曹操~深淵の冀州城にて(3)
また別の館の記憶とリンクした追体験です。
袁紹にとって、袁尚の子育ては、聖母と行う聖なるものでした。
しかし、袁尚がどんな性格に育ってしまったかは……袁家滅亡の経緯をたどれば、おそらく想像がつくはずです。
中庭を出てしばらく行くと、ぽつりと明りの灯った部屋があった。
そこだけが取り残されたように、血の穢れがないきれいな部屋。
中には、子供用の机といすが置かれていた。
そしてそれに寄り添うように、美しい刺繍の女もののいす。
まるで、寄り添う母子のように。
その部屋は、調度品や作りから見れば、袁紹の部屋に似ていた。
しかし、その部屋には子供を楽しませるための物があふれていた。
たくさんの玩具や書物、装飾品などが片づけるのも面倒と言わんばかりに散らかっていた。
「この部屋は……」
曹操は、その部屋に見覚えがあった。
自分が冀州城を落とし、かつての袁家の居室に踏み入った時。
もっとも、その時に部屋を満たしていたのは別のものだったけれど。
曹操が見たのは、豪華な調度品やこれ見よがしに置かれた宝物で満ちた部屋だった。
袁術まではいかないものの、上品に見せようとしながらも富と贅沢を見せびらかす高慢な男の部屋だった。
今のこの部屋は、ちょうどその男が子供の頃の部屋だろうか。
(そうか、ここは袁紹と劉氏の……!)
その部屋の持ち主は、おそらく袁尚だ。
袁紹と劉氏が、あらん限りの愛情を注いで甘やかして育てた子供の。
急に、部屋が明るくなった。
色あせていた部屋が色彩を取り戻し、人の暮らすのどかな空気が流れ始める。
その気配が現実となるように、曹操の眼前に一組の家族が現れた。
まぎれもなく、若い頃の袁紹と劉氏、そして幼い袁尚だ。
劉氏は袁尚を膝に乗せ、玩具を与えて遊ばせる。
袁紹はそれを幸せそうに眺め、可愛い息子の相手をしてやる。
本当に幸せで、満たされた家族だった。
その部屋に袁譚や袁煕はおらず、そこは三人のためだけの楽園だった。
不意に、袁尚が玩具を床に落とした。
「あっ!」
袁尚の見ている前で、玩具は床にぶつかって壊れてしまった。
袁紹は少し慌てた顔をしたが、劉氏は平然としている。
「大丈夫よ、尚。
また買えばいいわ、代わりなんていくらでもあるんですもの」
こう言って、床に落ちた玩具には見向きもしない。
仕方なく袁紹がそれを拾って、息子を諭すように言う。
「尚よ、あまり物を粗末にしてはならぬぞ。
物や人を粗末にすれば、必ず自分に返ってくるのだ。
だから、次からはよく注意して……」
しかし、袁尚はその説教が不快だったらしく、ぷいと顔をそらしてしまう。
「こら、わしの話を聞け!」
袁紹が手で顔を掴んで自分の方を向けると、今度はぷうっとふくれっ面をする。
はなから、聞く気などないのだ。
それを見ていた劉氏は、袁尚のほおにかけられた袁紹の手をはがしながら言った。
「あまり子供を責めないで!
この子が嫌がってるのよ?あなただって、親に嫌なことを強要されるのは嫌だったでしょう」
ぐさり
とたんに、袁紹の顔が何かを思い出したように暗くなった。
思い出したのだろう……自分が今の袁尚くらいの年の頃、袁術の館で受けていた仕打ちを。
毎日毎日、継母にいびられて育った。
嫌だと言ってもやめてもらえなくて、常に針のむしろに座っている心地だった。
何もかもが、自分の思い通りにならなかった。
劉氏はそんな袁紹を底冷えのするような目で見つめ、憐れむように言い放つ。
「それとも、あなたは自分がした嫌な思いを子供にも押し付けるの?
……せっかく幸せになれたのに、ねえ……?」
その言葉には、軽蔑と恫喝が透けて見えた。
劉氏は、袁紹の生まれをなじっているのだ。
名家の子供というのは、何不自由なくのびのび育つものよ。
名家の子が、何かを自分の思い通りにできなくてどうするの?
これから世の中を思い通り動かすんだから、わざわざ卑屈に育ててどうするのよ?
それは、幼少の頃、妾の子として蔑まれてきた袁紹へのあてつけでもあった。
名家の子には、他人に押さえつけられるとか、そんな体験は必要ない。
名家の当主となった袁紹にも、そんな過去はあってはならない。そんなあるはずのないものを、息子に押し付けるのかと。
「……ぐっ……わ、わしが悪かった」
袁紹は奥歯を噛みしめながら、無理やり笑顔を作って息子に謝った。
袁紹の胸の中は、蘇ったみじめな記憶とそれを否定された悔しさで一杯だった。
自分がこんなに辛いことを、息子には体験させたくない……これはある意味本心だ。
それに、息子に好きなようにさせるのが母の優しさなら、息子からそれを奪うのは酷なことだ。
これが、自分の知らない実母の優しさなのだとしたら。
劉氏だって、自分が息子を愛しているから、息子に辛い思いをさせたくなくてあんなことを言ったのだ。
だから、自分もそれに逆らわずに袁尚をたっぷり愛して育てよう。
そうすれば、劉氏も自分をなじる必要はなくなるのだから……。
楽になりたい、楽になっていい、楽になればいい。
こうして、袁紹は息子の袁尚に対して厳しく躾けることをやめ、好き放題に甘やかして育てた。
これが本当の名家の親の愛情なのだと、誤解して。
それは違うと頭のどこかで叫ぶ自分を、切り分けて心の底に押し込めた。
部屋から幻が去ると、曹操の目の前を黒い子供の影が走り抜けていった。
「キャハハハ!!!」
どこか人を馬鹿にしたような、笑い声。
人を大切にすることを教えられずに育ってしまった、袁尚を彷彿とさせる。
その後ろから、ずるずると何かが這い出してきた。
それは、楼閣でも見た絡み合う肉塊の怪物だ。
ぶつぶつと何かをつぶやきながら、四本の手を揺らめかせて曹操に迫ってくる。
(そうか、袁紹……おまえは、親として……)
きっと、こうして劉氏と体を重ねて袁尚を生ませたこと自体が、悪夢になっているのだろう。
絡み合って心を満たそうとしたその結果、次世代には悪夢しか残らなかったのだから。
「すぐ、楽にしてやるさ」
曹操は、心の中の苦いものを噛みしめながら怪物を切り伏せた。
現世に帰ったら、自分の子供たちをたっぷり可愛がってやろう……剣にこびりついた血肉を払いながら、曹操は思った。
袁紹にとって、自分の子供時代は何もかもが自分の思い通りにならなかった辛い時間でした。
その記憶が邪魔をして、袁尚を厳しく育てられなかったのです。
それに、劉氏が袁紹を思い通りに動かすためにわざとその記憶をついて苦しめていたのです。
しかし、袁紹は息子のことを思うほど、それに抵抗できません。
子供への愛情を盾にした要求は、いつの時代もたちが悪いものです。