袁紹~悪夢の鍋底にて(6)
この悪夢行は、袁紹の家から発した悪夢の物語でした。
しかし、これまで袁紹の家族でありながら、姿を現していない息子が二人います。会話中などには出てくるものの、彼らに袁紹との直接の接触はありませんでした。
そのうちの一人、劉氏にも強いつながりを持つ最愛の息子が、袁紹の前に姿を現します。
「ヒ、ひぃい!た、助けて……!」
劉氏は、必死で頭を振って何かを振りほどこうとしていた。
しかし彼女を掴む手は緩まず、体をよじることでかえって指が金網から滑っていく。
不意に、劉氏の濁った目が袁紹の方を向いた。
すがるような目で、袁紹を見つめて妙に高い声をかける。
「た、助けてあなた……私は、あなたの、おかあさ……!」
言葉が終わる前に、劉氏の頭が後ろに反り返る。
「げぁっ!?」
蛙よりも醜い声を上げて、劉氏はもがいた。
袁紹は、そんな劉氏を冷めた目で見つめて言った。
「おまえは、私の母上ではない」
はっきりと、目を見据えて拒絶する。
愕然とする劉氏の頭を、何者かの手が掴んだ。
そうだよ、おまえは……
劉氏の後ろで、今度ははっきりと声がする。
「おまえは、僕の母上だもの。
お父上の母上なんかじゃない!!」
それを聞いた途端、袁紹は驚愕した。
劉氏は、自分の母上ではない。
だが、劉氏は確かに母上だった。
劉氏を母と呼び、自分を父と呼ぶのは……。
劉氏の首を折らんばかりに力をかけて、それはずるりと這い上がる。
血に濡れたような乱れた黒髪。
ところどころ焼けただれ、破れて醜く崩れた肌。
そして、袁紹によく似た若い美貌の面影。
彼は袁紹を見つけると、後悔と謝罪のにじんだ切ない顔を向けた。
「お父上……」
それを見た瞬間、袁紹は息が止まりそうになった。
「おまえは……尚、か……!?」
袁紹は、この顔と声に覚えがあった。
劉氏と二人で、愛して育てた。
劉氏の押しが強かったせいもあるが、子の中では一番信じて愛していた。
この子を後継ぎにするために、他の兄弟たちにみじめな思いをさせてしまった。
これは、自分と劉氏の子、袁尚ではないか。
しかし、素直に喜ぶことはできなかった。
袁尚は今、劉氏を地獄に引きずり込もうと這い上がってきたのだ。
腐臭の煙る地獄の穴から、この悪夢の世界へと。
なぜ、袁尚が地獄にいる!?
驚いて口をぱくぱくする袁紹に、袁尚はちょっと気まずそうな顔をした。
「ごめん、父上……兄弟殺しは、ダメなんだってさ……」
「!!」
袁紹は、声にならない悲鳴を上げた。
そうだ、袁尚は劉氏に言われて、腹違いの兄弟を皆殺しにしてしまったじゃないか!
袁紹が可愛がっていた妾と、その子供たちをみんな……。
袁尚は、劉氏にこの上なく可愛がられて育った。
劉氏が甘やかし放題に育てて、そのうえ自分の歪んだ思考を幼い心に刷り込んだ。
そして、その愛しい母に言われるままに、取り返しのつかない大罪を犯してしまった。
哀れ、袁尚は微塵も悪と思わぬその行為で地獄に落とされてしまったのだ。
「だが、尚よ……おぬし、あ奴らの弔いは……?」
ぐらぐらする頭を支えながら、袁紹は必死で口を開いた。
袁尚がいかなる最期を辿ったのかは、かつての配下に聞いている。
だが、その中で、袁尚は自分が殺めた兄弟を弔うと誓っていたはずだ。
それを聞くと、袁尚は困ったような顔をして、顔を伏せた。
「ごめん、間に合わなかった……。
いつかやる、いつかやるって……逃げることに精いっぱいで、自分が生きてなきゃってそればっかり考えて逃げて……。
やろうって思ってたけど、結局何もやらずに首を切られちゃったよ……!」
袁尚は、心底すまなさそうな顔で明かした。
「心で思ってても、生きてる間にやらなかったからダメなんだってさ!」
袁紹は、視界が歪んで倒れそうになった。
袁尚は最期に、それでも生きている間に過ちに気づいたのに。
目先に囚われて結局何もしなかったせいで、罪状通り地獄に落とされてしまったのだ。
ふらつく袁紹を横から支えながら、曹操が厳しい目で見下ろして話しかける。
「逃げている間に、寺などいくらでもあったろう。
それに、もう再興などできぬと分かっていたはずだ」
曹操は、袁尚の逃げた道も最後にたどり着いた地も知っている。
だって、袁尚を最後に追い詰めたのは曹操なのだから。
それを聞くと、袁尚は苦笑した。
「そうだねえ、今思えば全くその通りだよ。
でもあの時は、一歩でも早くおまえから逃れたくてさあ……結局、首を切られるのが早まっただけだったけど!」
袁尚と兄の袁煕は、曹操から逃れて遼東の公孫康の下へ逃げ延びた。
そして、公孫康に首をはねられ、曹操の下に送られた。
「あ、あああ……!!」
曹操の腕の中で、袁紹が悲鳴を上げて崩れ落ちる。
自分の子が、もう一人地獄にいた。
自分が地獄に落とした子ではなく、一番愛して育てた子が地獄にいた。
袁紹は、袁尚に幸せになってほしかった。
それを望んだからこそ、袁尚には欲しがるものを何でも与えた。
それが仇になって、袁尚が地獄から上がってくるところを見ることなるとは。
自分は、一体何なのだろう。
幸せにしようと愛したはずなのに、結局罪に染めてしまっただけではないか。
袁紹は、後悔に胸が張り裂けそうだった。
自分がもっと厳しく躾けをして、きちんと育てていればきっとこうはならなかった。
自分が劉氏の言いなりになってしまったせいで、子供の未来を閉ざしてしまった。
袁紹は、震える手を息子に伸ばした。
「尚よ……すまぬ……この上は、わしも地獄に……!」
「待て、袁紹!!」
曹操が、慌てて袁紹を押さえつける。
だが、袁紹は涙を流して息子に手を伸ばした。
誰よりも愛し、幸せにあれと願った息子……
そして、誰よりも重い罪に染めてしまった息子。
袁尚は、そんな父親を前に、一瞬嬉しそうな顔をした。
しかし、すぐにそれをぐっと飲み込んで、小さく首を振った。
「ダメだよ、父上は地獄なんかに来ちゃあ。
父上の本当に会いたい人は、地獄にはいないんでしょ?」
袁尚は、袁紹の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「煕兄さんは、冥界にいる。
行って、謝らなくちゃ」
その言葉に、袁紹ははっと心を引き戻された。
自分の本当に会いたい、誰よりも求めていた人は地獄にいない。
無実の罪で見捨ててしまった袁煕と……
それから、会いたくてたまらなかった本当の母上も。
それに気づいた時、袁紹の双眸からさっきとは別の涙が流れた。
袁尚の説明は、袁譚編の廃屋で語られています。
物語をおさらいしてみたら、劉氏と袁紹にこんなに関係が深いのに、これまで登場させていませんでした。
さらに袁尚は、曹操とも何度も戦った仲です。
ちょっと世の中を舐めた感じの傲慢息子、袁尚……彼はどうしてここに現れたのでしょうか。