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袁紹的悪夢行  作者: 青蓮
最終章~曹操孟徳について
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曹操~悪夢の鍋底にて(1)

 ついに、ラスボスと対面です。

 囚われた袁紹と、救おうとする曹操、そして二人を地獄に落とそうとする劉氏……それぞれの思いが絡み合い、ようやく最終ステージです。


 実母への想いに付け込まれて、戦う力を奪われてしまった袁紹……曹操は、この悲しい親友を救えるのでしょうか。

 金網の廊下を、カツカツと音を立てて歩く。

 怪物のうめき声は、もう聞こえない。

 聞こえるのは、ごうごうと吹き上げる地獄の風の音ばかりだ。


 血管というよりは、もはやのたうつミミズにようなものが這う廊下を、曹操は進んでいく。

 廊下の先には、光が見える。


  暗闇に、救いを与えるかのような光。

  おぞましい世界の中で、ここには救いがあるよと旅行く人をひきつけるような。


 しかし、それが本当の救いでないことは分かっていた。

 廊下の果てに着くと、その先には金網の広場が広がっていた。

 広場のあちこちで、この世の負の感情を顕現したような恨めしい炎が燃え盛っている。


(地獄の炎……か)


 その中央に、赤黒い穢れが集まっている場所があった。


 これまで幾度となく見てきた、詰まった血管のようなもの……それが壁から離れ、絡まり合うように集まっている。

 いや、そもそも穢れはそこから広がっていると見た方が正しいかもしれない。


  曹操の目には、それが巨大な蜘蛛の巣に見えた。


 血と膿と錆でできたおぞましい巣の中央に、そこにふさわしい化け物が鎮座していた。


 長く垂れた真っ白なざんばら髪、深いしわが刻まれてくしゃくしゃになった顔、その表情は悪意と狂気に染まっている。

 曹操は、この顔を見たことがあった。


  ここに招かれる前、許昌で目にしたあのおぞましい光景。

  棺の中に横たわっていた、旧友の妻。


「劉氏……」


 曹操が名を呼ぶと、そいつはにたぁっと笑って曹操の方を向いた。


「ずいぶんと、変わった姿になったな。

 いや、これがおまえの本性か」


 劉氏の体は、もう人間とは似ても似つかなかった。


 骨と皮に穢れた血管をまとう悪鬼、内臓と呼べるものはなく、むき出しの肋骨の中には繭のようなものを抱いている。

 体の骨格全体が虫のように醜く折れ曲がり、老婆の顔をした蜘蛛のようだ。


  腹に抱かれた繭から、見覚えのある腕が突き出していた。


 粘って糸を引いた血からそのまま引いたような、赤い糸の塊……そこから、一本の人間の腕が突き出ている。

 力を失ってだらりと垂れさがる、形の整った手。

 それが誰の物かは、すぐに分かった。


「劉氏よ、今度はおまえが夫を連れに来たか?」


 曹操が問うと、劉氏は嬉しそうに濁った眼を細めた。


「ええ、そうよ。

 だって、私だけを地獄に落とすなんておかしいじゃない?

 そもそも、こいつが私の言う事を聞いてもっと容赦なくやってれば、袁家の栄光は約束されていたのに……」


 元が人だったとは思えぬ、低く不気味な声でつぶやきながら、劉氏は腹に抱えた繭を苛む。

 肋骨の一本一本が節を持ったような歪な足を動かし、先端の鋭い爪で眉を引っ掻く。


「本当、聞き分けのない夫だこと……。

 子供たちの仇であるおまえなどに、救いなんか求めてねえ!

 こいつに、子供を思う心なんてあったのかしらあ」


 曹操は、その言葉を静かに聞いていた。

 そして、劉氏の濁った瞳を真っ直ぐに見つめて聞き返した。


「おまえには、あったのか?」


 すると、劉氏は一瞬目をぱちくりとした。


「何を言っているの?

 あるに決まってるじゃない。

 私は常に、夫と子供の幸せを願って行動してきたわ!」


 人を小馬鹿にしたような口調で、劉氏は答えた。

 しかし、曹操はそれを信じる気にはなれなかった。


  袁家滅亡の最中、劉氏はどうしていた?


 袁紹の死後、曹操が兄弟の争いに乗じる形で袁家の本拠地を制圧した際、劉氏はそこにいた。

 そして、北で逃げ続ける息子のことなど気にすることなく、さっと曹操に降ってしまった。

 あまつさえ、曹操の息子の曹丕が袁煕の妻である甄姫に手を出しても、己の保身のためにそれを止めようともしなかった。


 彼女がしたのは、ただ自分の贅沢な暮らしを守る事だけだ。

 寒く荒廃した北の果てで、それでも袁家の復興を夢見て戦い続ける息子のことなど、露ほども考えていなかった。


「……詭弁だな。

 本当に息子のことを思っていたなら、やるべきことは他にたくさんあったはずなのに」


 曹操は、呆れ果ててつぶやいた。


「結局、おまえは己のことしか考えておらぬのだ。

 その時々で自分に都合のいい理由を見つけては、他者の心を抉って従わせる。

 袁紹も、難儀な女を娶ってしまったものだ」


 それを聞くと、劉氏はひどく嫌味な顔をした。


「あら、災難だったのは私の方よ。

 名族の嫡子って思っていたのに、こんな下賤の分からず屋を掴まされて……。

 そのうえ、あなたみたいな成り上がりに子供を殺されて……」


 そこまで言うと、劉氏は悪意をむき出しにしてかあっと口を開いた。

 固く乾いた唇が耳まで裂けて、黄ばんだ乱杭歯がむき出しになる。


「だから、せめてここで子供の仇を取らせてもらうわ。

 あなたも夫と一緒にいたいなら、地獄でいつまでも一緒にいたらいいじゃない。

 親友なんでしょ?だったら私たち夫婦と一緒に、地獄にいらっしゃい!」


 肋骨が変化した腕が、ぐわっと伸びて広がる。

 劉氏は腹に血の繭を抱いたまま、ずるりと巣から這い出した。


 曹操は、それを見て一つため息をついた。

 一旦体の力を抜いて呼吸を整え、神経を集中させる。

 そして、体にみなぎる英気を注ぎ込むように、白銀の刃を抜き放った。


「それは聞けぬな。

 おまえの言葉に、道理などあるものか!」


 強い意志のこもった目で、正面から化け物を見据える。


「劉氏……どこまでも罪深い女よ。

 親友でもないのに子供の仇に保護を求めたのは、おまえではないか!

 そんなひどい女のもとに、親友を残しておけぬ」


 揺るぎない光を宿す切っ先を劉氏に向けて、曹操は言い放った。


  今こそ、償いの時だ。

  親友の気持ちを理解できず、袁家を滅ぼすことになってしまった自分の。

  そして、夫を人として見ることなく好き放題に利用して生きた劉氏の。


 曹操の、名剣の光が闇に一筋の光明を映し出した。

 劉氏は、息子の袁尚が曹操に追い詰められて北へ逃げている間も、ずっと冀州にとどまっていました。

 そして、曹操がそこを制圧すると、あっさりとその庇護下に入ってしまったのです。

 普通、家族が敵の手に落ちるとその身を案じて本気で戦えなくなってしまうので、劉氏のこの行動は袁尚の身になって考えたら有り得ない愚行です。

 結局劉氏は、袁紹のことも袁尚のことも家族として考えていなかったのです。

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