曹操~回想の楼閣にて(3)
自分を迎えに来た曹操に、袁紹は母の死の真相を語ります。
狡猾に自分を欺いた父、それに抗えなかった無知な自分、希望のない真っ暗な物語が晒されます。
曹操は最初、袁紹の言葉が信じられなかった。
「な……馬鹿な!
そんな話は初耳だ。それに、おまえも数年前まで、母は生きていると……」
曹操の脳裏には、楽しそうに母のことを話す袁紹の顔が浮かんでいた。
袁紹は姿を消す直前も、母は生きてるから、もうすぐ会いに行くのだと感慨深げに話していたのに。
「この数年の間に、亡くなったということか……?」
曹操は、自分が思いつく答えを口にした。
そして、それなら袁紹の無念も分かる気がして、つい同情の視線を向けてしまった。
ずっと会いたいと望んでいて、会えるはずだったのに。
会えるようになる直前に母が死んでしまって。
それはさぞ、無念だろうと。
しかし、袁紹はそんな同情などいらないというような顔をしていた。
「……どこまでも、甘い男だな。
本当にそうだったなら、かえって諦めもついたものを」
袁紹から返ってきたのは、こんな返事だった。
焦点の合わない視線をゆらゆらと漂わせて、袁紹はつぶやく。
「母が死んだのは、それよりずっと前だ。
父は、それを隠し続けていたんだよ」
低く抑揚のない声でつぶやき、そして突然曹操の方を向いた。
その目を正面から見たとたん、曹操は全身の毛が逆立つような悪寒を覚えた。
それは、これまでもさんざん苦しんできた袁紹がそれでも見せたことがないような、狂気を孕んだ暗い目だった。
暗くて、底が見えない。
見ているとどこまでも吸い込まれてしまいそうな、一片の光もない瞳。
袁紹は、呆けたように笑って言った。
「私は、とんだ親不孝者だなあ……。
実の母上が死んだことを十年も知らず、弔いもしなかったなんて……」
「!!?」
その言葉に、曹操は世界が歪むような衝撃を受けた。
だって、袁紹は数年前まで、母は生きていると語ったではないか。
母の近況を父から教えてもらったと、嬉しそうに……。
しかし、父に勝てない自分を歯がゆく思いながら。
「父上が言っていたのは、全部嘘だよ」
袁紹は、いつもからは考えられない恨みに濁った声で語った。
「結局、父上は私をいいように操るために、母上を生きていることにしたんだ。
自分が死んで、私が手を出せないところに行くまで……ね」
その意味を考えると、曹操はあまりの意地汚さに吐き気を覚えた。
つまり袁逢は、最初から袁紹の気持ちなどお構いなしに、自分と袁家のためだけに母を想う幼気な我が子を騙したのだ。
しかも、袁紹はもう袁逢に仕返しできない。
袁逢は、袁紹に報復されない安全策をとっていた。
それは、自分が死んでしまうまでそれを隠し続けることだ。
死んでしまえばもう報復できないし、その頃には家の期待の星になっている袁紹は故人を冒涜することも許されない。
だって、どんなにしたことがひどくても、実の父なのだ。
おまけに、詳しく知っている者はほとんど袁逢の息がかかっている。
自分が死んでしまえば、袁紹の母の真相は闇の中だ。
袁紹が今の地位と名誉を保つためには、袁逢を汚すことは許されない。
己を引き裂かれるような屈辱を味わいながら、袁逢を手厚く弔う他ない。
自分の子にどうやったらそんなひどい仕打ちができるのかと、曹操は驚愕した。
「ああ、そういえば……」
袁紹が、何かを思い出したように言う。
「ほら、おまえと二人でここを突き止めたあの時……覚えているか?
あの時、実はもう母の体はだいぶ悪くなっていたらしい」
曹操は、ぎょっとした。
つまりあの時、初めて行った時に押し切っていれば……袁紹の願いは叶っていたのだ。
それを知ったとたん、曹操は心の中にひどい苦味が広がるのを覚えた。
よく考えたら、あの時袁逢がよくこの色街を訪れていたのは、袁紹の実母の容体が悪くなっていたからではないのか。
そうでもなければ、あの狡猾で用心深い袁逢があんなに頻繁にここに通うものか。
袁逢がその慎重さに似合わぬ行動をとっていた時点で、異常に気付くべきだったのだ。
だが、袁紹と曹操はここを発見することで頭がいっぱいで、そこまで考えが回らなかった。
袁逢がよくここを訪れるのをただの幸運だと思い、ここを見つけただけで満足してしまった。
「ふふ、私は、愚かだ……。
あの時、母の命は私の目の前にあったのに……!」
袁紹のうつろな目から、すーっと涙が流れた。
「私は、結局母に何もしてやれなかった。
できるのは、せめてここで母上の喪に服し、毎日香を焚くぐらいだ……」
寝台の脇には、灰の積もった香炉が置かれていた。
そこから立ち上るかすかな煙が、風に揺らめく。
部屋にこもる清浄な香りと煙は、弔いの香だったのだ。
母子のぬくもりは、ここにはない。
再開を待ち望んだ最愛の人は、もうここにいない。
ここにあるのは、ただの希望の抜け殻だ。
そして己を満たしていた希望を失った袁紹もまた、魂の抜け殻のようになっていた。
ここにいるのは、この世に希望を失ったただの無力な人間だった。
墓場までもっていく、という言葉がありますが、これは間違いなく相手の抵抗を完全に封じる手段です。
知らなければ手の打ちようがないし、知った時には責めるべき相手がこの世にいない。非常に後味の悪い方法です。
名家の威光ゆえに死者に鞭打つこともできず、袁紹は一人楼閣に閉じこもって母を弔うしかなかったのです。