袁紹~回想の汝南にて
子供が自分を縛りつけようとする大人に反抗するのは、よくあることです。
しかし、大人を甘く見てはいけません。大人はその豊富な人生経験を元に、子供の先手先手を打ち、その反抗心を叩き折ることに手慣れています。
袁紹の実の父親である袁逢と、育ての母もまた……。
母に会える希望をもらった時、袁紹は確かに光が満ちるのを感じた。
今まで顔も知らなかった生みの親に、ようやく道がつながったのだと。
だが、道は通れなければ意味がないと、気づいたのはもう少し後。
袁逢は、小狡い笑みを浮かべて袁紹に言った。
「見ての通り、ここは女を買う場所だ。
品行方正な名家の子息が来るところではない。
おまえには、顔も知らぬ母のために己の人生を棒に振る覚悟はあるか?」
こんな所で女を買って子供まで作ったのはおまえだろうと袁紹は思ったが、口には出さなかった。
袁逢の言う事は、正論だ。
若いうちからこんな所に通っていると噂が立てば、周りの心証は確実に悪くなる。
そして、今は約束されている栄光ある未来をどぶに捨てることになる。
あいつは名家の当主にふさわしくない。
こんな不埒な子だとは思わなかった、と。
袁逢は、袁紹自身の人生を人質にとってきたのだ。
ここに来れば、自分がそれをばらしてもいいのだとばかりに。
袁逢はすでに多くの富と権力を手にし、今更女遊びがばれても大した打撃は受けない。
片や袁紹はまだ若く、ここでつまずけばもう二度と這い上がれなくなる可能性すらある。
お互いが秘密を明かした時に、失うものの多さが違いすぎる。
(この卑怯者が……!!)
袁紹は、ぎりっと唇を噛んでその場は引き下がった。
しかし、これしきで諦める袁紹ではなかった。
この件について相談すると、曹操は快く聞いてくれた。
「品行方正な子が女遊びをするのが悪いんだろ?
だったら、いっそのこと不良になったらどうだよ。
そうしたら袁家のいろんな人が困るだろうし、多少の悪い噂は目立たなくなるかもしれない」
曹操の提案は、面白いと思った。
自分は今までずっと親の言う通りにしてきたのに、本当に叶えたい願いが叶ったことはない。
だったらいっそのこと期待を裏切ってしまうのも、愉快でいいかなと思った。
子供がいつまでも言いなりになると思ったら、大間違いだ。
おまえたちが願いを叶えてくれないなら、おまえたちの願いも叶えるものか!
反抗心も手伝って、袁紹はそれから不良行為に精を出すようになった。
偉い人物の家に侵入してみたり、柄の悪い場所に出入りして卑しい人物と付き合ってみたり、果ては他人の結婚式に乱入して花嫁をさらってみたり。
それで事態が解決するかは別として、そういう行為は楽しかった。
危ないことに夢中になっていれば、行き詰った現実を忘れられる。
それに、家の中にいても味方なんか誰もいないし、曹操と一緒に不良仲間とつるんでいた方が心が温まる。
(これは、いいかもしれない)
今頃育ての親は困っているのだと思うと、暗い満足感がひたひたとこみ上げてきた。
このまま親が手をこまねいているうちに、あの場所にも行ってしまえば……そんな希望が、袁紹の胸の中を照らしていた。
だが、袁紹は育ての親を甘く見ていた。
あの継母の執念の強さを、読み違えていた。
袁紹を引き取って育てた、三人目の母……彼女は、袁紹を自分の手で名家の当主として育てることに人生の全てを注いでいた。
袁紹の元服が近くなり、官位の話が出始めると、彼女はその化け物のような本性を現した。
「ねえ、本初……あなたは自分の生まれてきた意味を何だと思っているのかしら?
分からないなら、分かるように教えてあげるわ」
ある時、彼女は袁紹を下卑た色街に誘った。
そして、廓の裏に連れて行くと、袁紹の前に幼い子供を引き出した。
「ごらん、本初。
あなたのお仲間よ」
継母の言わんとすることは、すぐに分かった。
この子供たちは、廓で娼婦の腹から生まれたんだ。
子供たちは、やせこけて泥だらけの顔で、必死に辺りを見回す。
「父上はどこ?母上はどこ?
会わせてくれるんじゃ、なかったの?」
その言葉に、袁紹は胸を引き裂かれるかと思った。
この子たちは、自分の父も母も知らない。
袁紹が息を呑むのを見ると、継母はかすかに微笑んで部下たちに言った。
「じゃあ、もう用は済んだわ。
処分してちょうだい」
「処分……?」
袁紹がその意味を理解する前に、視界に赤が弾ける。
一瞬遅れて、袁紹はその子供たちが首をはねられたのだと気づいた。
「な、ん……!?」
驚いて言葉を失った袁紹に、継母は眉一つ動かさずに言う。
「だって、元々いらない子なんだもの。
娼婦から生まれた子なんて、本来こうやって間引かれてしかるべきなのよ。
でも、本初はこんなに不自由なく生きてる……なぜかしら?」
そう言ってこちらを向いた継母の視線に、袁紹は硬直した。
継母の目は、あの哀れな子供を見る目と同じだった。
今まで感じたことのない恐怖が、這い上がった。
継母は、娼婦の子など間引いて当然だと言う。
そして今、人ではない何かを見るような目をして袁紹を見ている。
心の中で、ボキンと何かが折れる音がした。
袁紹は、もう逆らうことなどできやしなかった。
あの継母は、己の願いが叶わないなら、自分を不用品として処分しようとしている。
自分にとって価値のない娼婦の子など、生きる価値はないのだから。
「可愛い、私の本初……あなたは私の子よねえ?
だって、娼婦の子だったら、同じように、ねえ……」
その時の母は、本当に化け物に見えた。
こいつが生きている限り、自分は絶対に逆らえない。
むせかえるような血の臭いの中で、心の底まで刷り込まれた。
実際、袁紹はその母が生きている間中、名家の仮面を外すことができなかった。
そして、胸の奥で叫び続ける悲願を切り離し、時の流れに身を任せた。
いつか、親の寿命がくれば解放されると信じて。
だが、時の流れは皆に平等であると袁紹は気付いていただろうか。
時が流れて本当の父が死に母が死に、ようやく育ての父も死んで解放されたその時……
会いたかった実の母は、知らぬ間にこの世からいなくなっていた。
袁紹が若い頃曹操と一緒に不良であったのは、本当の話です。
今回はそれを、袁紹が味わっていた疎外感や虚無感とからめて解釈してみました。
大多数の子供たちと同じように、袁紹は心を折られ、身動きを封じられてしまいます。
そして解放された時には、その願いは永遠に叶わぬものになってしまったのです。