曹操~愛惜の門にて(2)
久しぶりに小鬼の登場です。
小鬼はこれまで、袁紹が死んでからずっとその旅路に寄り添ってきました。
そんな小鬼に、曹操はどう映るのでしょうか。
先に口を開いたのは、曹操だった。
「何者だ、おまえは?」
いぶかしそうな目で小鬼を見下ろし、はっきりとした口調で問いかける。
その目には、今にも剣を抜き放ちそうな警戒心がにじんでいた。
今目の前にいる小鬼は、明らかに異質だ。
悪夢の中で出会った怪物たちとは、どこかが違う。
小鬼は、明らかに己の意思をもって曹操を見つめていた。
袁紹の暗い記憶をそのまま投影したような、自我の薄い怪物たちとは本質的に違っている。
根本から異なる気配を、この小鬼はまとっている。
人ならざる怪物なら悪夢の中には腐るほどいたし、もうそんなものでは驚かない。
だが、こいつは違う。
「おまえは一体、どこから来た何なのだ?」
曹操がもう一度強く聞くと、小鬼はぺこりと頭を下げて答えた。
「ボクは、地獄から来た使いですねん。
旦那さんに……袁紹さんに、地獄の力を貸したモンですわ」
意外にも、礼儀は正しいようだ。
しかし、この一言だけでも、聞きたいことは山のようにできた。
「地獄だと……?
そのような存在が、なぜ袁紹に力を貸した?」
この質問にも、小鬼は素直に答えた。
「旦那さんに、正しく冥界に行ってもらうためにですわ。
魂が割れたままやと、冥界に行けへんよってにな。
……まあ、そこはきちんと直してくれたみたいで、感謝してますわ」
曹操は、ホッと胸を撫で下ろした。
やはり、さっきので袁紹の魂は直っていたのだ。
この小鬼がそこまで知っているのは、正直少し腹立たしいが。
曹操の表情が和らいだのに気付いたのか、小鬼の方も少し表情を緩めた。
元々、敵対する気ではないらしい。
小鬼は曹操の姿をじろじろと見ながら、感心したように言った。
「さすが、旦那さんの一番会いたかった人や。
ボクもこれまでいろんな人を見てきたけど、こんだけ心の強い人は初めてや。
旦那さんも、それが分かっとったから最後にあんたを選んだんやろなあ」
小鬼は、曹操の魂を見定めているようだった。
そして、曹操のことは袁紹から聞いていたと言った。
それを聞くと、曹操はもう一つ小鬼に尋ねた。
「おまえは、袁紹の何なのだ?
ここまでおれの事を聞いている以上、ただ手を貸したという訳ではあるまい」
小鬼の言葉は、思った以上にたくさんの思惑を含んでいた。
袁紹の望み、小鬼自身の使命、そして……曹操の知らない袁紹の旅路。
曹操の眼差しに気づくと、小鬼は再び頭を下げた。
「ボクは、旦那さんが死んでから、ずっと側におったんや。
旦那さんの魂を直す手伝いをするいうのが建前で……。
ホンマは、旦那さんを冥界か地獄かのどちらかに誘導する役目だったんや」
礼を欠くと思ったのか、それとも純粋に感謝からなのか……小鬼は素直にも袁紹と自分のことを語り始めた。
魂が割れて彷徨っていた袁紹に近づき、悪夢を顕在化する地獄の力を与えたこと。
その力によって、袁紹はこの悪夢の世界を作り上げたこと。
そして、この力は本来、地獄で囚人を苦しめるためのものであること。
当初は、袁紹を獄卒として地獄に連れ去る気であったこと。
力に慣れさせ、この世への希望を失わせたうえで。
「けどなあ、そんなにうまくはいかへんかった。
どないに苦しいときでも、旦那さんの心の底には希望があったんや」
小鬼はちょっと悔しそうに、目を細めてつぶやいた。
曰く、袁紹は決して、自分から地獄に飛び込もうとはしなかった。
自分を信じられず救いへの道が見えなくても、袁紹はこの世を捨てようとはしなかった。
その理由が、今なら分かる。
一番会いたいと望んでいた、この男を前にしたら。
小鬼は、曹操の姿を眺めながらしみじみと言った。
「旦那さんはな、ホンマはあんたに会う必要はなかってん。
前に来た元の家臣さんが、救ってくれるて約束してくれたよってに」
小鬼は、真っ直ぐ曹操の目を見つめた。
「でもな、旦那さんはその救いを引き延ばしても、あんたに会いたいって言うた。
そんだけ、あんたのことを信じとったんやろなあ」
その一言が、曹操の胸を熱く貫いた。
まるで、心の奥底にぽっと火が灯ったようだった。
明るく揺らめいて、しかし熱すぎて触れるのはためらわれるような感情。
曹操は、湧いてきた涙を隠すようにぎゅっと目を閉じた。
袁紹は、この暗く狂気に満ちた世界で、ずっと自分を信じてくれていたんだ。
小鬼の語った袁紹の死後の旅路は、とても辛く、苦しいものだった。
疑心暗鬼と己の罪に怯え、どうすればそこから抜けられるのかも分からなかった。
しかし、それでも袁紹は自ら地獄に落ちようとはしなかった。
落ちて退く道を断ってしまえば楽になれるかもしれないのに、袁紹はその誘惑に抗って現世に居続ける方を選んだ。
どんなに今が辛くても、心の底で救いへの希望を持ち続けた。
なぜなら、袁紹の胸の中には、いつも曹操という親友がいたから。
自分の全てを知って、受け止めてくれたかつての友が。
(袁紹……!)
曹操は、思わず目頭を押さえた。
そんな曹操の背中を押すように、小鬼が楼閣を見上げて言う。
「さあ、ここまで来たらあと一息や。
魂は直ったけど、悪夢はまだ消えてへん。
ここで旦那さんの一番深い呪縛を解けば、旦那さんは何も思い残すことなく冥界に行けるはずや」
高くそびえる楼閣を見上げて、小鬼は感慨深そうに続ける。
「正直、前に来てくれた元の家臣さんやったら、ここまで旦那さんの悪夢を断ち切ることはできへんかったやろな。
それでも冥界には行けるけども、傷がついたままやとどうしても次に禍根が残る。
あんたやったら、それも全部きれいにしてやれるはずや!」
曹操は、軽くうなずいて楼閣の門の前に立った。
「大丈夫だ、おれは必ず袁紹を救う。
袁紹がそこまで信じてくれたのだから、こちらもそれに応えるさ」
楼閣は、街の明かりから離れて不気味な影をまとっていた。
しかし、曹操に恐れはない。
袁紹が、自分を信じてくれるから。
一つに戻った魂の、奥底に刻まれた最後の悪夢……曹操は、正面からその咢に足を踏み入れた。
門をくぐり、闇の中で待つ友のもとへ。
背後で、母が子を抱きとめるように門が閉ざされた。
袁紹の魂を一つにすることだけであれば、辛毗でもできたでしょう。
しかし、辛毗は袁紹の後半生しか知らないため、その心に巣食う悪夢を全て払うことはできません。
それが分かっていたからこそ、袁紹は曹操にすがったのです。
そして最後の母の幻影が住まう最後の悪夢で、最も深い悪夢との戦いが始まります。