曹操~愛惜の館にて(2)
今回、曹操は劉備編でたどった道と同じ場所を辿ります。
この館に散りばめられた袁紹のメッセージを、事情を知らない劉備はうまく受信できませんでした。
全ての事情を知る曹操が、今度こそ袁紹の叫びを正しく受け取ってくれます。
上等な机の木目を台無しにするように、黒く乱暴な文字がぶちまけられている。
<お母さんに会いたい!
本当に、ぼくを産んでくれたお母さんに会いたい!
あのおばさんをお母さんと呼ぶのはもう嫌だ!>
それを目にした途端、曹操は胸にきりきりと痛みを覚えた。
幼い頃の、毎日に希望を失っていた袁紹の顔が脳裏に浮かぶ。
袁紹にとって、母親と家は安らぎではなかった。
最初の母も、養子に引き取ってくれた母も、袁紹を自分の子として愛そうとはしなかった。
おまけに、思い通りにならないと母親にあるまじき暴力を振るって袁紹をさらに苦しめた。
最初の母は、袁紹が邪魔だったから。
次の母は、袁紹に自分の人形になってほしかったから。
こんな幼い頃から、袁紹にとって安住の地はなかったのだ。
あどけなさの漂う子供部屋にこの文字があることが、なお悲しかった。
(そうか、これは養子になったばかりの頃の……)
自らも幼い頃の記憶を引っ張り出して、曹操は思った。
この部屋は、ちょうど袁紹が叔父袁成の養子になった頃の部屋だ。
あの頃の袁紹は、前の母につけられた心の傷が癒えぬまま次の母の暴力を受けていた。
そんな暗闇の中にいた袁紹にとって、実の母はたった一つの逃げ場だったのだろう。
どこにいるのか、自分のことを分かってくれるのかも分からない。
それでも、きっと本当の母は優しいはずだと信じて。
曹操が机に背を向けて部屋から出ようとすると、どこからか幼い袁紹の声が響いた。
「会えない……まだ、会えない……。
でも、信じています。こうしてがんばっていれば、きっといつか会えるって……。
だから私は、その日を信じて、針のむしろの日々を渡っていけます」
その声には、か細いすすり泣きが混じっていた。
地獄の我が家で、いつか会える実の母だけを頼りに必死で生にしがみついた袁紹の心の名残だ。
改めて今それを耳にすると、曹操は胸が張り裂けそうだった。
袁紹はこんな頃から、ずっと母を心の支えにしていたのに。
結局、信じたその日は、来なかった。
廊下に出ると、パタパタと小さな足音とともに、足跡だけが階段に向かって延びていった。
その足跡は、ほこり一つない床に濡れたように浮かび上がっていた。
そして足跡の周りにも、小さな水滴の後が散りばめられていた。
まるで、小さな子供が泣きながら走り去ったかのように。
曹操は、階上にいる親友に語りかけるようにつぶやいた。
「そうだな、おれが迎えに来た時も、おまえは泣いていた」
この廊下に落ちた涙の跡は、曹操が実際に見たものだ。
一緒につく足跡が、大きいか小さいかは別として。
曹操は、その足跡をたどって上の階へと登った。
足跡は、また別の部屋へと続いている。
「ここは……!」
次の部屋に入ると、曹操はまた懐かしそうに目を細めた。
さっきより高い机と、美しい刺繍の絹張りのいす。
玩具の代わりに、書物が詰まった棚。
そして机の上に置かれた、一枚の手紙。
<母上、お元気でお過ごしでしょうか?
私は、新しい母上のもとで元気に過ごし、この名家に恥じぬよう学問に励んでおります。
いつか私の身が自由になるその時がきたら、必ず会いに行きます>
流麗でかつしっかりとした、美しい文字だった。
名家の子にふさわしい、見ただけで書き手の育ちの良さがうかがえる手紙だ。
それに、さっきのような胸をえぐる悲痛な叫びではなくなっている。
子供は成長し、聞き分けがよくなり、きちんと会うための道筋も見えてからだろう。
もっとも、その道は悪意をもって引き延ばされ、望んでいた終点には着けなかったが。
これは、うまくレールに乗せられてしまった頃の袁紹だ。
偽りの、叶えるつもりのない希望を鼻先にぶら下げられて、もうすぐ手に入ると信じ込まされていた。
半端な安心感に身を任せ、まんまと育ての親の思い通りになってしまった。
知らない人が見れば、きっと子供は安らぎを得られたのだと胸を撫で下ろせる手紙。
しかし、事情を知っている曹操にとっては非常に後味の悪い手紙だった。
これは、不幸な終わりの前兆だったのだ。
(おまえは、それをずっと悔やんでいたのだな)
曹操は、息が詰まるような胸苦しさとともにそう思った。
ここにこの手紙があるということは、袁紹にとってこの感情が大きな傷になっているからだ。
自分がこんな風に流されたから、母上に会えなかったのだと。
しかし、袁紹とて偽りの道を心から信じていた訳ではない。
「なぜだ……なぜ会うことすら許されぬ……?
私は、あなたに会うことだけを楽しみに生きているというのに!
いくら頑張っても、この気持ちが報われることはないというのか!!」
またどこからか、声が聞こえてきた。
さっきよりだいぶ成長した感じの、若い袁紹の声だ。
その言葉には、己の中でぶつかり合う気持ちがほとばしっていた。
信じたい、しかし信じてはいけないような葛藤。
会える希望と、それに反して全く会えない現実に挟まれ、両側から押しつぶされて苦悩する袁紹の叫びだ。
この時、多少無理をしても強引に会いに行っていれば……。
いい子ぶって信じ続けずに、衝動のままに行動していれば……。
自分と母は、こんな終わりを迎えずに済んだかもしれないのに。
手紙にも声にも、そんな袁紹の後悔が詰まっていた。
この館にある手紙や落書きは、かつての袁紹の苦悩を伝えるものでした。
しかし、その叫びは曹操の方にも苦い記憶を呼び起こします。
かつて袁紹のすぐ側にいながら、本当の望みを知っていながら袁紹を救えなかった曹操……次回、かつてこの楼閣であった二人の思い出が語られます。