曹操~愛惜の館にて(1)
ついに、物語は最後の館に入ります。
若き曹操が一度訪れ、袁紹を闇から連れ戻した思い出の館に。
曹操は袁紹の最も深い闇を払い、生前のように再び連れ出せるのでしょうか。
中は、明るかった。
門の外は完全に夜だったのに、この廓の周りは薄い光に包まれている。
しかし、日の光が見える訳ではない。
袁紹の晴れぬ心を映すように、空は灰色の雲で覆われていた。
楼閣は、薄くたなびく霧に包まれていた。
わずかな風がほおを撫でるたびに、霧が流れて隙間を作り、そのたびに周囲が明るくなったり暗くなったりする。
その光景を見ながら、曹操はふと思った。
(妙だな、ここは袁紹にとってもっと暗い場所のはず……)
これまでの館で分かったが、この世界の天候や昼夜は袁紹自身の感情を反映しているのだ。
だが、今のこの楼閣はそれほど闇の気配を感じない。
むしろ清浄で、心が落ち着くような気さえする。
(これは、袁紹の闇というより母親への想いなのか?)
昔を思い出しながら、曹操は思った。
若い頃、袁紹は曹操の前でだけは実の母の事を話すことがあった。
その時の袁紹は、まるで聖母を見ているように穏やかな顔をしていた。
それを考えれば、この楼閣が明るいのも分からなくはない。
真実を知る前、ここは袁紹にとって聖域に等しかったのだから。
袁紹と自分だけが知っていた、大切な場所。
だから曹操は、袁紹が姿を消したと聞いた時、真っ先にここが思い浮かんだのだ。
そんな若い日々を思い出しながら、曹操は楼閣の玄関に立った。
見上げれば、高くそびえる楼閣が霧のベールに吸い込まれている。
よく見れば、楼閣の頂上を中心に霧が渦を巻いているような……。
そうとも、そこがこの場所の悪夢の原点だ。
この楼閣の頂上に、袁紹はいる。
どうしようもなく、確信があった。
「やれやれ、また迎えに行かねばなるまいな」
曹操はふっと肩の力を抜き、微笑んだ。
曹操がここに袁紹を迎えに来るのは、初めてではない。
昔、全く同じようなことがあった。
その時と同じだと思うと、曹操は深い感慨を覚えた。
あの時と同じように、袁紹は孤独に自分を待っているのだ。
「大丈夫だ、袁紹。
何度でも、おれが闇から連れ出してやる」
愛する友への誓いを口にして、曹操は楼閣へと踏み入った。
袁紹の前半生を支えていた、聖母の住まう約束の地へ。
楼閣の中は、きれいに清められていた。
今でも人が暮らしていそうな、静かに染み渡る生活感。
客を迎えるのに失礼のないように、手入れが行き届いた空間。
他の館で見たような荒廃や血と膿の汚れは、ここでは見つからなかった。
他の場所では倒しても倒しても現れた怪物も、ここにはいない。
まるで、存在そのものが許されないかのように。
少し中を歩いてみて、曹操は懐かしく思った。
(あの時と同じだ……。
この館は、あいつを連れ戻しに来た時と何も変わっていない!)
曹操は、この整った光景に見覚えがあった。
それも当たり前だ、曹操は現世でもこれと同じ風景を見ているのだから。
楼閣の中は、曹操の記憶にあるその場所とまるっきり同じだった。
変わったのは、他の人間がいないことくらいだ。
だが、それも袁紹の気持ちを考えれば分からぬでもない。
ここは袁紹にとって、母のためだけの場所だったのだから。
それ以外の人間は、記憶の中から消しているのだろう。
特に、同じ場所で汚らわしい行為を行う他の娼婦のことは。
楼閣の中は、しーんという音が耳につくほど静かだった。
自分の足音だけが、コツコツと煙った廊下に響く。
そうしてとある部屋の扉を開けたとたん、曹操ははっと目を見開いた。
「……この部屋は!!」
その一室は、明らかにこの楼閣のものではなかった。
子供用の低い机と、その周りに散らばるこしらえのいい玩具。
部屋は上品な家具で揃えられ、育ちのよさを感じさせる。
そこは、子供部屋だった。
しかもこの色街の楼閣にはあまりに不釣り合いな、身分の高そうな子供の部屋だった。
男が女を買い漁り、快楽を得るために作られたこの楼閣には、本来あるはずがない場所だ。
しばらくまじまじと見つめていると、曹操はそこが自分の知っている部屋であることに気づいた。
「ここは……袁紹の部屋ではないか!」
気づいたとたん、一気に記憶が蘇った。
この部屋は、袁成の養子になったばかりの袁紹の部屋だ。
新しい母との軋轢に疲れ、適応できずに苦しんでいた頃の。
曹操は、思わずふらふらと部屋の中に踏み入った。
そして、墨で盛大に汚された机に目を留めた。
「袁紹……」
その殴り書きのような文字に気づくと、曹操は悲しそうに眉を寄せた。
そこには、幼い袁紹の誰にも届かなかった叫びが綴られていた。
昼と夜が不自然に入れ替わる描写は、サイレントヒルでよく使われている手法です。
時の流れがおかしくなり、つながっているはずの空間が連続ではなくなる……そして、あるはずのない場所で埋もれていたはずのメッセージが忽然と現れる。
愛惜の館には、袁紹の伝えられなかった叫びが散りばめられているのです。