曹操~愛惜の館にて(8)
深淵に下りていく途中、曹操は新たな怪物と遭遇します。
今回のこの怪物は、劉備編では出現しなかったものです。
劉備がここを攻略した時と今、何が違ってこんなものが出現したのでしょうか。
気が重いまま、曹操はさらに下へと降りていく。
下れば下るほど、闇が濃くなり空気がねっとりと重くなる。
呼吸をするにも体が本能的にここの空気を拒絶しているようで、うまく息が吸えない。
本来の暗さ以上に、視界を遮られて足を進められない。
袁紹自身が、帰ってくれと言っているようだった。
この先にいる醜いものを、袁紹はそんなに見せたくないのか。
その一歩先も見通せぬ闇の中に、ぽつんと小さな明かりがあった。
それは、小さなロウソクだった。
「おお、これはありがたい」
思わず足早に近寄って手を伸ばしたその時、曹操の耳が不吉な音を捉えた。
ひゅっと空気が裂ける音とともに、反射的に身を引いた曹操の眼前を何かが通り過ぎる。
小さな音に気づいて見れば、すぐ横の壁に細長い何かが刺さっていた。
曹操は、とっさに身をかがめた。
空中に、串のようなものが飛来する。
曹操の頭上を幾つもの細長いものが通り過ぎ、勢い余って壁に刺さる。
それが放たれた方向に目を向けると、そこには人影があった。
いや、人のようだが人ではない。
その影には、首がなかった。
代わりに、首があるはずの場所に串のような何かが刺さっていた。
曹操は、すぐさま剣を振りかぶってそれに斬りかかった。
明らかに、化物だ。
容赦やためらいなど、する理由がない。
「沈め!!」
首がないため攻撃の場所を絞るのが少々難しいが、まずは肩を横から薙ぐ。
心臓の場所を突いても、心臓がなかったり動いていなかったら意味がない。
その点、切断によるダメージは確実だ。
名剣の刃が薄い肉と一緒に骨まで断ち切り、腕が一本落ちる。
「キヒィイイ!!」
化物は女のような細い悲鳴を上げ、身をよじった。
その拍子に着物がはだけ、肌がむき出しになる。
その死人の色をした肌には、無惨な傷跡が刻まれていた。
まるで鞭打たれた囚人のような、筋状に肉が裂けた傷。
(これは、今までの召使ではないな……)
曹操は、その女に似た体を目でなぞりながら思った。
影だけ見ればお馴染みの召使の怪物かと思ったが、どうもこれは別物のようだ。
首がないし……それに、雰囲気もどことなく違う。
この首のない女は、薄い夜着をまとっていた。
首の切り口に刺さっているのは、よく見れば宝石や金銀のかんざしだ。
この楼閣にふさわしい娼婦か……誰かと夜を過ごすための装いだ。
そこはかとない色香を覚えて、つい曹操が見入っていると、突然怪物の傷口が動いた。
「むっ!?」
密着されたとたん、打撲では有り得ない痛みが走る。
見れば、傷口が歯の生えた口になって曹操に噛み付いていた。
「ギ、ギ……ギィ!」
体中の鞭跡のような傷が、鋭い歯をむいて開く。
それを見た瞬間、曹操は慌てて飛び退いた。
(いかんな、やはりおれは好色だ)
相手は怪物であると頭を切り替え、再び攻撃に移る。
幸い、この怪物は苦しみに悶えるように無駄な動きが多く、それほど素早くはなかった。
体も丈夫ではなく、曹操が手加減なしで切りつけるとすぐに悲鳴をあげ、倒れ伏して動かなくなった。
「ふう、この期に及んでまだ新しいものが出るか」
曹操は額の汗を拭うと、そっとロウソクを手に取ろうとした。
しかし、背後で何かが蠢く気配に、曹操の身に再び緊張が走った。
振り向けば、さっきの怪物の死体から、黒い何かが伸び上がる。
それは真っ黒な影の塊のようで、曹操の腰くらいの高さの子供の影になった。
その影にも、首から上がなかった。
ふいに、小さな声が聞こえた気がした。
「チチ……ウエ……」
首から上がないはずなのに、その子供の怪物は声を発する。
小さな体に似合わぬばかでかい爪を曹操に向けて、つぶやきながら寄ってくる。
「父上ハ、ドコ……母上ハ……?」
舌足らずなつぶやきが、暗い廊下に不気味に染み渡る。
「くっ!!」
曹操はすぐさま、そいつを正面から切り下ろした。
子供のように見えても、怪物に容赦している余裕はない。
ざばっと体を両断されて、小さな怪物はその短い生涯を終えた。
見る間に溶けていくその儚い亡骸を見ながら、曹操は気分が悪くて仕方なかった。
誰かと寝るための女と、小さな子供。
これは袁紹と実母を表すのかとも思ったが、それにしては少しおかしい。
子供の怪物は、小さくてか弱い姿だった。
母と会えないながらも、大きく成長して社会的には立派に生きた袁紹の人生とは違っている。
じゃあこの母子は、何だ?
ただの楼閣の娼婦に、袁紹がここまで感情を移すとは思えない。
さっきの清浄な楼閣と色街では、他の娼婦の存在は抹消されていたはずだ。
分からないものをいつまでも考えている訳にもいかず、とりあえず下に下りようと思い立って……次の瞬間、曹操の周囲は再び真っ暗に近い闇に包まれた。
「なっ!?」
気が付けば、つい今まで明々と灯っていたロウソクの火が消えていた。
再び火をつけようにも、火種はない。
後悔先に立たずとは、このことだ。
曹操は心の中に広がる後味の悪さを感じながら、やむなく明かりのないまま下へと足を進めていった。
首のない母子、そのヒントは辛毗編で明かされています。
体中の傷は、彼らが死ぬ時にそんな目に遭ったから。
袁紹の実母像を歪めた背後に潜む人物は、傷だらけで首のない母子の死体を大量に作り出しました。
この怪物は、それに対する袁紹の苦しみが投影されているのです。