袁尚~金網の穴にて
袁紹との縁を辿って地獄から這い上がってきた劉氏をつてに、同じく地獄から上がってきた袁尚……彼には、大切な人に伝え残したことがありました。
しかし、その大切な人は地獄にいないため、今しか伝えることができないのです。
袁尚の大切な人、そして最後に抱いた家族への想いとは……これまでの袁譚編、孫策編、劉氏編を思い出しつつご覧ください。
「尚……おまえという奴は……!」
袁紹は、がくんと膝を折った。
目の前に、自分によく似た息子の顔が見える。
この子と同じ場所に行くことは、もうできない。
自分には、行くべき場所がある。
生前果たせなかった思い、届かなかった愛情を届ける場所へ。
嗚咽する袁紹を少しでも慰めるように、袁尚は言った。
「大丈夫だよ、父上。
きっとまた会える……地獄は閉じ込めるところじゃなくて、罰を受けて罪を償うところなんだよ。
だからきっと、煕兄さんとも……」
袁尚の言葉は、自分にも向けられていた。
最後まで一緒にいてくれた、大切な兄、袁煕。
彼と会えなくなるのは、袁尚にとっても辛いことなのだ。
袁尚は、そっと父の頬に手を伸ばした。
そして、焼けただれた手で冷たい涙を拭う。
「ねえ、父上……冥界で煕兄さんに会ったら、一つ伝言してもらっていい?」
息子の願いをこめた言葉に、袁紹はどうにか顔を上げた。
「何だ?」
袁紹が聞くと、袁尚は恥ずかしそうにはにかんで告げた。
「僕はね、自分が世界の王様みたいに思って、煕兄さんにもいろいろ恥ずかしい思いをさせちゃったから……そのこと、謝りたくて。
最後に僕たちが首をはねられる時も、煕兄さんにたしなめられてさ。
あの時は死ぬのが怖くて、ごめんも言えなくて」
袁尚の言葉には、袁煕への後悔がにじみ出ていた。
袁尚は、少しうつ向き加減になって続ける。
「首をはねられる時にね、僕と煕兄さんは湿った土の上にそのまま座らされたんだ。
そんな風に扱われたのは初めてだったし、せめて死ぬ時くらいもう少し優しくしてくれよって、的外れなことばかり思ってさ。
それで、僕、煕兄さんの見てる前で公孫康に言ったんだ」
そこで、袁尚は一旦言葉を止めた。
顔が、火傷とは別に赤くなっている。
自分でも、相当恥ずかしいのだろう。
でも、父と兄に気持ちを伝えられるのは、次がいつになるか分からないから。
袁尚は、ちょっと震えて調子の外れた声でささやいた。
「足が寒いからむしろを敷いてくれって……。
バカだよね?これから首をはねられるのに……兄さんがどんな思いをしたか……」
それを聞いて、袁紹は拍子抜けしたような顔をした。
息子のあまりの愚かしさに、開いた口が塞がらない。
曹操も、その話は聞いていた。
公孫康の使者が、袁煕と袁尚の首を持ってきた時だ。
袁家の兄弟は、最後まで無様でありました。
使者は含み笑いを漏らしながら、曹操に告げた。
弟の袁尚は最期に足が寒いとむしろを求め、兄の袁煕が見かねてそれをたしなめた。
「これから首が万里を旅立つのに、なぜ今むしろが要るのか!」
きっと、袁煕も相当恥ずかしい思いをしたに違いない。
これを聞いた時は、曹操も呆れ果てて失笑した。
袁尚は、そこまで愚かに育てられていたのだ。
その元凶は、今目の前にいる醜い女、劉氏だ。
劉氏は自分が息子を操りやすいように、息子に欲しがるものを何でも与えて反抗心を奪い、虚構の王様に仕立て上げた。
その結果、袁尚は死して父にも兄にも会えなくなってしまった。
