、自分だけではない。


 親友も臣下も信じられなかった……つまりそれを解決したのは曹操でも辛毗でもない訳だ。

 その人物に会うまで、袁紹はどちらにも声をかけられなかった。

 そして、猜疑心と痛みの赴くままに長男を地獄に落としたのだろう。


 袁紹の穢れを払ったのは、曹操一人ではない。

 他に何人もの助けがあって、ようやく曹操に手が届いたのだ。


(全く、恥ずかしい限りだな……このおれが、先を越されるとは)


 だが、自然と怒りは感じなかった。


 袁紹を救うためには、誰の手が欠けてもいけない。

 誰かが猜疑心を和らげ、辛毗が真実に向き合う強さを示し、そして自分が最後に全てを払って今の袁紹がある。


  むしろ今は、向き合ってくれた誰かへの感謝でいっぱいだった。


「おまえは、良い縁を持ったな」


 曹操が声をかけると、袁紹は少し首をすくめた。


「良い縁ばかりではないがな。

 むしろ私は、良くない縁を切れずに持ちすぎていた」


 それを聞くと、今度は曹操が苦笑する。


「そうか、おれとは真逆だな。

 おれは要らないと思ったものは全て切り捨ててきたが……思えば、その中には切るべきでない良縁も混じっていたのかもしれぬ」


 二人は、顔を見合わせて笑った。

 自分たちは、本当にいい友達だ。


  つなぎ、守るのが得意な袁紹。

  切り、攻めるのが得意な曹操。


  二人で生きていけたら、きっとどんな苦難も乗り越えられたはずだ。


 惜しむらくは、それに生きている間に気づけなかったこと。


  袁紹の手を握る曹操の手は、温かい生者の手。

  曹操の手を握る袁紹の手は、冷たい死者の手。


 二人はもう、同じ世界にいない。

 どんなに心がつながっていても、もう現世で交わる事はない。


 二人が互いを補い合って進めば、きっと今よりずっと幸せな未来が開けたはずなのに……袁紹が命を落とした今となっては、それは届かぬ幻想に過ぎなかった。

 曹操は、自分と辛毗以外に誰が袁紹を助けたのかを知りません。

 袁紹も、それをわざわざ曹操に話したりはしません。

 それでも二人が穏やかでいられるのは、お互いを本当に信じあっているからです。今の二人がお互いを見て、その過去が悪いものではないと信じられるから。


 次回、曹操と袁紹は最後の別れを交わします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