曹操~愛惜の門にて(1)
ゾンビの方を更新していたので少し間が空きました。
前話の戦いで、曹操はようやく表と裏の袁紹を二人とも救うことができました。
袁紹の方も、裏と表がお互い傷付け合うのを止めることができました。
互いを、認め合い、同じものに救いを求めることができた袁紹は……。
曹操は、二人の袁紹と手をつないで街の門をくぐった。
艶やかに夜を照らす明かりが、三人を迎えてくれる。
明るいばかりで、人の姿が全くない、三人だけの色街。
これまでの街と同じように、そこに生き物の姿はなかった。
しかし、怪物の姿もなかった。
曹操たち以外に、動くものは炎しかない。
燃える薪がぱちぱちと火の粉を散らす以外は、無音の世界だった。
本来なら色街に絶えないはずの、男を呼び込む威勢のいい声はそこには存在しない。
なぜなら、呼び込む必要がないから。
ここには、他の男の相手をする娼婦はいないからだ。
どこかうつろな目をした袁紹を横目で見ながら、曹操は苦笑した。
(なるほど、これがおまえにとっての色街という訳か)
袁紹の目は、街の奥にそびえるひときわ高い楼閣のみを見ていた。
それ以外の建物は、全く目に入っていないようだ。
「母上……」
心から直接吐き出されたように、ぽつりとつぶやく。
幼い頃から、会いたくてたまらなかった人。
大人になったら会おうと心に決めていたのに、会えなかった人。
男と女の出会いが満ち溢れるこの場所で、袁紹はたった一つの邂逅を望んだ。
淫らな欲と虚飾渦巻くこの街で、ただ一つの純粋な想いを叶えようとした。
しかし、会いたかったその人は、すでにこの世から去った後で。
袁紹の目は、この世にない何かを見ているようだった。
「母上……」
何かに引っ張られるように、袁紹が歩調を上げる。
曹操の手を放して、表と裏、二人の袁紹が曹操より前に出る。
そして、身を寄せ合うように二人の距離が縮まっていく。
「袁紹?」
曹操が呼びかけても、袁紹は振り向かなかった。
まるで曹操の声など聞こえなかったように、ずんずん歩いていく。
二人の距離が、さらに縮まった。
曹操は、そこで奇妙なことに気が付いた。
二人の袁紹の肩は、もう触れ合いそうなほど近づいている。
こんな距離で、よく腕をぶつけずに歩けるものだ。
二人の袁紹は、この世界ではあくまで物理的に独立しているはずなのに。
「……?」
その指先に目をやったとたん、曹操はひどい違和感を覚えた。
この世の物理からは、相容れない違和感を。
その正体に気づいた時、曹操は思わず息をつめた。
二人の袁紹の腕は、明らかに交わったまま揺れていた。
確実に接触しているのに、お互いの動きには何の制限も及ぼさない。
二本の腕は、互いをすり抜けるように揺れていた。
一方の腕が、もう一方の腕に溶けるように融合し、そしてまた離れる。
それを繰り返すうちに、重なる部分はどんどん大きくなっていく。
「!!」
気が付けば、二人の袁紹はもう肩まで溶け合っていた。
二つのずれた像が重なるように、体の中心がどんどん近づいていく。
(融合しようとしている!?)
曹操は、思わず息を呑んだ。
ついに、兜の一部が重なった。
ついさっきまであんなに固く手に触れたものが、実体を失って溶け合っていく。
(目的は、魂を一つに戻すこと……)
曹操は、袁紹が言っていた救いの条件を思い出した。
今の状態は、まさにそれではないか。
何もできずに見ているうちに、袁紹の体は完全に重なった。
一つの頭、一つの体、そして一つの魂。
もう、袁紹は二人ではない。
完全に、一人の人間だ。
一人になった袁紹は、曹操のことなど気にも留めずに小走りで街の奥に向かった。
「母上!」
己の全ての願いをこめて叫び、楼閣の門へと飛び込んでいく。
見えない何かに引き寄せられるように、袁紹の動きは信じられない程早かった。
「おい待て、袁紹!」
少し遅れて楼閣の前にたどり着くと、曹操は乱れた息を整えながらそそり立つ楼閣を見上げた。
懐かしい、この景色。
袁紹が生きていたあの頃と、何ら変わらないこの楼閣。
曹操がこうして楼閣を見上げるのは、初めてではなかった。
あの時も、袁紹はこうして一人で行方をくらましてしまった。
曹操はこうして楼閣を見上げ、そして袁紹を迎えに行った。
心を閉ざした闇の中から、再び光の中に戻してやるために。
「なるほど、あの時と同じだな」
曹操に顔に、自然と笑みが浮かんだ。
袁紹があの時のことを覚えていて、再現してくれていると思うと、温かいもので胸がいっぱいになる。
(やることは、ただ一つ)
楼閣を見上げ、曹操は最後の決意を固める。
あの日と同じように、絆をもって袁紹を暗闇から救い出すと。
そんな曹操に水を差すような存在が、いつの間にか近くに忍び寄っていた。
それは、三歳児くらいの大きさの小鬼。
やせて腹ばかり大きく、額に一本角を生やした異形のもの。
曹操が視線を向けると、そいつはしわくちゃな口元を上げて笑った。
袁紹の魂を直す条件は、生前の袁紹をよく知っている人物が表と裏両方の袁紹を抱きしめ、生きていていいのだと救いを示すことでした。
表の袁紹は悔恨の館で、裏の袁紹は巡礼の道で、それぞれ曹操の抱擁を受け、救いを示してもらえたのです。
これで魂は直りましたが、まだ悪夢は終わりません。
そして、これまでこの章ではずっと姿を現さなかった、小鬼が曹操の前に現れます。