曹操~愛惜の館にて(5)
曹操は袁紹本人を避けて母の幻影を狙いますが、それでもまだ重要な部分を忘れています。
袁紹は実の母をよく知らないはずなのに、なぜ実母の幻影はこんなにしっかり実体を持っているのか疑問に思いませんか?
最終章の鍵は、そこにあります。
白く透ける夜着の裾が、霧と共にたなびく。
その袖や裾から大きく突き出した、滑らかな手足がさらけ出される。
母は、しっかりと実体をもってそこに存在していた。
(どれ、実母の幻影とはどのようなものだ?)
曹操は失敬ながら、好奇心をもってその寝台をのぞきこんだ。
婦人のいる寝台をのぞくなど不埒なことだが、今はそんなことに構っている場合ではない。
それに、好色な曹操にとって、こんなことは慣れっこだ。
今度は一体どんな女がいるのか、不本意ながらも胸が高鳴る。
袁紹が描く実母の像とは、一体どんな姿をしているのか。
彼女は、必ず袁紹の心を反映しているはずだ。
そこから読み取れる何かを紐解けば、きっと袁紹の不毛な戦意を削ぐことができる。
袁家とつながりそうなどこかが見つかれば、それで勝敗は決したようなものだ。
(手足は、大きいだけで普通か……。
では、顔は?)
素早く手足に視線を這わせると、曹操はおもむろに身を乗り出して、天蓋から下がるカーテンに隠れた顔をのぞきこんだ。
一瞬、吐息とともに曹操の鼻を腐臭が刺した。
その吐息が風となって、残ったカーテンをわずかに押し上げる。
その内にあるものが光の下にさらされるにつれ、曹操の顔に驚愕が広がっていった。
「な、何だ……これは……!?」
曹操は、絶句した。
この実母の顔は、聖母などではない。
これではまるで、腐り果てた死体ではないか!
彼女の顔には、目も鼻もなく、口のみがかろうじてその形をとどめていた。
しかしその口も無残に裂けて、中にある獣のような乱杭歯をむき出しにしている。
そしてその口と、目と鼻と耳全ての穴から、ぬらぬらと赤茶色に光るべとべとのミミズが這い出している。
体は聖母のように清らかなのに、顔は穢の塊ではないか。
曹操は、あまりのおぞましさにしばし戦うことを忘れた。
その後ろで、旧友がずるりと立ち上がってつぶやく。
「……見たな……」
その声でようやく、曹操は我に返った。
大急ぎで飛び退くと、自分がいた場所に白銀の刃が振り下ろされた。
「はあ、はあ……!」
今どかなければ、確実に殺されていた。
袁紹の瞳には、そう確信できるほどの殺意が詰まっている。
袁紹は、うなだれるように下を向いてぼそりと言った。
「母が、聖なる存在だと思ったか?」
その問いに、曹操は背筋が凍りつくような悪寒を覚えた。
自分はてっきり、袁紹が母親を神聖視するから逆らえないのかと思っていたが……。
どうやら、事はそう単純ではないらしい。
袁紹は、自分をも馬鹿にするような投げやりな口調で告げた。
「母は、確かに理想の存在だった。
しかし、実際にこの目で見ると実に醜いものだ。
私もここに来て対面して思った……会わなければ良かったと!」
その言葉に曹操は、ごくりと唾を飲んだ。
どうやら、アレは袁紹にも同じような姿に見えているらしい。
袁紹は、ゆっくりと顔を上げる。
その顔には、全てを諦めたような廃退的な笑が浮かんでいた。
「何となく、分かっていたのにな……。
人間の母親など、醜いものだ。
しかし……分かっていても、私は……!」
袁紹の目から、ぽろりと一粒涙がこぼれる。
ほおを伝って床に落ちたそれは、ぽつりと黒いシミをつくった。
それは、本当に透明な涙だったのかと疑いたくなるほど黒く不透明なシミだった。
その黒いシミを中心に、突然床に大量のシミが浮き出た。
カビのような、焼け焦げのようなそれは、急速に数を増やして部屋を侵食していく。
辺りにカビ臭い匂いと腐臭が満ち、冷たく凛と張っていた空気が気持ちの悪い蒸し暑さを帯びていく。
「なっ……!?」
突然の侵食に、曹操はどうしていいか分からなかった。
頭の中で繰り返される声は、ただ一つ。
なぜ、こうなった?
この部屋の突然の侵食も、そして袁紹の実母の姿も……。
全ては、曹操の予想の範疇を軽々と飛び越えていた。
壁や床に広がったシミが血と錆と膿の汚れに変化し、辺りが急に暗くなる。
薄絹のカーテンが色あせて茶色に変わっていく。
部屋にあった上品な調度品が溶けるように朽ち果て、部屋自体が骸骨めいた様相を呈する。
さらに、おぞましいことが起こり始めた。
部屋中を覆った穢がざわざわと蠢き出し、壁や床から剥がれ始めた。
曹操が鼻と口を覆って見ていると、それらはまるで意志があるように浮き上がって流れ出す。
その流れ出した先には、袁紹がいた。
「袁紹―!!」
実母の幻影がいた部屋は、袁紹にとって聖域のような場所でした。
しかしその奥に潜んでいたのは醜悪な化物……これは、袁紹が母というものに心の底で幻滅していたことを意味します。
そもそも、袁紹は現実の誰と重ねてこの母親像を作ったのでしょうか。
この章の冒頭、そして直前の幕間がヒントです。