袁紹~悪夢の鍋底にて(1)
すみません、最終決戦の前に、袁紹のパートを少し入れます。
劉氏は劉氏編の最後で、袁紹が地獄に落としたはずでした。
しかし、そんな彼女の影は未だに袁紹の悪夢に色濃く残っています。
なぜ彼女がここまで悪夢に干渉を起こせるのか……この話ではそれを解き明かしていきます。
血と膿と錆に覆われた金網が、広い空間に一応の仕切りを作っている。
この歪な世界と、どこまでも暗い地獄をかろうじて隔てている。
この腐臭に満ちた部屋で、袁紹は囚われていた。
「くくっ……フフフ……!」
そんな袁紹の苦しみを嘲笑うように、女の声が響く。
声は、袁紹の頭上から聞こえていた。
真っ白な乱れた髪が、袁紹のほおをざらざらと撫でる。
逃れたくて仕方がないのに、身じろぎすることすらできなかった。
袁紹は、拘束されていた。
粘って糸を引く血がそのまま糸になったような、生臭くて真っ赤な糸が袁紹の体をがんじがらめに縛っていた。
体だけではない、袁紹の周りには縦横無尽にその穢れた糸が張り巡らされていた。
その垂れさがる糸の中に混じって、はるかに太いミミズにようなものが蠢いている。
その肉の紐は、足元にぽっかりとあいた穴に吸い込まれていた。
下に広がる際限のない奈落に、どこまでも長く伸びている。
おそらく、地獄にいる彼女自身とつながっているのか。
自分も結局そこに行くことになるのかと、袁紹は目だけで暗黒の釜を見下ろした。
すると、彼女はもったいぶったように言う。
「まだ……まだ落としはしないわ。
こうしてあなたを捕まえておけば、あの成り上がりがここに来るものねえ!」
それを聞くと、袁紹の眉間にぎゅっとしわが寄った。
(この女、曹操のことも狙っておるか……!
だがあいつのことだ、きっと危険を承知でここに来るだろう)
自分を救うんだと、持ち前の強い意志でここに向かっている曹操を思うと、袁紹は激しい後悔に襲われる。
こいつは、ただの自分の悪夢ではない。
明確に悪意を持った、地獄にいるあの女とつながっている。
自分が自らの遺志で地獄に落とした、あの女と。
そもそも自分があの女を地獄に落とした時点で、こうなることは想像がついたはずなのに。
そのうえで自分は本当の母を求めるなど、思い上がりもいいところだ。
自分が諦めていれば……あの楼閣での悪夢を解こうと欲を出さなければ、この事態は避けられたはずだ。
(……くくく、やはり私は肝心な時に判断を誤るな)
袁紹は、自嘲めいた笑みを浮かべ、ここに来るまでのことを思い返した。
劉氏を地獄に落とした時は、これでけりがついたと思ったのだ。
劉氏は、その身一つで地獄へと落ちていった。
あの女がすがるものはもう何もない。
これで自分はあの性悪女から解放されたのだと。
だが、袁紹が実の母に会おうと楼閣の最上階に踏み込んだ時、その予想は覆された。
清浄な香の香りに混じって、わずかに胸が悪くなる甘ったるい香り。
だが、袁紹は気のせいだと自分に言い聞かせて部屋に入った。
最愛の実の母がいる、どこよりも大切な部屋に。
「母上!」
白く清らかなカーテンに包まれた、母の幻影。
自分が顔を知らないせいで、自分もその顔を見ることができない大切な人。
袁紹は、お別れを言いに来たつもりだった。
実母は、袁紹が幸せになることを望んでいた。
だから、自分はもうすぐ幸せになれるのだと告げて、母を安心させたかった。
それに、母の願いが叶うのだと伝えれば、この幻はすぐに消える気がした。
「……母上」
しかし、袁紹の足は母のいる寝台に達する前に止まった。
心の中に引っかかる呵責が、足を止めた。
自分は、息子の母を殺めてしまった。
自分は母に会いたいと渇望しながら、可愛い息子を産んだ母を地獄に落としてしまった。
これは、許されることなのか……。
戸惑う袁紹に、寝台の中から声が響いた。
「ワタシの、本初……」
聞いた途端、背筋に鳥肌が立った。
いつもの母上の声ではない。
自分の知っている、あの女の声が強く通っている。
「……劉?」
まさか、あの女は地獄に落としたはずだ。
嫌な予感に足を止めた袁紹の前で、寝台のカーテンがふわりと揺れる。
ざわざわと不穏な風が吹き、甲高い笑い声が響く。
「ほほほ!ようやくここに来たわねえ。
愛しい我が子……いえ、我が夫」
哄笑とともに、生臭い空気がごうっと渦を巻く。
袁紹は、すぐに危険を感じて逃げ出そうとした。
しかし、身をひるがえすことはできなかった。
まるで金縛りにあったように、体が言う事を聞かなかった。
「ウフフフ……本当に、愚かな男だこと。
自分が子を産ませた妻を殺しておいて、自分はお母さんに会えるとでも思って?
とんでもない、そんな甘い願いなど叶う訳がないわ!!」
袁紹の心を抉る、罵倒が流れてくる。
風が勢いを増し、寝台のカーテンが中を露わにするように浮き上がった。
白い手足、大きな体……それにからみつく、赤黒い何か。
その瞬間、袁紹はこの幻影が乗っ取られたことに気づいた。
だが、もはや自分では逃れることができない。
「くっ……なぜ……なぜここに来た!!」
息をすることさえままならない重圧の中で、袁紹は聞いた。
自分は確かにあの時、劉氏を地獄に落としたはずだ。
劉氏とこの世をつなぐものなど、もうない。
それなのに、なぜ劉氏はここに現れた?
それを聞くと、再び勝ち誇ったような哄笑が響いた。
「ほーっほっほっほ、愚かな男!
母としての私に未練を持ったのは、あなたの一部でしょうに。
あなたが異界に呼び出したあの夫婦の寝台、裏側ではもう一つの寝台につながっていたわ。それが、ここよ!」
袁紹は、愕然とした。
自分はあの時、まだ二つに分かれていた。
そしてそんな自分が作り出した世界も、表と裏があった。
表の世界で思い入れの強い何かは、裏の世界でよく似たものにつながっている。
表の自分が大切にしていた劉氏との寝台……
裏の自分が大切にしていたのは、楼閣にある実母の……
目の前の寝台を包むカーテンは、小刀で切ったような傷がついてほつれていた。
そしてそこから伸びた一本の糸が、奈落へとつながっていた。
劉氏を地獄に落とした当時、袁紹はまだ表と裏に分かれていました。
そして、表の袁紹が妻を息子の母にした寝台が、裏の袁紹が司る実母の寝台と密接にリンクしていたのです。
表の袁紹は劉氏を切り捨てたつもりでしたが、実母を強く慕う裏の袁紹が母を切り捨てることに呵責を覚えてしまい……表の糸は切れても裏の実母の寝台からつながる糸が切れていなかったのです。
劉氏はそこにつけこみ、実母の幻影を乗っ取ってしまったのでした。