曹操~深淵の冀州城にて(5)
曹操と袁紹は、生前境遇の違いからお互いを理解できなくなり、すれ違ったまま終わりを迎えてしまいました。
そして自分の死後、終わったと思っていた関係を伝って自分を助けようとしてくれている曹操に、袁紹は本心を語ります。
涙で浮き出る手紙は、辛毗の時と同じ。
袁紹が面と向かっては言えなかったけれど、曹操に伝えたかった言葉とは。
こぼれた涙が、机の上に敷かれていた真っ白な紙に染みを作った。
じわりと広がる透けた部分に、黒い線が浮かび上がった。
曹操は、涙を拭ってその紙に目を移した。
「これは……」
手の甲を伝った涙が、また一粒机の上に落ちる。
紙に水分が広がるにつれて、また黒い模様のようなものが浮かび上がる。
何となく、想像がついた。
これは模様ではない、文字だ。
机の上には、細い口の真っ白な花瓶が置かれていた。
曹操が手に取って揺らしてみると、ぱちゃぱちゃと水音がした。
二つ目の館にあった、辛毗の手紙と同じだ。
曹操は、無言でその花瓶を傾け、透明な液体を紙の上に注いだ。
紙が水を吸ってふやけていくのに合わせて、円が広がるように文字が浮き出ていく。
<愛しい私の親友へ>
それは、袁紹からの手紙だった。
<おまえがここまで助けに来てくれたこと、本当に嬉しく思う。
私はおまえほど強い人間ではないから、結局楽になりたいと願いながら一番苦しい道を歩き続けることしかできなかった。
私の弱さでおまえとの関係まで壊してしまって、おまえの道を阻む結果になってしまったこと、本当に心苦しく思っている>
曹操は、袁紹と過ごした半生を思い出しながら、その手紙を読み進めた。
<思えば、私は己の悪夢から逃れることに手一杯で、とても天下など見つめている余裕はなかった。
だから、結局はおまえの配下になって引っ張ってもらうのが正解だったのかもしれない。
だが、私にはその決断がつかなかった。
母の顔を持つ劉氏が私に、立派に天下を治めろと脅迫のように言っていたし、それに……私によく似た尚が、私を信じて笑うから>
家族の肖像の中の幼児は、とても幸せそうな顔をしていた。
無垢な輝きを秘めた目で、希望に満ちた未来を待っていた。
<私は、私によく似た尚をできるだけ幸せにしてやりたかった。
もし私がおまえに降ってしまったら、尚の約束された輝かしい未来を奪ってしまうのではないかと思えて、怖かった。
尚を幸せにしてやれれば、幼い頃の私も救われるような気がして>
やはり、袁紹にとって袁尚は息子であると同時に自分の投影でもあったのだ。
だから袁尚に何不自由なく生きさせるために、天下を手にしようと無理をして戦った。
<だが、結局は私も、息子に自分の悪夢を押し付けていただけなのかもしれない。
曹操、おまえの言うように、ただ名家の長として天下を治める事だけが立派な生き方ではないのだとしたら。
私は、己の悪夢に急かされて天下を目指し、たくさんの人を悪夢に巻き込んでしまった>
曹操は、袁紹が没した後の袁家掃討の戦を思い出していた。
袁紹の息子たちは、なぜ自分たちが争っているかも分からないまま滅んでいった。
多くの忠臣たちが、袁紹の遺志を守ろうとして殉じた。
何の罪もない河北の民が、戦火に家や畑を焼かれた。
ようやく悪夢の全体が見えるようになった袁紹にとって、この惨禍は後悔してもしきれないものだった。
自分が楽になりたくて悪夢に流された結果、どれだけ多くの人に悪夢をまき散らしたのかと思うと。
<私は、旅の途中で弟の術を地獄に落とした。
だが、ふとこう思う時がある……私と術は、果たして何が違うのだろうかと。
術は己の欲望のために他人に迷惑をかけていたが、私とて結果は同じだ。私も術と同じように、地獄に落ちた方がいい人間ではないのかと>
曹操のほおを、生臭い風が撫でる。
この廊下の奥から流れてくる、地獄からの風だ。
<だが、おまえや辛毗はこんな私を許してくれるという。
おまえの言う通り、私が幸せになっていいなら、私は今度こそそれを願う。
こんなところまで私を助けに来てくれた、おまえの好意に甘えさせてもらおう。おまえには迷惑をかけっぱなしだな……>
目の前に、柔らかく微笑む袁紹の顔が浮かんだ気がした。
曹操は、目頭を押さえながら、この先にいる親友に応える。
「そう改まらなくていい、おれたちは、親友じゃないか。
おれの方こそ、おまえの気持ちも分からず、おまえの大切なものを奪い去ってしまった。
その罪滅ぼしをするだけだ」
眼前にかかっている袁紹の家族、その中で自分が奪わなかったのは劉氏だけだ。
本当はそいつが悪魔であったと気づくこともできず、子供を全て殺してしまった。
自分の方こそ、袁紹のかけがえのないものを奪ってしまったと、今なら分かる。
袁紹の感謝と謝罪の手紙は、こう締めくくられていた。
<曹操よ、おまえが私を助けてくれるというなら、止めはしない。
だが、この先に足を踏み出せば、地獄の釜に片足を突っ込んだのと同じだ。下手をすれば、おまえも一緒に地獄に引きずり込んでしまうことになるかもしれない。
そうならないように、一つだけ逃げ道を置いていく>
ことり、と小さな物音がした。
見れば、曹操の足元に、荊の枝が落ちていた。
<もしおまえが危なくなったら、これにおまえの血をふりかけろ。
これはおまえを助けたいという私の心だ。これに血を振りかければ、その者の魂は強制的に現世に送り返される。
私は、おまえを死なせたくない。どうか、無事で>
曹操は、そっと荊を拾い上げ、懐にしまった。
袁紹は、どこまでもお人よしだ。
自分を助けてと言いながらも、曹操の身を案じてこんなものまで用意してくれるとは。
「心配するな、おれはやると言ったことはやり遂げてみせる!」
積年の思いを明かしてくれた親友に応えるために、曹操は足を進める。
きっとここで袁紹を救えたら、自分と袁紹は本当の意味で親友になれるのだと思う。
蒸し暑い地獄の風が、その決意を手折らんとするように吹き付ける。
だが、今の曹操にとってはそんなものそよ風のようなものだ。
生前救ってやれなかった友を、今度こそ救う。
赤と黒に汚された世界で白銀に光る名剣を手に、曹操はついに地獄の入り口へと踏み込んでいった。
どこまでも暗い穴の底、悪夢の終着点へ。
次回、ついに最終決戦の幕が上がります。
袁紹は、曹操に最後の保険として脱出のための荊を残してくれました。
荊については、かつて曹操と袁紹が花嫁泥棒をした時に袁紹が荊にからまって動けなくなってしまい、曹操が「ここに泥棒がいるぞ!」と叫んで袁紹を驚かせ、荊から抜けさせたという逸話があります。
この荊は、袁紹の恩返しなのです。