せっかく兄に非礼を詫びる気になっても、もうそれを伝えることができない。
袁尚は、それを何より心残りに思っていたのだ。
「冥界で煕兄さんに会ったら、伝えて……。
あの時は寒かったけど、こんなに熱くて毎日焼かれる地獄に行くなら、むしろなんて全然いらなかったよって!」
袁紹は、無言でうなずいた。
それを見て、袁尚も安心したように微笑む。
これでもう、心残りはない。
袁尚はすっきりしたように一つ吐息を漏らすと、母の髪をぐいっと引っ張った。
「さあ、そろそろ母上を連れて帰らなきゃ。
地獄に落ちた人間が、あまり長くこんな所にいたら罪が重くなっちゃうもの」
袁尚は、いきなりそっぽを向いて問いかけた。
「ねえ、鬼さん?」
その言葉に、袁紹と曹操ははっと袁尚の視線を追った。
その先には、ずっと袁紹についていた小鬼が佇んでいた。
「なっ!?」
驚いている二人の前で、小鬼は淡々と言った。
「せやなあ、地獄からの脱獄は感心せえへんで。
何や変な気配がするから来てみたら、やっぱり上がって来とったか。
こらあ、この奥方はんは厳罰加算やなあ!」
小鬼の困ったような視線は、劉氏に向いていた。
そうとも、この小鬼の役目は魂をあるべき所に振り分けることだ。
地獄にしてみたら、劉氏のように脱獄を企てる罪人は論外だ。
罪は、罰を。
劉氏は、さらに深く暗い奈落に落ちねばならない。
それを聞くと、袁紹は震える声で言った。
「ま、待て……劉はいい、だが尚は……。
尚をこれ以上重い罰に処するのだけは、勘弁してやってくれ!!」
袁紹にとって、劉氏は元々他人だし、最も憎むべき仇なので厳罰で構わない。
しかし袁尚は、ただ育て方を間違えただけの最愛の息子なのだ。
それを聞くと、小鬼は少し困った顔をした。
「うーん、せやなあ……息子さんの方は、脱獄したい訳やないから加算はありませんわ。
けど、こんなにしっかりしがみついとると、離れてくれへんとどうしても一緒に落とすことになりまっせ」
「!?」
袁紹は、雷に打たれたようにばっと袁尚の方を振り向いた。
袁尚は、母の髪を乱暴に掴んで引き寄せ、母の首に手をかけてしっかりとつかまっている。
劉氏が袁尚を引きずっているのではない。
袁尚が、劉氏を放さないのだ。
父の視線に気づくと、袁尚は嫉妬の形相で唇をとがらせた。
「だって、しょうがないじゃない……。
生きてた時は、母上は父上にばっかり構って僕をしっかり見てくれなかったもの!
母上は僕の母上なんだよ、父上の母上じゃない!!」
そう言われて、袁紹はようやく気付いた。
袁尚は、自分に母上を取られたと思っていたんだ。
劉氏が袁紹の母への思いに応じれば、当然本当の息子は嫉妬する。
袁紹が劉氏と母を重ねたがために、袁尚は寂しい、歯がゆい思いをし続けていたのだ。
だから袁尚は、地獄で会えた母にしがみついた。
そして、もう二度と誰かに取られたりしないように必死で抱きしめている。
母への想いゆえに、袁尚は劉氏から離れられなくなってしまったのだ。
伝えたいと思った時に、相手は近くにいない……現代でも時々あることです。
これほど通信手段が発達している現代でも、死は全てを分かちます。そして死の先に行く場所が、相手とは違う場所だとしたら……。
袁尚は、最後に自分を叱ってくれた兄にことづけを頼みたくて、袁紹の前に現れたのです。
そして、劉氏もまた袁尚にとっては大切な人です。
父が母を自分の母として見ていたら息子はどんな気持ちになるか……これは袁紹と劉氏の歪んだ関係を裏から見た図でもあります。